(2)雨降りの日に置かれている傘のなかにコーラを注ごう作戦
略して『雨降りコーラ』と名付けられたその術策を執り行うにあたり、彼らのなかで一悶着があった。主たる原因は、浩次がコーラを提供するのを渋ったことである。
「俺が買ってきたものを、なんでそんな下らないことに使うんだよ」
買ってきたばかりでまだ冷えているボトルを大事そうに両腕で抱えた浩次が、涼弥の提案に悪態を吐く。涼弥といえば自分の案を否定されたこと眉根をしかめつつも、仮にここで言い返して浩次の機嫌をさらに損ねるような事態にでもなれば、雨降りコーラ作戦は不出のうちに終わってしまうと危惧して、取って付けたかのような笑みを顔面に張り付けて言った。
「そんなこというなよ、浩次。絶対に面白いって、なぁ?」
涼弥の説得にも浩次は一向に耳を貸す気配を見せず、憮然とした態度でボトルの口を開ける。シュッ、と炭酸の気が抜ける音が激しい雨音に雑じって聞こえた。そのまま口元まで運ばれたボトルを涼弥が素早く掴み、飲むのを阻止する。
「なんだよ、ジャマするなよ」
「なぁ、待てって。雨で苦しんでる人たちを見下したような目で見ているヤツをだ、俺たちが成敗してやるんだぜ。言わば俺たちは正義の味方なんだぜ」
「えっ! 正義の味方!?」と嬉々とした反応を示したのは実だった。
「ねぇ、涼弥くん。僕たちは正義の味方なの? そうなの?」
突然気色ばみ始めた実に涼弥は若干気圧されながら、「そうそう。俺たちは身勝手なヤツらを成敗するんだ」と横目で浩次の様子をうかがいながら言ったが、当の本人はというと、ボトルを掴んでいる涼弥の手をまるで親の仇であるかのように睨みつけていた。
「よーしよし、分かった。分かったぞ浩次」
子犬のように興奮した実を押し退けながら涼弥は言葉を続けた。
「それをくれたら今度、倍にして返してやるよ」
涼弥の言葉に浩次は強張らせていた頬をだるんと緩めて、「何倍だよ?」と訊ね返した。倍といえばふつう2倍のことだろ。と、浩次のがめつさに顔を引き攣らせながら涼弥は空いている手の平を葉っぱのように開いて浩次に見せ付ける。
「5倍だ」
「うわー、ぜってー嘘じゃん」
陽平がボソッと呟いて玲も小さくうなずいたが、浩次は顔に苦悶を浮かべていた。どうやら涼弥の言葉を疑いもしていないようで、それどころか、今この場でコーラを飲むか後でこの5倍量のコーラを味わうかで真剣に悩んでいるようであった。
その打算的な顔色を見透かした涼弥は、掴んでいたコーラのボトルをパッと離した。それが時間切れの合図だと勘違いして物惜しそうな色を目に浮かべた浩次に向けて、涼弥はこれで決め手とばかりに言い放った。
「7倍で、どうだ?」
7という数字から得られる幸運の印象が決断の切欠になったのかどうかは、脂肪に包まれた浩次の腹中を解剖してみないと知りえないが、その幸運を示す数字は浩次の首肯を促すだけの力があることだけは、厚く堆積した雨雲からいずれ雨が降り落ちることと同じくらいはっきりとしていた。
「分かったよ、やるよ」
浩次からボトルを受け取った涼弥は、早速スーパーの入り口付近に設置されている傘立てきまで走っていき、5本ほどある色とりどりの傘のなかから、黒に近い紺色のものをさも私物であるかのような何食わぬ顔で拝借してきた。
「試しにこれに入れてみるか」
言うや否や涼弥はボトルの口をわずかに傾けて、名残惜しそうな浩次の視線を気にせず傘の内側に注ぐ。
「ん、んー。このくらいなら重さは気付かないかな」
言いながら手に持った傘を横にいる実に渡す。
「あ、これくらいなら気付かないと思う!」
陽平は、「俺にも! 俺にも!」と実へと迫っていき、傘を手渡されるとひょいひょいと上下させながら言う。
「ああ、これなら平気だろうな」
「開いてみなよ」
玲に言われて陽平は手を伸ばして傘を体から離れた位置に持っていき、傘を徐々に平行にしていく。いつ傘のなかからコーラが零れてくるか、おっかなびっくりな陽平の姿を見て浩次が「だせっ」と笑い、陽平は「うっせ」と言い返しながら勢いよく傘を開いた。
パッと開かれた傘の内部から飛び出したのは、ほんのわずかな茶色の飛沫。注がれていたコーラのほとんどは、直接地面へと流れていった。
「あーあ」と嘆きの声を上げたのは、ずっと楽しみそうに見つめていた実。
「くそ、もっと量を入れないとダメみたいだな」
想像していたものと違った光景だったのだろう、涼弥が悔しそうに呟いた。
「陽平の開き方が悪かった」
「そうだ。すべて大谷のせいだ」
辛辣な玲の言葉と気を撫でるような浩次の科白に、陽平は手についたコーラを苛立たしげに振り払って言い返す。
「うっせーな。じゃあ、お前らがやれよ。俺だってコーラで濡れたくねぇんだよ」
「ふん、せっかく俺のコーラ上げたんだからしっかりやれよ」
浩次の居丈高な物言いにムッと眉根を寄せた陽平は、さらに反論しようとして口を開きかけたが、何か思ったのか小さく舌打ちをするにとどめた。
