《八》おぼろ月夜──我らは、貴女様の盾となり剣となるモノ。
頭上にあるおぼろな月は、かろうじて咲耶の視界を照らす程度の輝きであった。
昼に聞いた黒い甲斐犬の打ち明け話に、咲耶の心は千千に乱れたが、夜になって想うのは、ただひとつ。
(和彰はいま、どうしてるんだろう……)
犬貴から聞かされた話と、自分がこれまでに経験したことを総合すれば、おのずと答えは導かれる──愁月の手の内に在るはずの白い神獣。
最後に会った日以来、咲耶が昏昏と眠り続けた間も、眷属たちの誰一人として消息をつかめなかったらしい。
むろん彼らは、和彰の常日頃の行動から愁月の所に主がいるはずと考え訪ねたが、門前払いを食らったそうだ。物ノ怪を寄せ付けない結界という名の防壁に。
(和彰……)
濡れ縁に腰かけた咲耶は、ひざをかかえ顔を伏せる。
最後に言葉を交わしたのは、咲耶の夢のなかだった。自分のことはいい、咲耶の信じることを為せ、と。思えばあの時、すでに和彰は愁月の策略に落ちていたのかもしれない──。
「……眠れないのか、咲耶サマ?」
ためらいがちにかけられた、かすれた声音。慣れ親しんだ呼びかけに目を向ければ、隻眼の虎毛犬が、傍らから咲耶をのぞきこんでいた。
「うん。……散々寝すぎて寝られないって感じ?」
あはは、と、おどけて笑う咲耶を見つめ返し、犬朗はおもむろに腰を下ろした。
「俺たちじゃ、旦那の代わりにはなれねぇけどな」
ささやくように告げると、咲耶から視線を外し、月を見上げる。蒼白く染まった横顔が、淡々と続けた。
「泣きたい時は、泣いたほうが、身体にはいいんじゃねぇか?」
「え……?」
一瞬、何を言われたのかが全く解らなかった。呆然と、赤虎毛の犬を見返す。ふっ……と、まるで笑みをこぼすかのように、犬朗の表情が和らいだ。
「咲耶サマが頑張ってきたコト、俺らはちゃあんと知ってるさ。ちょっとくらい泣きごと言ったからって、主失格だなんて誰も思ったりしねぇよ?」
──毅然と、冷静に。道幻や百合子の前で、虚勢を張り自らを鼓舞していたことを、見抜かれていたのだと気づく。
花嫁として、主として。為すべきことを為すために。『咲耶』という個人の感情を置き去りにしてきたことを──。
ふいに、咲耶ののどの奥から、嗚咽が漏れた。
「……っ……私っ……」
みるみる間にゆがむ視界。まだ春先の冷たい夜風が、咲耶の頬を流れたしずくをさらう。
「か、和彰に……ちゃんと、聞けば、良かった……!」
赦せと告げた、美しき白い神獣の化身。かの者の、真意を。
「何か、あったんだって……き、気づいていたのに……! カッコつけ、ちゃったの……! 私、和彰の言う通りに、果たすべき役割を果たして……それから和彰の所に行くっ……て……!」
犬朗は、子供のように泣きじゃくりながら話す咲耶を、黙って見つめていた。
「だけどっ……! 次に会った和彰は、私のこと全然分からないみたいで……っ……。私、わたし……怖いのっ……!」
「──咲耶サマの目の前で、人を殺めた旦那がか?」
めずらしく感情をこめない物言いで尋ねる犬朗に、咲耶は大きく首を横に振ってみせる。
「違っ……。このままっ……私のコト、分からないまま……っ……和彰が……和彰を失ってしまったらって……。考えたら……怖くて……!」
大粒の涙が、次々に咲耶の頬を伝っていく。口に出した後悔や不安な思いはとめどなく、言葉に詰まりながらも咲耶は話し続けた。
「……わ、私、和彰を、取り戻せるの、かな……? 前みたく……和彰が私のことを、想ってくれる日が……くるの、かな……っ……」
鼻をすすりしゃくり上げ、咲耶はこぼれた涙を乱暴にぬぐった。
犬朗が、ふたたび応じる。
「無理だろ」
きっぱりと短く告げられた言葉に、肯定を期待していた咲耶は、驚いて目を見開いた。その頬に残った涙を、犬朗の舌が優しくなめとる。
「……咲耶サマ一人じゃ、無理だろ──……ってぇな!」
言いかけた犬朗の口から、抗議のうめき声があがる。いつの間にか背後にいたらしい黒虎毛の犬の拳が、赤虎毛の犬の後頭部を殴ったようだ。
「このっ、痴れ者がっ! 我らの主様を何と心得る!? 貴様はどうしてこうも、破廉恥な行いばかり繰り返すのだ!」
「はああっ? 俺は単純に、咲耶サマサマを慰めてだなぁ……つか、いいトコ台無しだろーが!」
「様はひとつでいい! 貴様ごときが咲耶様をお慰めしようなどと、笑止千万!」
「──おだまりっ! 阿呆な甲斐犬ども!」
