(3)傘貸しジジイ
齢70くらいだろうか、いつの間にか彼ら5人の輪に加わっていたその老人は、白いカンカン帽で禿頭を巧妙に隠し、曇天を吹き飛ばすような瑠璃色に染め抜かれた着流し姿であった。洋服を着なれた彼らにとって、和装に身を包んだその老人の風貌は時代錯誤のように見えただろう。しかし、その現代との相違があの番傘を所有しているに相応しい人物であるように思わせた。
軒先の雨はまだまだ衰えを見せず、路面で爆ぜた雨滴が街の景色を濛々と煙らせている。
5人の子どもから向けられた胡散臭そうな眼つきを総身に受ける老人であったが、二十年も越えていない小童など恐るるに足らずと、あばらの浮いた胸板をさらけ出すほど身を捻りながら手に持った茶色いステッキを振りかざし、「カーッ」と、彼らを威嚇した。
「おいおい、なんだよこの爺さん」
老人と対面している涼弥の背に隠れるようにして、陽平は隣にいる実へと囁いた。
「分かんないけど、何だか怒ってるみたいだよ……」
かすかに涙声になった声で実が囁き返すと、こそこそとし会話をしている彼らを目聡く見付けた老人がステッキを頭上に掲げた高圧的な姿勢のまま怒鳴り声を上げた。
「そこの2人ぃ、何をこそこそと密通しておるッ!」
「ヒッ」と実が小さく悲鳴を上げて肩を竦ませる。そんな実を庇うようにして涼弥が一歩前進した。
「じいさん、そんな興奮してると頭の血管が切れてコロッと死んじまうぞ」
老人は実に向けていた視線を涼弥へと移す。振り上げられたステッキは怒りでわなわなと震えている。今にも脳天へと振り落されそうなステッキに怯むことなく、涼弥に続いて陽平が援護射撃をする。
「そうそう。まずは落ち着こうぜ、じいさん。今の状況を他の人が見たら、アブナイ老人が純粋ムクムクな子どもたちに暴行を加えようとしてるようにしか思えないんじゃねぇの?」
大人が仲介に入ってくれることを期待してスーパーの店内に目をやったが、なかにいる客たちは外には雨景色しかないと思って店頭で揉めている彼らには気付いていないようだった。これじゃあ、もっと騒がないと気付いてもらえないかな、と心配していた陽平であったが、老人もさすがに人目を気にして振り上げていたステッキを下ろした。
「小僧、口は達者だな」
褒められたのか貶されたのかよく分からない調子でそう言われた陽平は、黙っている浩次と玲をそれぞれ一瞥する。浩次はデカい体躯を丸めるようにして草原のダンゴ虫さながら景色へと溶け込み、玲もだんまりを決め込んでいる。どうやら2人とも面倒ごとは涼弥と陽平に任せる様子であった。
ま、いいか。と陽平は怯えた実を後方へと退け、自分が涼弥と隣り合って老人の正面へと進んだ。
老人はステッキの上端に両手を重ねて添え、目下にいる涼弥と陽平をまんじりと睨みつけて言った。
「お前ら2人が相手か」
「相手って……じいさん、俺たちとケンカでもするつもりかよ?」
「俺、ヨボヨボのじいさんに勝っても嬉しくねぇんだけど」
言いながらも陽平は好戦的な姿勢を崩さない。首を15度ほど傾けながら自分よりも頭一つ分くらい背の高い老人を睨み上げている。そんな彼の背後から玲が声を潜めて訊ねた。
「まさか本当にするわけじゃないだろうね? 相手はご老体だよ」
玲の横にいる実も気を揉みながら辺りを見渡し、無視を決め込んでいた浩次も不穏な様子に喉を鳴らして焦っているようであった。
「そうそう」
ギラギラと反目し合う陽平と老人の中空に涼弥の声が差し挟まれた。
「おじいさん最初さ、『私の傘に何をしようとしているのだ』って言って怒ったよな。おじいさんは俺たちがあの傘に何をすると思ったわけ? 俺たちはあの傘、キレイだなぁって褒めてただけなんだけど」
穏便に収めようとして涼弥はそう口にしたのだが、
「しゃあしゃあと嘘を吐くな。お前たちがあの傘にその茶褐色飲料を注ごうとしていたのはお見通しだ」
少しは冷静になったのだろう、当初あった烈火の怒りは老人の口調から感じられなかったが、その声音には静かに燃え続ける焚火のような怒気が十二分に含まれていた。
「あ、それはバレてるのね」
涼弥は嘘を繕う気もないようで、カラッとした口調で続ける。
「んなことより、じいさん、いつの間に俺たちのとこにいたんだよ。まったく気付かなかったぜ」
「ふん。小僧どもの目を欺くなど朝飯前だ」
「そっか。なんかじいさん、忍者みたいでカッコいいな、ははは」
その涼弥の明け透けな笑い声で緊張していた場の糸が、ぷつん、と切断されたように感じられた。陽平も事を荒げないように画策している涼弥の意図を敏感に悟った。研ぎ澄ませていた眼光をつるりと和らげて、「なんだ、じいさん忍者なのかー」と快活な笑い声を上げる。どんな進展を見せるのか予測もできなかった状況が改善したことで、見守っていた実や玲、浩次から緊迫感が抜けていき、それぞれ小さな笑い声を立てた。
子どもたちの笑い声に憤りを有耶無耶にされた老人は、コツン、とステッキで地面を一度叩くことで行き場を失った感情を発散する。忍者と言われて嬉しかったのだろうか、梅干しのような口から少しばかり皺を取り去って一言発した。
