《四》大切な家族──それは……どうか、ご容赦を。
木漏れ日の差し込むもとで、精悍な顔つきをした黒い甲斐犬が、咲耶を見下ろしていた。吹き抜ける冷たい風よりもなお、鋭い声音が辺りに響く。
「咲耶様は、御身に対する危機感がなさすぎます」
犬朗に、いまのうちにとうながされ、赤虎毛の犬がふたたび札に封じ込められる前に、黒虎毛の犬を呼びだした。直後、咲耶は生真面目で心配性な眷属に、説教をくらう羽目になったのである。
「んな怒るようなコトかぁ? お前、深読みし過ぎ。つーか、そのほうがよっぽど咲耶サマに失礼じゃね?」
ふわぁーあ、と、わざとらしいくらいの大あくびで茶々を入れる隻眼の虎毛犬に、咲耶もおずおずと同調する。
「えっと……私、うまく言えないんだけど。
その、犬貴とか犬朗のこと、そういう風に見てなかったのは確かだし、危機感がなかったっていえばそうなんだけど……。なんていうか、犬朗って『お兄ちゃん』みたいだし……」
「咲耶様……」
あきれたような犬貴の眼差しに思わず首をすくめる咲耶の前で、まるで幼子に言い聞かせるように、生真面目な甲斐犬が口を開く。
「我らは貴女様の手足となる下僕。主様の意に添わぬことをしないのが絶対の流儀。
ですが、それも個々の資質と器量次第なのでございます。特にこやつは、何かと破廉恥な行いを繰り返す阿呆。しっかりと公私の区別を躾けていただかなければ。そもそも、主従で同衾などもってのほかであり──」
「あの、あの、犬貴? お叱りはごもっともなんだけど、早く先に進まないと神獣ノ里に私ひとりで行かなくちゃならないわけで……」
長々と続きそうな小言に、申し訳ない気分を抱えつつも、先を急ぎたい咲耶はおそるおそる口をはさむ。隣で、うっとうしそうに耳の後ろをかきながら、ぼやき口調で犬朗が言った。
「そうそう、せっかくタンタンが初日に近道して、昨日は咲耶サマが遅くまで頑張ってくれてよ? 目的地まであとわずかって時に、お前のツマンねぇ説教でその努力をムダにさせんのかって話だぜ」
瞬間、黒虎毛の犬が短く吠えた。赤虎毛の犬の袷の胸ぐらを乱暴に引っつかむ。
「貴様ッ……なんだそのふてぶてしい態度は! 反省する気は微塵もないな?」
「ああ、まるっきり、これっぽっちもねぇな。
お前には解んねぇだろうけど、俺は俺なりに、咲耶サマをガッチリ護れる体勢で一晩過ごしただけだっての。……そりゃ、ちっとばかしの役得感があったのは事実だけどな」
「やはり、貴様ッ」
「あーっ、もう終わりっ! これで終わりにして! 出発しよ、出発! はいコレ、主命だからね? ふたりとも解った!?」
延々と戯れ合っていそうな虎毛犬たちに、咲耶がここぞとばかりに主ヅラを披露するや、否や。
「あ」という短い言葉を最後に、咲耶の眷属のうち一方が消え失せた。むなしく空をつかむ黒虎毛の犬をなぐさめるように、咲耶はもう一度、同じ台詞を繰り返す。
「じゃ、今度こそ出発しよっか、犬貴?」
獣道とはいえ、久しぶりに平坦な地を歩きながら、咲耶は、前を行く白い水干をまとった黒い甲斐犬の背を見つめていた。
「左手に深めの窪みがございます。お気をつけて」
時折、咲耶を気遣う言葉を投げかけ、ちらりと視線を向けてくる以外、黙々と歩く犬貴に、咲耶はいたたまれなくなり声をかけた。
「あの~、犬貴? 私のこと、考えなしのアホな主だって、がっかりしてる?」
「……いえ」
わずかな間と短く返された答え。咲耶には、それが肯定に聞こえてしまう。
先ほどまでは犬貴の説教が、単に心配性の小言のように思えていたのだが。そのことで彼のなかの咲耶評が下落したかと思うと、情けなさと寂しさが募ってきた。
落ち込みそうになる自分をなんとか奮い立たせ、咲耶は口を開きかける。しかし、一瞬前に咲耶の弁明を待たずして、犬貴が言葉を発した。
「貴女様に失望するなど、滅相もございません」
ぴたりと止まった足と、背を向けられたまま放たれる、落ち着いた声音。