シャーッ、という威嚇音の直後、キジトラの猫が宙を飛んできた。
くるりと一回転で犬貴の背中に蹴りを入れ、反動で、犬朗の顔面に爪を立てる。そして、最後は見事なまでに咲耶のひざ上にすとんと落ちた。
「……ッだあ! シャレになんねぇだろ、コレ……!」
両の前足で赤い毛が削がれた部分を押さえる虎毛犬と、無言で前かがみに背を押さえる黒い虎毛犬。フン、と、転転が小さな鼻を鳴らした。
「知るか、ボケ犬。じゃれ合いたいなら表にお行きよ。──咲耶さま、夜風はお身体に障りますよ? あたいと一緒に、もう寝ましょう?」
ゴロゴロとのどを鳴らし咲耶を見上げてくる転転に苦笑いを返していると、脇から手拭いが差し出された。
「ああああの、どうぞ、お使いください!」
思いきったように伸ばされた手の持ち主は、タヌキ耳の少年だった。一連の眷属たちの騒動に、咲耶の涙は乾きつつあったが、たぬ吉の気遣いが嬉しく素直に受け取る。
「ありがとう、タンタン」
「は、はい!」
咲耶の言葉に耳を伏せて頬を染める少年を見やったのち、他の面面にも目を向けた。
「みんなも……ありがと」
咲耶が微笑むと、一様にみな、ホッとしたような表情を浮かべる。
(犬朗は主失格だなんて誰も思わないって、言ってくれたけど)
我に返れば、いい歳をして人目もはばからずに泣いてしまったのは、恥じるべきことに感じた。と、同時に、和彰が『言葉』だけでなく眷属という『支え』を咲耶に与えてくれていたのだと、改めて実感する。
だからこそ、自分の心と向き合い不安や後悔を口にだした今、前に進むための『糧』となる彼らの存在を有り難く思えた。
「私……和彰と、約束したの」
名前を口にするだけで、こんなにも心が震える存在。咲耶のなかに沸き上がる衝動は、すべてかの者のため。
「和彰が私の夢のなかに来てくれたように、私も和彰の所に行くから、待っててって」
言いながら咲耶は、大切な存在が託してくれた、自らを支える眷属たちを順に見つめる。
誠実で生真面目な黒い甲斐犬。
大らかで気配りに長けた赤い甲斐犬。
気弱そうに見えて芯のあるタヌキ耳の少年。
物怖じしない甘え上手なキジトラの猫。
(和彰が私にくれた、最上級の、贈り物──)
背筋を伸ばした咲耶は、彼らの主たる顔を取り戻す。一度、大きくまばたきをして、自らに向けられる視線を充分に引き付けたのち、口を開いた。
「明日、愁月に会いに行くわ。あなた達にも、ついてきて欲しい。……和彰を、返してもらうために」
夜空にぼんやりとしたおぼろ月が浮かぶなか、主命を受けた眷属らが一斉にこうべを垂れ「仰せのままに」と声をそろえた。
そして、咲耶と和彰のために眷属となった犬貴が、付け加えて言った。
「咲耶様。我らは、貴女様の盾となり、剣となるモノ。そのために、ここに在るのです。どうぞ、ご存分に、お使いくださいませ」
古参の眷属の言葉に、居合わせたモノたちも強い眼差しを咲耶に向け、静かに同意する。
咲耶は、彼らの想いによって込み上げたものをこらえるため、唇をひき結ぶ。大きく息をついて、うなずいた──。
*
複数の息遣いと、枯れ葉を踏む足音。短く鋭い叫び声が、すぐ側であがる。
「────!」
理解できぬ言語だ。……自分が『言語』だと判断できるのは、不思議な感覚であった。半身に流れる血のせいか。
周囲に近づく気配は先ほど噛み付いた獲物同様、こちらに敵意を向けてくる。ならば、食むためでなく、牙をむくのは当然のこと──もう半身が求める『生への渇望』のためだ。
二つの足を地に着け、成長途中の欅のような獣らが、二三、近寄ってくる。
「──」
「──────!」
「──────────」
わずらわしい声のやり取りが何度か続いたのち、ぐいと首根っこをつかまれた。痛くはないが、不快で、懸命に肢体をくねらせる。視界の端に自らの白い後ろ足が映り、宙に浮いているのが分かった。
『──どうぞ、そのまま』
ふいに、耳になじむ『声』がした。伝わるのは、自分を遠ざけた声と同じ色をした、想い。
『いまは、しばらく……そのままご辛抱くださいますよう……』
どうか、と、懇願する『声』が響く。『音』は聞き取れるが、正確な意味が解らない。のどの奥から威嚇音を発すれば同じ内容の『音』が繰り返される。
『どうか、ハク様……──』
それが、自分に向けられたものであることだけは、間違いなかった。
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