「私は忍者ではない」
んなことは知ってるよ、という言葉を涼弥は呑み込み、これで一件落着と目元まで垂れていた前髪に息を吹きかけて退かしていると、老人が続けた言葉に耳を疑った。
「私はな、カミサマだよ」
子どもといえど、そこそこに世間を知っている彼らはその言葉を聞いて理解した。ああ、このおじいさんとはあまり関わらない方がいいな、と。
「あ、そうですか」
陽平は淀みなく言い、浩次が自然な素振りでスーパーの店内を指さした。
「俺、ちょっと腹減ったから何か買いに行ってもいいか?」
「お、行こう行こう」と、理解の遅れている実をせっつきながら入り口へと歩いて行く。もう少しで自動ドアというところで、背後からしわ嗄れた声に呼び止められ、陽平はビクリと身を緊張させた。
「お前たちは、信じていないだろう」
「えー、信じてますよー」
陽平が振り返りながら返答をする。振り向いた先にいる老人は、振りしきる雨を背にして皺だらけ顔を憮然と寄せていた。
「いいや、信じてない」
頑なな様子の老人に、穏便に済ませる計画が破綻してしまった涼弥は、「あーもう」と後ろ髪を無造作に掻いて、そのまま口を噤んでしまった。状況を見かねた玲が小声で「どうする?」と全員に向けて訊ねた。
「どうするもなにも、関わらない方がいいよ。絶対あのおじいさん変な人だって」
押し殺した声で浩次が言った。彼はすぐにでも店内に逃げ込みたいようで、自動ドアの前に置かれた赤色のマットの上でどすどすと足踏みをする。その振動に反応して透明の自動ドアが左右に開いた。
「僕も、関わらない方が良いと思うよ」
浩次の意見に賛成であった実がそう続いたとき、雷鳴のような突然さを以ってして何やら不吉な予感が背筋を奔った。
なんだろう、この嫌な感じ。実はそう思いながら、先ほどから斜め前で閉口している涼弥の顔を何気なくのぞき込む。ずっと静かにしていたと思っていた涼弥は、まるで新しいオモチャを見付けたかのようにニタっと笑い、年老いた侍のように佇んだ老人を見つめていた。
その笑顔を見た実は、ああ火が付いちゃったと、あの変な老人とこれ以上関わらないよう店内に逃げ込む希望が砕けたことを知った。
「おじいさん」
再び歩み寄ってきた涼弥に、老人は固めていた頬を分からない程度にほころばせた。
「おじいさんがカミサマって信じてもいいんだけどさ、そのために何かして見せてよ。カミサマならなんかできるっしょ? この降ってる雨を止めたりさ、スーパーの品をぜんぶラッキョウに変えたり、向かいのコンビニの電灯を消したり、あそこにいる浩次ってやつを爆発させたり」
「えっ?!」
突然、矛先を向けられて浩次が腹を震わせて驚きの声を出した。
「ま、それは冗談だけど、自分のことをカミサマって言うんなら何かして見せてよ。そうじゃないと信じられないって」
嘲笑するようにして口にされた涼弥の主張を玲はもっともだと思った。
どのような場面においても、自分の身分を証明するにはそれが明示された証明書が必要だ、と。
涼弥に迫られている老人は、まったくもって落ち着いていた。しかつめらしい顔つきをしてステッキを右手に持ち替え、威厳たっぷりの口調で彼らに言った。
「お前たちが、今すぐにここから帰れるようにしてやろう」
その言葉に反逆するようにして雨雲から吐き出される雨が一段と激しくなり、スーパー前の舗装路で砕けた雨粒が彼らのもとまで飛んで来る。耳朶を打つ雨の乱打に心を浮かせながら、「それは――」と、涼弥は期待をこめて言葉を放った。
「この雨を止めるってことか?」
老人は釘を鉄板に打ち立てるような力強さで、大きくうなずく。そして、着流しの裾を翻して身を反転させ、メキメキと生長する樹木のような手つきでステッキを軒先の雨空へと掲げた。
あのステッキから魔法のようなものを出して、空から雨雲をすべて取り去ってくれるのだろうか? 浩次は知らず知らずのうちに自動ドアから離れていた。つい先刻まで店内に逃げ込もうとしていたことなど忘れて、これから起こる展開に胸を躍らせながら、彼は仰いだ灰色が真っ青に晴れ渡るのを今か今かと待った。
それは彼だけが例外でなかった。
耄碌ジジイを少しからかってやろうと思っていた涼弥の瞳にも一条の輝きが宿り、胡散臭そうな眼つきをした陽平も、普段と変わりなく冷めている玲も、緊張気味に見守っている実も、掲げられた老人のステッキの先端から何かが飛び出すのを心待ちにしていた。
彼らの期待を一身に背負った老人の口から、ふはぁ、と気合を入れるような声がもれた。彼らはこれから起きる出来事を取りこぼさないよう、さらに瞳を拡張させる。
空に向けられていたステッキの先端がわずかに振動した、かと思えば、空と大地を切り裂く稲妻のように空を斜めに縦断した。素早く動いたステッキは、背後で様子を見守っていた彼らの目前を通りすぎていき、12時から6時へと向かう時計の針のような軌道を描いて入り口脇にある傘立てを示してピタリと停止した。
「あそこにある、私の傘を使いなさい。そうすれば雨が止まる」
ニヤッと笑った老人の口から、銀歯がのぞいた。




