二人の真相
隆之は、虚ろな目で鉄格子の付いた窓から外を見ていた。既に空は暗くなり、星が光っている。
警察署に連行された後、彼はすぐに取り調べを受ける。だが刑事の言うことを全て無視し、晴美に一目だけでも会わせてくれ……とだけ叫び続けた。
もっとも、その願いが叶うことはなかった。最終的に、隆之は拘束衣を着せられて、独房のような場所に放り込まれる。
そして、夜を迎えてしまった──
そろそろ時間だろう。晴美は、死体に還っているはず。
幸せな日々は、終わってしまったのだ。あの日はもう、戻らない。もう二度と、あの時に帰ることは出来ない。
晴美を守ってやれなかったことが、本当に無念で仕方ない。
自分のしたことは、間違っていたのだろうか──
・・・
半年前、二人はハイチに旅行に来ていた。
取材を兼ねた初めての旅行だったが、晴美はとても楽しそうだった。彼女の笑顔を見て、隆之は幸せを感じていた。
自分以外の誰かの笑顔を見るだけで、幸せな気分に浸れる……晴美と出会わなければ、生涯知ることのなかった感覚だろう。
ところが、楽しいはずのハイチ旅行は、一瞬で急転する──
その日、晴美はスキューバダイビングをするため船に乗っていた。隆之も誘われたが、頑として断った。海に潜るなど、怖くて出来ない。結局、隆之は船の上から、潜る彼女を見守ることにした。
そんな隆之を、晴美は笑った。本当にビビりだなあ、君は大きな損をしている……などと言いながら、海へと入っていった。その時の光景は、今も心に焼き付いている。
もし、あの瞬間に帰れるのなら、あれを回避できるなら、どんな犠牲でも支払うだろう。自分の全財産と、残りの寿命すべてを死神に支払っても惜しくはない。
なぜ、一緒に潜らなかったのだろう。そうすれば、あれを防げたかもしれないのに──
船の上で再会した時、晴美は死体となっていた。
海底で、想定外の事故が起きたのだ。岩の裂け目に足が引っかかり、抜けなくなってしまった。
さらに、不運が重なる。器材が故障したのだ。タンク内の酸素が通常より早く空になり、すぐに呼吸が出来なくなる。
船で控えている者たちが、異変に気づき救助に行った時には、既に手遅れであった。
船の上で晴美の死体にすがり、狂ったように泣き叫ぶ隆之。その時、ガイドが耳元で囁く。
彼女を生き返らせる方法がある、と。
隆之は以前から、このガイドとネットを通じて親交を深めていた。毎月、日本から送金していたし、他にも様々な形で援助をしていたのである。
いずれ、ブードゥー教の取材をする時のため……という計算があったのは確かだが、ガイドは援助に対し深く感謝していた。今こそ恩を返す時だと、彼は禁断の取引を申し出たのである。
「俺は、ブードゥー教の最高司祭と知り合いだ。あの人の禁断の秘術を使えば、本当に死者を蘇らせることが出来る。ただし、それには大きな代償が必要だ。一度、会って話を聞いてみるか? どうするにせよ、早くしないと手遅れになるぞ」
その言葉に、隆之は迷わず即答した。
「本当に晴美を生き返らせてくれるなら、僕はなんでもする。その人に会わせてくれ」
二人は、晴美の死体を袋に入れた。大量のドライアイスも一緒に詰めると、ブードゥー教の最高司祭の住む家へと向かう。この場所は本来、信者でない人間は入ることが出来ない。
ところが隆之は、これまでガイドを通してブードゥー教に寄付をしていた。彼の収入から見れば、大した金額ではないだろう。だが、数年に渡って寄付を続けているうち、それらが積もり積もっていき、本人も知らないうちに名誉信者のような立場を得ていたのである。
死体を司祭の前に運び上げ、頼みこんだ。
「お願いします。彼女を生き返らせてください」
すると司祭は、こう答えた。
「生き返らせるためには、死神と取り引きしなくてはならない。それには、お前の左腕が必要だ」
「は、はあ? どういう意味ですか?」
唖然となって聞き返す隆之に、司祭は重々しい口調で語る。
「甦りの秘術には、切断した直後の左腕を供物として、死神へと捧げなくてははならない。しかも、誰の腕でもいいというわけではないのだ。彼女を、心の底から愛している者の左腕のみが、供物として使える」
あまりにも異様な話である。だが、司祭の顔は真剣そのものだ。語る言葉の奥にも、尋常ではない迫力があった。隆之は、現地の言葉がまるでわからない。にもかかわらず、ひとつはっきり理解できたことがある。
この男は、日本のインチキ占い師やイカサマ霊能者とはまるで違う存在だ。世界の理をねじ曲げ、本当に死神と取り引きできる怪物のごとき者なのだ。
話は、それで終わりではなかった。司祭は、晴美を生かしておくのに必要な条件を語り出す。
ひとつは、隆之が傍に居なくてはならない、ということだった。もし隆之が、彼女の傍を離れて丸一日が経過したなら、晴美は死体に戻ってしまう。
さらに司祭は、もうひとつの条件を語る。晴美を生かしていられるのは、隆之の生命力だ。言ってみれば、隆之が電源のような役割を果たしている。家電が電気を供給され動くように、隆之が命を供給することで、晴美は生者として活動していられるのだ。
言うまでもなく、それは異様な状態である。ひとり分の寿命で、二人の人間を生かしていることになるのだ。隆之が死ねば、命の供給が途絶えることになる。必然的に、晴美も死ぬ。
