最終話
日の光が大きくなっていく。永野は橋を渡り終えると駐車場に車を停め、二人を下ろすと海水浴場へと向かう。道路を挟んだ向こう側のすぐ先に海が見える。花怜は白い砂浜に降り立つと潮風に吹かれる感覚に目を細めた。三人だけの砂浜に波の音だけが聞こえる。朝日に照らされた波打ち際も驚くほど透明で美しかった。
「本当に綺麗な海。見てますみん! すごい、よ……ますみん?」
隣に真澄がいない事に気づいた花怜は慌てて振り返る。少し後ろで膝をつき、苦しそうに呼吸する真澄を永野が支えていた。
「ますみん!!」
花怜は駆け寄ると同じく真澄の体を気遣った。そして以前真澄が潮風が苦手だと言っていた事を思い出す。
「そうだよ、ますみん潮風苦手だって言ってたじゃん! もういいよ、帰ろう? ますみんを安静にさせなきゃ」
「ううん、大丈夫。花怜、私もっと海が見たいの。近くまで連れて行ってくれる?」
「え、でも……」
「お願い」
顔中に玉のような汗を浮かべ苦しそうに肩で息をしながらも微笑む真澄に本当に大丈夫なのだろうかと花怜は永野を伺い見る。永野は花怜の視線に何も言わずに頷くだけだった。
「ますみん、あたしに掴まって」
肩に手を回させ、真澄を立ち上がらせる。真澄が小さな呻き声を上げたが、花怜は戸惑いながらも真澄の願いを叶えてあげようと少しづつ、少しづつ歩みを進める。
「ありがとう、花怜。ありがとう、永野さん。……ごめんね」
蚊の鳴くように呟かれた声は花怜の耳に届くことはなかった。穏やかな波音が近づいてくる。朝日に照らされたどこまでも透明で美しい海。真澄の体ががくりと力が抜けそうになる。それを花怜は力強く支えた。
「ます……え? ま、ますみんどうしたの!?」
もう少しだと励まそうと真澄を見て驚いた。顔を先程よりも青白くさせ、汗が幾筋も流れ落ちている。呼吸も荒く、そして何よりも肌が少しづつしわがれていっていた。
「ますみんもう帰ろう! これ以上は……!」
「かれん、大好きだよ……ゆるしてね」
「え?」
真澄は精一杯の笑顔を向けると花怜の体を突き飛ばした。花怜は小さく悲鳴を上げながら柔らかな砂浜に尻もちをつく。慌てて真澄を見ると、真澄はしわがれていく体をそのままに海へと向かって歩き続けていた。
「待って! 待ってますみん!! だめだよ、死んじゃうよ!!!」
真澄を止めようと立ち上がるが永野に腕を掴まれ止められた。振りほどけない永野に苦戦しながらも真澄に大声で叫び続ける。ふと、真澄が振り返った。微笑んだその顔はとても穏やかで、美しかった。
「ますみっ……!」
そして再び海へ向かって歩き出す。その水位は太ももまで浸かっていた。真澄の体から白い煙が上がり始める。まるで海に溶けだしているようだ。そこでようやく花怜は理解した。
「まさか、あの白い粉って……!」
「……そうだ、塩だ」
悲痛な声を上げ己を呼び続けてくれる誰よりも大切な友達の声が嬉しかった。もう振り返らない、いや振り返ってはいけない。あの子のもとへ帰りたくなるから。
下腹に手を当て優しくさすった。だがその間にも足を止めることはしない。これ以上犠牲者を出すわけにはいかない。そしてこの連鎖はここで断ち切らなければならないのだ。始めからこうすれば良かった。そうすれば、あの優しい少女を傷つけることはなかったのに。
なのに、嬉しい気持ちが込み上げてくる。出会えてよかった。誰よりも自分を気にかけてくれた子。友達になりたいと言ってくれたあの日の照れた顔はずっと大切な宝物。
「ごめんね、ダメなお母さんで……」
海の水に体が溶けていく。きっとお腹の子も、真澄の中に宿るものもこのまま一緒に消えて無くなるのだろう。だけど、それでいい。できることならこの母なる海と一つになっていつまでも一緒にいよう。
真澄の意識は海の中へと消えていった。
「ますみん……なんで……ますみっ……!」