頭上を覆った雨空よりも険悪なムードが2人の間に漂い始めたのを見越して、涼弥が仕切り直すように、パン、と手を打ち鳴らして言った。
「そんな焦んなって、傘はまだあんだからよ」
そう言って入り口にある傘立てに視線を向けると、ビニール袋を手に下げた中年の女性がそこから赤い傘を抜き取る瞬間だった。
「あ、一本減った」
実がそう呟く。悪戯を実行するにも時間が限られているのだと悟り、彼らはソワソワと落ち着きなく、赤い傘を手に取った女性が軒下を行きすぎるのを待った。
幾分か弱まっているようにも感じられる雨脚であったが、まだ雨具なしで飛び込むには尻込みしてしまうほどの強度を維持して景色を縦断している。
雨に辟易した様子の女性は、片手のビニール袋をしっかりと握り直し、チューリップの蕾のように閉じられていた傘を開いて雨粒が路面を叩く渦中へと踏み出して行った。
「その傘の持ち主もいつ現れるか分からないよ」
赤い傘を見送ってから玲が言ったその忠告は、雨音のなかでもやけにはっきりと彼らの耳に入っていった。
「時間にも限りがあるってことか……」
「その傘、一度戻してきたほうがいいんじゃないかな」
涼弥の言葉に触発されるようにして店内を頻りに気にしながら実が口にする。
「もし、持ってるところを持ち主の人に見られたら怒られちゃうよ」
「んなもんにビビってられっか!」
弱音を口にし始めた実を鼓吹するために強気な口調で言った陽平であったが、その彼も入り口の様子が気になるようでちらちらと視線を向けている。
「見つかって店員に言い付けられても面倒だし、一度戻しておくか」
涼弥の決断に異を唱えるものいなかった。陽平がさり気なく入り口まで向かい、先ほどコーラを注いだ紺色の傘を傘立てに戻して帰ってきた。
さて、と仕切り直すために涼弥が口にしたところで、店から出てきた高校生2人組が傘立てからそれぞれビニール傘を抜き去っていった。
「残り2本だね」
残されているのは、先ほど彼らが戻した紺色の傘と、普通の傘とは違った形状をした紫陽花色の傘だった。
「あの傘、なんか面白い形だな」
浩次が言う。手元の文庫本が雨で濡れていないか眺めていた玲がしれっと、「あれは番傘だよ」と浩次の疑問に答えた。
「番傘って、時代劇に出てくるようなやつだよな」
「カラカサ小僧の元々の姿でもある」
陽平と涼弥が番傘で思い浮かんだことをそれぞれ口にした。
「カラカサコゾウ?」
耳新しい単語に目をパチクリさせる実に向けて涼弥が真面目くさった顔をして、
「空っぽの傘にコーラを入れてくる小僧のことだな」
「んなやついてたまるか。ってかそりゃ、俺たちじゃねーか」
陽平が苦笑交じりにツッコミを入れ、実にカラカサ小僧を解説する。
「カラカサ小僧ってのは、あれよ。傘布のところに一つ目があって、その下から赤い舌がベッと垂れ下がってて、持ち手が下駄を履いた脚になってる傘の妖怪」
「あ! それなら知ってる! 僕は傘オバケって呼びかたで覚えてたから分からなかったよ」
玲が本から顔を上げ、はしゃいでいる実に向けて言う。
「呼び方は地方で異なっているみたいだよ。他にも傘小僧とか、一つ目傘とかあるみたい」
「ふーん、あれ番傘って言うのか……」
浩次は二重あごをつくって納得する。先ほどの恨みがまだ残っているのだろう、そんな浩次に陽平が、「少しは頭良くなったか?」と挑発的な言葉でけしかけた。はやし立ててきた陽平のことを、浩次は厚ぼったいまぶたに包まれている瞳でキッと睨み付け、やや前傾姿勢になった。攻撃に備えた陽平は胸の前でサッと握り拳をつくって構える。
「お前ら、こんなとこでケンカすんなって……」
場所を選ばす犬猿の体勢を崩さない2人に涼弥は呆れ気味にため息を吐き、逸れていた話の穂先を修正する。
「あの番傘、どんなヤツの持ち物なんだろうな」
ファイティングポーズをといた陽平が、ふくれっ面になっている浩次の顔をチラッと一瞥してから口にする。
「きっとよ、自分だけ珍しいものを使って優越感に浸ってるようなやつだぜ」
「なら、ターゲットはあの番傘にするか。その腐った性根をコーラで正してやろう」
「コーラで正すって、よく考えてみるとすごい言葉だね……」
実の呟きに玲は、「まるでコーラが正義の産物であるかのような物言いだ」と相槌を打つ。
「いや、コーラは紛れもない正義の飲料水だ」
そう言うが早いか、涼弥は傘立てへと向かおうと足を踏み出したときだった。
「小僧ども! 私の傘に何をしようとしているのだッ!」
落雷のように出し抜けに聞こえた叱咤の声に、彼らは飛び上がらんばかりに驚いて身辺を見渡した。声の主は探すまでもなく、彼らのすぐ横で枯れ木のように立っていた。
今までは面倒くさがってやっていなかったんですが、読みづらい単語にルビをふるようにしました。やっぱりそっちの方が読みやすいですね。これからはちゃんとふるようにします。
他にもなにか読みづらい点があれば言ってください。極力直すようにします。




