太陽の笑顔
エミリアは彼の姿を見つけると、シャッターに掛けていた手を下ろした。
「もう遅いかな」
「いえ、まだ大丈夫ですよ」
エミリアが働いているパン屋「ゾネ」は小さな駅のすぐ近くにある、とても小さい店だ。エミリアは毎日閉店間際にパンを買いにくる背が高く、いつも笑っているような、照れているような顔をした彼が来るのを心密かに待っている。
初めて会ったのは、エミリアが「ゾネ」で働くようになって三日経ったお昼だった。その日は休日で黒い雨がシトシトと降っていた。小さい雨粒がもの寂しそうに、申し訳なさそうに降っているように見えたのは、エミリアがまだ「ゾネ」に慣れていなく、エミリア自身が居心地が悪かったことが理由かもしれない。
とにかく、エミリアはため息を吐きながら、お客が一人もいない、パンだけが所狭しと並べられた店内と、音もなく雨が降る外の景色を見比べていた。
カランカランと店の扉のベルが鳴り、一人の男の人が入ってきた。エミリアは
「いらっしゃいませ」
と暗い気分を振り払うように明るく言った。見ると彼は傘を持っていなかったようで、黒い髪とシャツがしっとりと濡れている。少し迷って、そしてエミリアはおずおずと彼にハンカチを差し出した。
「良かったら、お使いください」
彼は驚いたように顔を上げ、そしてにっこりと、笑って、エミリアのハンカチを受け取った。
「ありがとう」
エミリアはそのときの彼の笑顔が忘れられない。彼ははっきりと笑ったのだ。まるで雲がさあっと晴れ、太陽が美しく輝いたように。
彼はそれから毎日のようにパンを買いにくるようになった。
「ここのパンは、この前食べたのだけど、おいしいね」
「ありがとうございます」
「何かお勧めはあるかな」
「今はプレッチェンが焼きたてで、お勧めです」
エミリアは一言二言の彼との会話が楽しみだった。たいていは緊張してそっけなくなってしまって、後で反省した。
彼はあるとき言った。
「仕事が忙しくなるんだ。お昼にここに来ることが出来なくなってしまう」
「そうなんですか。大変ですね」
エミリアはさびしく思ったが、口には出さなかった。
「閉店時間ぎりぎりになるかもしれないけど……」
彼は言いにくそうに右手を口元に当てた。
「迷惑じゃなかったら、仕事の終わりに寄ってもいいかな」
「はい、もちろん。うれしいです」
またお店に来てくれるんだ。エミリアは嬉しくなり彼の顔を見上げると
「良かった」
と彼はにっこりと笑っていた。
その日から「ゾネ」の一日最後のお客は、エミリアが待ちわびる彼となった。
「今日も来ないわ」
エミリアは閉店時間を10分過ぎて、「ゾネ」のシャッターを下ろした。ずっとシャッターに手を掛けて通りを見つめていたが、彼が現れることはなかった。
彼がお店に来なくなって一週間。エミリアは冷たく凍えてしまった手をぼんやりと見つめた。
(私はどうして彼を待っているのかしら)
エミリアは考えた。かじかんだ指を少しずつ握りながら、頭に浮かんでくるのは彼の笑顔だった。
(名前も知らない、ただのお客さま。彼が「ゾネ」に来なくなれば、私は会えなくなってしまう……)
エミリアは街灯がさびしげに灯る通りを見つめた。彼がいつも小走りでやってくる向こう。どんなに目を凝らしても、そこには暗闇が広がるばかりだった。
エミリアは町に色とりどりの花が咲くころ、結婚式を挙げる。
「お祝いの手紙、たくさん届いてるよ」
静かな朝、エミリアが紅茶を飲んでいると、叔母が郵便受けから10数通ほどの手紙を持ってきた。脇に抱えていた新聞をテーブルにぞんざいに置くと、そのうちの一通を声に出して読んだ。
『親愛なる、パン屋のゾネさま。この度はエミリア・ガロッティ様のご結婚おめでとうございます。いつもエミリア様の笑顔には癒されておりました。エミリア様の笑顔を独り占めされてしまうなんて悔しいです……』
「だーれ? それ」
エミリアは苦笑しながら訊いた。叔母は困ったように言った。
「ミロラドビッチよ。あの子こんなふざけた文章書いて……」
「叔母さん、分かってるわ。ミロとは長い付き合いだもの。許してあげて」
「あなたが良いのなら、いいわ。じゃあ次」
『結婚おめでとうございます。エミリアが結婚すると聞いたとき、とても驚きました。少しぐらい相談してくれても良かったのに。友達として私の次に幸せになるよう祈ってます』
「それ、ケイトね」
「正解よ」
エミリアは友達の顔を思い浮かべた。ケイトは遠くに住んでいる友達で、二週間後に控えるエミリアの結婚式に、わざわざ飛行機で来てくれる。
それから次々と叔母は手紙を読んでいった。そのたびに書いた人の顔を想っては、エミリアは幸せな気持ちになった。
「これが本日、最後ね」
叔母は仰々しく一通の手紙を開いた。
『結婚おめでとうございます。エミリア様。私はあなたのお名前を呼んだことはありません。だからこの場でこうしてお名前を書くことに、少し違和感がございます。いつもの通り、「パン屋さん」と書こうと思います。パン屋さん、とてもおいしいパンありがとうございました。毎日食べても全然飽きませんでした。しかし私がゾネに通っていた理由は他にもあります。それはいつも明るく接客してくれるパン屋さんです。仕事で疲れているとき、嫌なことがあったとき、あなたは私を太陽のように照らしてくださいました。ありがとうございました。いつまでもお幸せに』
「あら、知らない名前ね」
手紙を読み終わった叔母は、首を傾げてエミリアに手紙を渡した。エミリアにも手紙の差出人の名前に心当たりはなかった。
「誰かしら」
「そうねえ。文面からしてお得意様よねえ」
エミリアと叔母は二人で考えていたが、しばらくして諦めた。
エミリアは結婚を機にエミリアの叔母が開いたパン屋「ゾネ」を正式に引き継いだ。
「ゾネ」意味は「太陽」。エミリアは思うのだった。差出人の分からないあの手紙に書いてあったような、太陽のように人々を少しでも暖かくしてあげることのできるパン屋にしていこうと。
エミリアはパンの仕込みを夫とともに始めていた。まだ太陽が昇る前。あたりは暗闇に落ちている。
「そう言えば、昔とても笑顔が素敵なお客様がいたわ」
エミリアは仕込みの手を止めずに言った。
「へえ」
エミリアの夫も忙しく働く手を止めない。エミリアは思わず笑顔を作って
「どうしているかしら」
と呟いた。
キラキラと朝日が昇り始める。今日は気持ちの良い、晴天だ。
お久しぶりです。
久しぶりに書いたので、変な文章があるかもしれません。
ご指摘、ご意見、ご感想。
よろしければ、よろしくお願いします。
次に彼目線の文章を書いたら、おしまいです。