「貴女様のお優しすぎる心根が、我らとのあいだの主従の壁を、たやすく無くしてしまうのだと解っております。
ですが、前にも申しました通り我らは元を正せば不浄のモノ。闇をかかえた存在なのです。不用意に心を許したり、必要以上に心をくだくことは、咲耶様の御為にはならな──」
「そんなことない!」
皆まで言わせず、咲耶はカッとなるままに、犬貴の言葉尻を押さえつけるように否定する。以前、咲耶自身が、和彰から向けられた言葉を思いだした。
(あの時、和彰も……こんな気分だったのかもしれない)
和彰を神獣という『神』として、特別に扱おうとした時と同じだ。違うのは、咲耶が和彰の立場になったこと。大切に想う相手から境界線を引かれる。そこから生まれる、怒りに似た寂しさ。
咲耶は、自分の感情を偽らず、ありのまま犬貴にぶつけた。
「私は、犬貴も犬朗も……それにタンタンや転転も……椿ちゃんも含めて、大切な『家族』みたいに思っているの。
ちょっと怖いけど格好良い『お兄さん』だったり、だらしないけど頼りになる『お兄ちゃん』だったり。優しく支えてくれる『弟』や甘え上手な『妹』と、しっかり者で可愛いらしい『妹』。それが、私にとっての……あなたたちなの!」
この世界に、たったひとりで来た自分にとって、彼らの存在が、どれだけの支えであり、かけがえのないものであるか。それを否定されてしまえば、咲耶はこの世界で生きていけなくなる。
「咲耶様……」
とまどったように咲耶を見返す犬貴に、感極まって目じりににじんだ涙を乱暴にはらう。
「……迷惑だって言われても、私にとって犬貴はすごく大切で、頼りにしている存在なの。今度そんな風に突き放すような言い方したら、和彰に言いつけてやるから!」
首からかけた和彰の御珠の入った袋を、犬貴に見せつけるように突き出す。我ながら子供のようなすね具合だと恥ずかしくなったが、あとの祭りだ。
「それは……どうか、ご容赦を」
苦笑いのような、それでいて幸せをかみしめるような。犬貴の声色に含まれた微妙な変化に、咲耶は照れ隠しに黒虎毛の犬の顔をにらみつけた。
この誠実で律儀な眷属が、もう一方の主の叱責を怖れたからではなく、自分に想いをぶつけた主の心を尊重したのだと解っていたからだ──。
「そういえば、私、不思議な夢を見たの」
「夢……で、ございますか?」
わだかまりもとけ、咲耶は朝から気がかりだった夢の内容を、犬貴に話して聞かせた。
「そうですか……」
前を行く犬貴の声が、思案するような響きで相づちをうつ。ややして、ふたたび足を止めた黒虎毛の犬が咲耶と向き合う。
「おそらく咲耶様の御魂は、ハク様の過去を旅して来られたのだと思われます。咲耶様のハク様に対する強い想いと、ハク様からの加護も相まって、そのような現象が起きたのかも知れません」
「和彰の過去……」
言われてみると合点のいくことも多い。だとすれば、咲耶には気になることがあった。
(愁月から向けられた感情、あれは──)
「咲耶様、私は」
いつになく堅苦しい声音で犬貴が口を開く。
「愁月様にはやはり……何か、お考えがあるのではないかと思われるのです」
咲耶が驚いて目を向けると、わずかに目を伏せた。
「いえ、あのように愁月様に疑いを向けた私が言うのもおかしいのですが……」
咲耶は首を横に振る。驚いたのは、咲耶も同じことを考えていたからだ。
「私も、愁月には何か考えがあるような気がしてきてるの」
和彰と同化していた咲耶自身が感じたもの。それは、親から向けられる無償の愛によく似ていた。
「……参りましょう、咲耶様」
考えるより、この道の先へ。そこに答えがあることを、ふたり共に感じていた。
犬貴に導かれるまま歩き続け、やがて陽が傾きかけた頃。咲耶の耳と身体に地鳴りのような水音が伝わってきた。
「足元にお気をつけて。あちらが神獣ノ里への入り口にございます」
黒い甲斐犬の指が差すのは、大きな滝壺だった。