しかも晴美が生き続ければ、隆之も二人分の生命力が削られていくことになる。どういうことかといえば、普通の人間の倍のスピードで老化していくのだ。つまり、隆之は常人の半分の寿命で死ぬということになる。
まともな人間ならば、こんな言葉には耳を貸さなかっただろう。そもそも、怪しげな呪術のために左腕を切断し手渡すなど、正気の沙汰とは思えない。
あいにく、当時の隆之は既にまともではなかった。彼は信者たちに頼み、麻酔をかけ左腕を切断してもらった。それを、司祭に渡す。
司祭は頷いた。
「承知した」
隆之の左腕を携え、晴美の死体が置かれた祭壇へと入っていく。隆之は、別室でガイドとともに待つこととなった。
やがて、驚くべきことが起きた。儀式が終わった時、止まっていたはずの晴美の心臓が動き出したのだ。さらに、全身を血液が循環していき、顔にも生気が戻る。
晴美は、蘇ったのだ──
隆之はガイドに頼み、様々な細工をした。眠り続けている彼女を、大学病院へと運び込む。さらに、現地の警察にデタラメな事故の届けを出した。内容は、全て隆之が作り上げる。なにせ作家なのだから、話を作るのは得意だ。ガイドらと上手く口裏を合わせ、医師と警察に報告する。
問題は、晴美をどうやって自分の目の届く場所に置いておくか、だった。司祭の話によれば、隆之の視界から消えると、晴美は命の供給が断たれた状態になる。その状態で丸一日が経過すると、彼女は死体に戻ってしまう。
ならば、毎日一緒に暮らすしかない。隆之は、かなり強引に結婚を申し込んだ。晴美は情の深い女である。その情に訴えれば、断れないはずだ。
さらに、彼女を家に繋ぎ止めるため、隆之は暴君と化すことを決めた。不要不急の外出を禁止し、細かいルールを作る。作ったルールに従わせるため、己の失った左腕をちらつかせる。
「君のせいで、僕は左腕をなくしたんだよ。君のせいだ」
間違いではない。が、正しくもない。そもそも、自らの意思で隆之は腕を切り落としたのだ。そのことを恩に着せる気などない。だが、晴美を己の支配下に置くためには、その方法しか思いつかなかった。
そのルールにより、晴美が苦しんでいることもわかっていた。だが、隆之は心を鬼にして暴君に徹した。
もう二度と、彼女の死体を見たくないから──
・・・
「僕は、バカだったよ」
独房で、隆之はポツリと呟いた。
きちんと、晴美に全てを告げるべきだった。彼女にも、自身の置かれた状況を知る権利がある。
そうすれば、こんなことにならなかったのかもしれない。
しかし、どうしても言い出せなかった。自分が、既に死んでいると知ったら……ゾンビのような存在だと知ったなら、どれだけショックを受けるだろう。
晴美は、何も知る必要はない。人として生きていて欲しい。その思いから、彼女を籠の中の鳥のように扱った。いつかは、窮屈な生活にも慣れてくれると信じていたのだ。家の中にさえいれば、晴美は死ぬことはない。自分の寿命が続く限り、生きていられる。
それに、彼女は強い女だ。どんな環境にも順応してくれる、と信じていた。
結果は、晴美を苦しめ……挙げ句に、死なせてしまった。人として生きていて欲しいという願いからの強い束縛は、真相を知らない晴美にとっては、死ぬよりも辛かったのかもしれない。
自分は、なんと愚かだったのだろうか。悔やんでも、悔やみきれない思いが全身を駆け巡る。
こんなことなら、きちんと真実を告げるべきだった。
自分が良かれと思って今までしていたことは、ただのDVでしかなかったのだ。
「僕は、バカだった」
もう一度、同じセリフを繰り返す。その目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
思いおこせば……晴美と出会わなければ、自分は作家になどなっていなかったかもしれない。暇潰しに、ノートに書き溜めていた『極道猫』の二次作品。それを読んでもらったのが、全ての始まりだった。
晴美がいたから、自分は作家になれたのだ。
(これ、面白いじゃん)
小学生の時、彼女にかけられた言葉。あの一言が、自分をここまで押し上げてくれた。
そう……思い返せば、自分は晴美の喜ぶ顔が見たかった。それこそが、創作意欲の原点だったのだ。
だが、晴美は死んでしまった。
自分にはもう、何も創れない。何かを生み出すことも出来ない。
「晴美……ごめんよ」
虚空に向かい囁いた。溢れる涙を拭いたい。が、拘束衣に阻まれ腕を動かせなかった。
そして、隆之は思った。今の自分には、もう何もない。後は、やり残した仕事を片付けて、借りを返すだけだ。ここでは、警官に見張られているため何も出来ない。
まずは、一刻も早くここを出なければ。
翌日、刑事から晴美の死を聞かされた。だが、その事実を平静な顔で受け止める。そんなことは、言われなくてもわかっていた。隆之は、人が変わったような態度で、刑事からの質問に答える。出版社やマスコミが面会を申し出たが、全て断った。
やがて取り調べは終わり、検事から起訴猶予の処分を受ける。原告にあたる晴美が死んでしまった以上、もはや事件性は薄い。隆之は、そのまま帰された。
虚ろな表情のまま、かつて自宅だった場所へと帰っていく。
まずは、やり残した仕事を全て片付けなくてはならない。お世話になった人たちに、迷惑をかけたくはない。
それが終わったら……死神に、借りを返しに行く──