太陽のいらっしゃいませ
ライツェンシュタインは雨の中を走っていた。仕事場から出るときは小雨だった。仕事に必要な資料を会社に取りに行った帰り道だった。この土地は霧の出るときもある。強い雨には変わらないだろうと思っていた。案の定、雨は駅の近くになってもパラパラと降り続いたが、ずぶ濡れになるほどでもなかった。
ライツェンシュタインは日ごろ目にしていたが、一度も入ったことのないパン屋に入ってみた。何が彼をそうさせたのかは分からない。ただふとこげ茶の看板が目に入り、ウィンドウに並ぶパンが見えただけだ。通りに面している店は小さく、一度通っただけでは見逃してしまうかもしれない。けれど白塗りの扉を開けると意外に中は広く、こざっぱりと清潔で白い壁に茶色い棚が並び、かわいらしかった。
戸に付いていたベルが鳴り、店員が顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
高い声が店内にいき渡る。
ライツェンシュタインは一呼吸置いて、彼女を見た。目が合うと店員は少し目を逸らし、意を決したように言った。
「あの、よかったら使いますか」
店員からかわいらしいレースの付いた白いハンカチを、ライツェンシュタインは受け取った。
ライツェンシュタインはその日から頻繁にパン屋に通うようになった。お昼ごはんにと、買ったプレッツェルがとても香ばしく、美味しかったからだ。
いつからだろうか。ライツェンシュタインがパン屋に通う理由がもうひとつ増えたのは。初めて会ったときにハンカチを借りたその時から? それとも一言二言の短い会話を交わすうちに? 理由はどうであれ、ライツェンシュタインは自分の彼女への想いに気が付いた。
ライツェンシュタインの仕事が忙しくなり、昼休みに仕事場を抜け出せない日が続いた。
「イライラしてるな」
彼の同僚が、ライツェンシュタインに声をかけた。ライツェンシュタインは書類の仕分けの作業の手を止めて、同僚の言葉に返事をする。
「そうかな」
「貧乏ゆすりしてるぜ」
同僚はライツェンシュタインの足元を指差した。
「仕事が忙しいのは分かるが、足じゃなくて手を動かさないと仕事は終わらない」
「分かってるよ」
ライツェンシュタインはこの仕事が嫌いなわけではない。たまに退屈もするが、やりがいも感じている。
「最近、パン屋に行ってないんだ」
同僚がにやりと笑って、大げさに叫んだ。
「パン屋ならどこにでもあるぜ。ああ! お前の好きな彼女がいるあのパン屋か!!」
「おい、彼女は関係ない。あそこはパンがおいしいんだ」
「何ていったっけ? 確か太陽の……」
「うるさいよ」
昼休みに職場を抜け出し、パン屋に走る。ライツェンシュタインは仕事が忙しくなり、それが難しくなったころ、彼女に言った。
「迷惑じゃなかったら、仕事の終わりに寄ってもいいかな」
夜来れば他の客もいない。これまでよりは彼女と話せる。そんな気持ちもあった。
「いらっしゃいませ」
ライツェンシュタインは、パン屋の店員さんの鈴が弾んだような声を聞くと胸が弾んだ。それだけで仕事の疲れが吹き飛んだ。パンは売れてしまって品数が少なくなったが、彼女は彼が好きなパンをいつも残しておいてくれた。
ライツェンシュタインが海外の港町へ引っ越すことになったのは、それからしばらく経ってのことだった。
企業の海外進出。ライツェンシュタインが勤めていた会社の新しい社長の意向だった。
数年後、ライツェンシュタインはパン屋「ゾネ」がある小さな町に戻ってきた。仕事が一段落し、長期の休みを取って、戻ってきたのだった。
小さな電車を降りて、懐かしいプラットホームに降り立ったとき、不意に女性の笑い声が聞こえた。振り向くと見知らぬ女性が楽しそうに友人と話している。
「誰を期待しているんだか」
ライツェンシュタインは呟き、小さく笑った。
おとぎ話じゃあるまいし、運命の再会を信じているわけでもない。本当になんとなく、あのパン屋に行きたくなっただけだ。
彼はそう思った。
パン屋「ゾネ」は変わっていなかった。壁の茶色の塗装が少し薄くなっているそうな気もするが、それ以外はライツェンシュタインの記憶とほぼ変わらない。暖かみに溢れていた。
結局、ライツェンシュタインは「ゾネ」を訪れなかった。扉の前まで来て、ためらってしまった。流れた時が彼の邪魔をした。
ライツェンシュタインは町に残った彼の友人から「ゾネ」の店員、エミリアの婚約を聞いた。そのとき初めて彼女の名前を知ったのだった。
読んでくださって、ありがとうございました。
片思い、一歩手前。そんな彼と彼女のお話になりました。
言い訳をさせてもらうなら、時間がなかったのです。
悪い部分はたくさん分かっています……。
感想、ご意見、よろしかったら、お願いします。
逆にこのお話の良い部分、あるんでしょうか?
なんてマイナスな考えなのは、ゴールデンウィークがあっという間に終わってしまったから……。




