5.私たち結婚しました!
その日の ローウェル氏との商談は、いつもより少し長引いた。
この天然ガス輸送プロジェクトについては何度も商談を重ねていた。
結論としては成功だ。
投資条件は妥当。
リスクも許容範囲。
だが用心するに越したことはない。
私は輸送に欠かせないセキュリティガードの強化を模索していた。
これは次回の商談までの課題としておこう。
書類を閉じ、私は立ち上がった。
そのとき。
「パパお茶のおかわりはいかが?」
涼やかな落ち着いた声が降ってきた。
ローウェル氏の娘だ。
夜会の時と同じように金髪を高く結い上げ、華やかな化粧をしている。
しかし今日はどことなく雰囲気が柔らかい。
そして少し猫背だ。
「ああ、アンジュ頼むよ。」
お茶を淹れる娘をみていた ローウェル氏が、ふと椅子の背にもたれた。
腕を組む。
そして、どこか楽しそうな顔で言った。
「ところで」
ゆっくりとこちらを見る。
「どうかね、うちの娘は」
したり顔だった。
私は一瞬、思考が止まった。
アンジュがお茶を淹れ終わって退室しようとしている。
お茶のポットを持っているのは
玄関でコートを預けたとき、あの手。
あの声。
その次の瞬間。
私は気づいたら床にいた。
伝統的な最敬礼の姿勢。
つまり、土下座だ。
「お嬢さんを私に下さい!」
部屋の空気が静まり返る。
ローウェル氏は目を丸くした。
そして。
次の瞬間、豪快に笑った。
「どうする?アンジュ。」
「ええ。ヴァルハルト様に嫁ぎます。」
あまりにもあっさりした返事だった。
ローウェル氏は机の上の書類を指差した。
「なら、ここにサインしなさい」
アンジュは近づく。
机の上の書類を見る。
そして首を傾げた。
「?」
「婚姻契約書…」
ペンが渡された。
アンジュは一瞬だけ私を見た。
私はまだ土下座の姿勢のままだった。
しばらく沈黙。
そして。
アンジュは小さく微笑んでからペンをとり、さらさらとサインを書く。
ローウェル氏は満足そうに頷いた。
「よし」
書類を丁寧にたたむ。
片手に持つ。
そして、にやりと笑った。
「それから家を用意してある」
私とアンジュを交互に見る。
「今日からそこに住みなさい」
私は顔を上げた。
「は?」
ローウェル氏はすでに出口に向かって歩き出していた。
婚姻契約書をひらひらさせながら。
「この契約書はパパが預かっておくよ」
振り返る。
実に楽しそうな顔で。
「大事な書類だからね」
アンジュは小さくため息をついた。
「……パパ、絶対かなり前から準備してたでしょ」
ローウェル氏は肩をすくめた。
そして、婚姻契約書を見ながら、満足そうにほくそ笑んだ。
ローウェル氏が退室したあと。
部屋には、私たち二人だけが残された。
沈黙。
私はまだ床にいた。
土下座の姿勢のまま。
思考が追いつかない。
先ほどまで商談をしていたはずだ。
それが今は、 結婚が決まっている。
アンジュが私を見ていた。
少し困ったような顔で。
そして言った。
「荷物を持ってくるから、待っててくださる?」
私は何も言えなかった。
彼女がこの状況を受け入れているらしいことに、驚愕していた。
アンジュは部屋を出て行く。
静かになった。
私はようやく体を起こした。
しばらくして彼女は小さなスーツケースを持って戻ってきた。
そして、まるで散歩にでも行くみたいな口調で言った。
「さあ、帰りましょう」
帰る。
その言葉が妙に胸に残った。
アンジュは私の隣に立つ。
少しだけ間があった。
私は思った。 手を。
繋いでほしい。
しかし言えなかった。
私たちは並んで歩き、ローウェル邸を出た。




