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無表情商人と秘密の小部屋

最悪のコンディションは変わらない。

一睡もしていない。

原因は敵でも交渉でもなく、自宅の秘密部屋とスルメ。

アレクシスは襟元を整えながら、最後に一度だけ視線を向けた。

あの小さな扉は固く閉ざされている。

「……完全に、怖がらせたな」

肩を落とし、踵を返す。



屋敷の前。

黒の車が静かに待機している。

運転席のドアの前で青年が、姿勢よく立っている。

「おはようございます、旦那さま」

軽い声音。

整った顔立ち。細身。

どう見ても戦闘向きじゃないのに、なぜか生き残るタイプ。

レオン・グレイフォード、21歳。生活秘書。

「遅いですね」

「問題があった」

「見れば分かります。顔に“やらかしました”って書いてある」

「書いていない」

「書いてます」

即答。遠慮ゼロ。

車が走り出す。

都心の朝は、まだ眠りから覚めきっていない。

真夏だが、山脈から吹き下ろす風が涼しい。

淡い光の中を、滑るように進む。

レオンはバックミラー越しにちらりと見る。

「で?」

「何がだ」

「三ヶ月ぶりの帰宅の感想」

「……スルメがあった」

「意味不明です」

「私もだ」

「…」

少しの沈黙。

レオンがため息をつく。

「何したんですか」

「……」

「黙るってことは、危機的状況ですね」

「……怖がらせた」

ハンドルを握る手が、一瞬だけ止まりかける。

「……は?」

「私のせいだ…多分」

「いや、それは……」

言葉を探して、結局こうなる。

「会頭は無愛想だけど紳士だと思ってたのに」

「まさか獣欲を抑えられなくて奥様を怖がらせるとは」

―なんだ、こいつは見てたのか?

「黙れ」

信号待ち。

レオンは前を見たまま、淡々と言う。

「謝りました?」

「まだだ」

「じゃあ終わってます」

「断言するな」

「だって終わってるでしょ」

容赦がない。年齢21とは思えない図太さ。

「……可愛かったんだ」

ぽつりと落ちた言葉。

レオンは一瞬だけ表情を変える。

「……ああ」

軽口をやめる。

「それはちゃんと謝らないとダメですね」

「分かっている」

「分かってない顔してますけど」

「お前は鏡か」

「優秀な秘書です」


仕事は、いつも通り地獄だった。

巨大貨物輸送船の奪還後処理。

保険、再契約、各国への調整。

アレクシスは完璧に指示を出し続ける。

「その契約は切れ」

「再保険は三層に分けろ」

「ルート変更。北回りだ」

冷静。正確。無駄がない。

だが。

書類にサインする手が、ほんの一瞬だけ止まる。

脳裏に浮かぶのは、あの目。

驚きと、怯え。

――心が、妙に重い。

昼。

レオンが資料を持ってくる。

「旦那様」

「なんだ」

「ここ」

書類を指で叩く。

「数字、ずれてます」

「……訂正しろ」

「自分でやってください」

「命令だ」

「横暴ですねほんと」

言いながらも、さっと修正する。

そして、ぽつり。

「で、どうするんですか」

「何がだ」

「帰ったあと」

アレクシスは一瞬黙る。

「……謝る」

「それだけ?」

「それ以上何がある」

レオンは肩をすくめる。

「それで済むなら、人類はもう少し平和ですよ」

「含みのある言い方をするな」

「経験談です」

21歳のくせに妙に説得力がある。

腹立たしい。


日が落ちる。

「今日はこれで終わりです」

「もう少し仕事をする」

「現実から逃げないでくださいよ」

「サメの餌になりたいか」

「はいはい、安全運転で送ります」

屋敷に戻る。


朝と同じ静けさ。

だが、灯りはついている。

じっとりと湿気を含んだ夏の熱気が体にまとわりつく。

アレクシスはゆっくりと寝室へ向かう。

いた。

隠し扉の前。

小さく座り込むアンジュ。

まるで、巣穴の前の兎。

「……出てきたのか」

びくり、と肩が揺れる。

顔を上げる。

怯えではない。迷いと、気まずさ。


沈黙。


先に口を開いたのは、アレクシス。

「……すまなかった」

アンジュの目が、少し見開かれる。

「昨日のは、乱暴だった」

まっすぐに言う。

アンジュは視線を落とし、少し考えてから。

「……びっくりしただけ」

小さく。

「怖かったわけじゃないの」

「……そうか」

胸の奥の硬いものが、少しだけほどける。

アンジュは扉を見る。

「あのね」

「なんだ」

「ここ、私の部屋なの」

「知っている」

「違うの」

首を振る。

「何かを隠したり、

逃げる場所じゃなくて」

少しだけ恥ずかしそうに。

「好きなもの、集めてるの」


間。


「変?」

「いや」

即答。

「付加価値は高い」

「それ褒めてる?」

「最大限に」

空気が、少し柔らぐ。


アンジュは立ち上がり、扉に手をかける。

「……入る?」

試すような声。

アレクシスは無言で頷く。


アンジュが小さく笑う。


扉が開く。

甘く、柔らかい空気。

花とレースと貴石、徹底した世界。

「……本気だな」

「本気よ」

誇らしげに言うんだな。

アレクシスは一歩踏み込む。

戦場でも、商談でもない場所。

なのに妙に緊張する。

背後から、アンジュの声。

「ね」

「なんだ」

「ここでは、優しくして」

一瞬、言葉に詰まる。

そして。

「……努力する」

不完全だが、嘘はない。

アンジュは小さく頷き、隣に並ぶ。

扉が閉まる。

外界を切り離した、小さな巣穴で。

ようやく二人は、同じ速さで呼吸をした。

真夏の夜はまだ始まったばかりだった


アンジュの秘密部屋のベッドに並んで座る。

言葉がない。

私は困っていた。

もしこれが仕事なら。

分析する。

戦略を立てる。

最適解を出す。

だが今は、何も思い浮かばない。

そのとき。

アンジュが手を伸ばした。


ふっくらとした指が、私の頬に触れる。

そして、優しくたわむ。


「おかえりなさい。お仕事おつかれさま。」そう言ってアンジュはふわりと笑った。


その瞬間。


理性が消えた。

気づけば、私は彼女を抱き寄せ、ベッドに押し倒していた。

彼女は驚いた顔をしたが、今度は逃げなかった。

少しはにかんで、微笑んでいた。

私は思った。

生まれ変わる必要はない。

上着にならなくてもいい。

私はこのままで。

彼女に触れられる

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