七十五
これは、逃げている事になるのだろうか。
これは、闘っている事になるのだろうか。
『箕柳さん。逃げないで下さいね』
『箕柳。箕柳。みやぎっ』
聖月と奏斗の声が刻まれて、消えそうにない。
未来永劫、消える事はない。
殺した。殺したのだ。俺が。奏斗を。
俺が逃げたから。
毒竜という生まれから逃げたから。
毒竜という生まれから逃げたくて、記憶を消し去ったから。
ずっとずっとずっと。
たったの一人。洞窟の中で暮らしていればよかったのだ。
雪と氷で覆い尽くされ、眩い白光で満ち満ちていた洞窟の中で。
洞窟の中の雪と氷と同化して生き続けていれば。
ずっとずっとずっと。
奏斗を殺さずに済んだのだ。
ならば、
今からでも、
もう犠牲者を出さない為にも、あの洞窟に戻ろう。
己が毒で誰も傷つける事のない安寧の地へと戻ろう。
『箕柳さん。逃げないで下さいね』
『箕柳。箕柳。みやぎっ』
これは、逃げている事にはならないのだ。
これは、闘っている事になるのだ。
ずっとずっとずっとたったの一人でこの己の毒を鎮める闘いを続けるのだ。
闘っているのだ。
逃げているわけではないのだ。
決して。
本当に。
逃げていないと言うのならば何故、聖月に言わずに忍んで出てきたのだ。
事情を話せば聖月は分かってくれる。敏く聡い子だ。咎めながらも見逃してくれる。
そう、分かっていながら何故、忍んで出てきたのだ。
やましいからだろう。
本当は逃げているからだと分かっているから、忍んで出てきたのだろう。
傷つけたくない。
己自身も他者ももう、意識なく傷つけたくない。
ゆえに、あの洞窟へと舞い戻るのだ。
それの何が逃げている事になるのだ。
逃げてはいない。
闘っている。
毒と闘い続ける。
ここで。
雪と氷で覆い尽くされ、眩い白光で満ち満ちていた洞窟の中で。
「あ………あっ。あ゛っ!? ああああああああああ!!!???」
間違いだったのかもしれない。
記憶違いだったのかもしれない。
そうであってほしいと切望する反面、ここだとここに連れて来た肉体が訴える。
おまえは七十五年間、ここで忍んで生きて来たのだ。
「あああああああああああ!!!」
なかった。
洞窟はあった。
なかったのは、洞窟の中のもの。
己に必須のもの。
己を護ってくれる依り代を形成する雪と氷が、なかったのだ。
(2025.1.27)