海に消えていった友達を見届けてしまうと力なく座り込んだ。波打ち際に何度も波が小さく押し寄せる。すると波に乗って輝きを放つ小物が花怜の手元に流れ着いた。花怜はそれを拾い上げると目を見開いた後、ぎゅっと握り締めながら胸元に押し付ける。
「うわぁーーーっ!!!」
子どもの様に泣く花怜を永野が慰める。花怜は永野の胸元に寄りかかるといつまでも泣き続けた。握り締めた安産祈願のお守りが手の中で拉げるのも構わずに。
◇
時が経ち、いつもとは違う寂しい日常が戻ってきた。
警察はこの度の大規模火災を教団の者による火の不始末であったと発表した。そしてその火事によって多数の死傷者をだしてしまい、身元不明と思われる犠牲者も数多くいることも世間に公表した。現在身元を特定するために尽力しているという。
この発表を聞いた花怜は複雑な気持ちであった。この火事によって多くの証拠や資料は消えてしまっただろう。だが地下にあったミイラ化した者達はきっと無事なはずだ。現に父敬三の遺体は永野と田辺英正のおかげで秘密裏に家に帰してもらう事ができたのだ。
敬三の変わり果てた姿に泣き崩れた祖母の姿を花怜は一生忘れることはできないだろう。しかし、祖母は花怜を責めることも深く話を聞くこともしなかった。それどころか、花怜が無事に帰って来たことを喜んでくれた。
祖母は言った。この世には知らなくていい事が沢山あると。それは以前も言っていた事だ。きっと祖母は始めにミイラ化した死体を発見した友人夫婦が消えてしまった事を未だに怖いことだと思っているに違いない。
だからこそ、孫を守るためにも何も触れない事を選んでくれたのだと感じた。そして花怜も今回の事で身を以て知ったのだ。時として深入りすることは大きな責任と代償を負わされるかもしれないという事を。
そして時間はかかるだろうが、ミイラ化した身元不明の人達も近い内に必ず帰るべき場所へ帰れるであろう。これは市議会議員の責任として必ず果たすと英正が約束してくれた。だが教祖という絶対的な存在がいなくなった教団はきっとすべての罪を着せられ解体させられるのだろう。
花怜は父の眠る墓の前でそう報告していた。花怜自身も元の生活に戻るために目をつぶらなければならない事が沢山ある。そして静かに眠る真澄のためにも。ささやかな風が通り抜けた。父がそれでいいと言ってくれた気がした。
「挨拶はすんだのか?」
「はい。大学に無事合格した事も伝えました」
嬉しそうに合格祈願のお守りを掲げる花怜にそうかと永野が呟く。永野の隣に並んでこれから先どうするのかを話した。永野は東京に戻り、この事件を報告しながらも落としどころを決めなければならないらしい。事件の全貌が全貌なだけにやはりあまり大事にはできないようだ。これから忙しくなる永野との別れに寂しい気持ちになる。
「花怜は大学に行った後はどうするんだ?」
「もちろん美祢に帰っておばあちゃんと一緒に農業をするつもり。あ! 野菜できたら永野さんに沢山送るから楽しみにしててね!」
明るく笑う花怜に永野も笑顔で返した。ふと、花怜が悲しそうに顔を伏せる。
「ここにはお父さんと、ますみんがいるから……」
だから必ず帰って来る。今度は強い意志を宿した目でどこまでも広がる美祢の青空を見上げた。まるで遠くへ旅立ってしまった二人の姿を見るように。永野もその視線の先を追いかけた。
「……俺も、また君に会いにここへ帰ってくるよ」
美祢の事、嫌いじゃないしと付け加える。
「楽しみにしてる!」
永野の車で家まで送ってもらう。家の前で下ろしてもらうと、暫しの別れに名残惜しさを感じながらも最後は笑って別れた。車が見えなくなるまで手を振り続ける。
「よし! あたしも準備しなきゃ」
花怜は気合を入れると玄関へ向かった。今は大学入学と入寮へ向けて身支度をしなければならない。花怜が玄関を開けると祖母が笑顔で迎えてくれた。
「ただいま! おばあちゃん」
祖母のもとへ必ず帰る。この約束をこれから先も果たしていかなければとお守りを優しく握りしめた。




