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第1話 「俺をいじめた女が、ゲーム世界にいた」

 

 鈍い衝撃が、頬を打った。


 体が、宙に浮き、そのまま、教室の床に叩きつけられた。


 したたかに肩を打ち、口の端が切れる。鉄の味が、じわりと口の中に広がった。


 俺、瀬口健太は、床に這いつくばったまま、しばらく動けなかった。


「ああ、ごめんごめん」


 殴った男子生徒が、ニヤニヤと笑いながら、こちらを見下ろしている。


「軽く腕があたったら、瀬口君軽いから飛んでいっちゃったね」


 周囲で、くすくすと笑い声が上がった。

 謝罪の言葉のはずなのに、そこには欠片の反省も滲んでいない。


 むしろ、楽しんでいることの方が、よほどはっきりと伝わってくる。


 男は、ゆっくりと近づいてくると、俺の背中を、今度は踏みつけた。


「ああ、またごめん」


 靴底が、グリグリと背中をこね回す。


「汚いものが床にあるから、マットだと思っちゃったよ」


 泥を拭うように、強く踏みにじられる。息が詰まり、声も出せなかった。


 その光景を、教室の前方から、沙耶が眺めていた。俺の机の上に、足を組んで座っている。


 見下すような角度から、こちらを楽しそうに見つめている。


 誰も、咎めようとはしなかった。


「ねえ、これ貸してよ」


 沙耶が、手に持った雑誌を、ひらひらと雑に振った。


 それは、俺が肌身離さず持ち歩いていた、ゲーム雑誌だった。


 いつ鞄から抜き取られたのかすら、分からない。


「……貸さねぇよ」


 踏みつけられたまま、声を絞り出す。


「へえ、オタクのくせに、生意気」


 沙耶の口元に、面白がるような笑みが浮かんだ。


 悔しさが、腹の底から込み上げてくる。言い返す言葉も、立ち上がる力も、今は出てこない。


 ただ、拳だけが、勝手に強く握りしめられていった。親指を中に巻き込むような、昔からの、不格好な握り方だ。


 その様子を見た沙耶の表情が、なぜか、満足げなものに変わる。


「ふうん」


 短く呟くと、沙耶は、手にした雑誌を、惜しげもなく引き裂き始めた。


 ページが、一枚、また一枚と破られていく。


「貸してくれないなら、いらないや。捨てちゃお」


 ボロボロになった雑誌が、ゴミ箱の中へと放り込まれた。乾いた音が、やけに大きく響く。


 ようやく体を起こせたのは、男子生徒が足をどけた後だった。


 痛む体を引きずるようにして、ゴミ箱の前まで這っていく。


 中から、破れた雑誌の残骸を、両手で拾い上げた。


 それを、胸に抱きしめる。みっともないと、自分でも思った。それでも、他に、できることがなかった。


 教室には、まだ、笑い声が残っている。



 俺の親と沙耶の親が友達だった。

 そのせいでで子供の頃から沙耶を知っている。幼馴染と言うものになると思う。


 でも、俺の親は俺より沙耶を可愛がった、そのせいで沙耶は俺に何をしてもいいと思っているのだ。






 高校二年、四組の教室には、誰が決めたわけでもない序列があった。


 頂点にいるのは、花園沙耶だ。可愛くて、成績も良くて、誰にでも愛想がいい。

 男子からは憧れられ、女子からは慕われている。


 沙耶が笑えば教室の空気が明るくなり、沙耶が不機嫌になれば、誰もが顔色をうかがった。


 俺は、その序列の、一番下にいる。


 窓際の一番後ろの席。友達と呼べる相手は、一人もいなかった。


 先ほどの出来事があってから、学校生活は、さらに様変わりした。


 沙耶に逆らった男、そんな評判が、一日足らずで教室中に広まっていたからだ。


 それまでは、ただ空気のような存在として扱われていただけだった。


 だが、この日を境に、積極的に避けられるようになる。


 グループ分けの授業では、誰も俺と組みたがらなかった。昼休みは、一人で弁当を食べるしかない。


 分かりやすい暴力よりも、ずっと静かで、ずっと深く、心を削っていくものがある。






 決定的だったのは、それから二週間後のことだ。


「ちょっと、誰か、私の財布知らない?」


 昼休み、沙耶の声が、教室に響いた。


「さっきまで、机の中にあったのに……ない」


 周囲が、すぐにざわめき始める。沙耶の視線が、ゆっくりと、こちらへ向けられた。


「ねえ、健太くんの鞄、確認してもいい?」


「なんでだよ、俺は何もしてねぇ」


 抗議する間もなく、鞄が取り上げられる。中身が、机の上にぶちまけられた。


 教科書、ノート、ペンケース。そして、見覚えのない、小さな財布。


「嘘だろ」


「健太って、盗みまでするのかよ」


 浴びせられる言葉の一つ一つが、鋭い刃のように、心を切り裂いていく。


 誰かが、最初から鞄に仕込んでいたのだと、すぐに分かった。


 だが、それを証明する手立てなど、どこにもない。


 その日の放課後、昇降口の外で、また数人に取り囲まれた。


 地面に倒され、何度も蹴られる。沙耶は、少し離れた場所から、それを止めようともせず、ただ眺めていた。


 夕暮れの空の下、一人、座り込んだまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。


 涙は、もう出なかった。代わりに、心の奥底に、一つだけ、冷たく硬い感情が根を張っていく。


 いつか、絶対に、見返してやる。




 * * *




 あれから、十二年が経った。


「瀬口、お前また残業な」


「……はい」


 三十歳になった今、電気工事士として働いている。高圧線の送電鉄塔に登り、今日も黙々と点検作業を続けていた。


 花園沙耶は今、地元の有名企業に勤め、近々結婚も決まっているらしい。


 噂で聞くだけで、実際に顔を合わせることは、もう何年もなかった。


 一方、俺はといえば、あの頃からあまり変わらず、相変わらず一人のままだ。


 帰宅後、狭いアパートの一室。待っているのは、唯一の楽しみ『クロノ・エッジ・オンライン』だった。


 フルダイブ型VRMMORPG。ヘッドセットを被った瞬間、世界がまるごと切り替わる。





「マスター、遅いですよ」


 クールな声が耳に届いた。メイ。アークメイジの彼女は、いつもこんな調子で出迎えてくれる。


「悪い悪い、残業だった」


「現実の仕事なんてどうでもいいので、さっさとログインしてください」


 軽口を叩き合ううちに、自然と笑みがこぼれた。ここでは、俺は「セロ」だ。


 トップランカーであり、ギルド《星屑の(スターダスト)誓約(プロミス)》のマスターでもある。


 現実では、何も言い返せない男だった。だが、ここでは違う。仲間がいて、信頼がある。


 誰も「キモい」とは呼ばないし、「盗人」とも呼ばない。


 ヘッドセットの向こうに広がる光景へと、意識が、ゆっくりと沈んでいった。


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