2-02
白い女の不機嫌な背中を追って、いい加減どうにかしたらと思うほど暗い階段を上る。踊り場の窓には鉄板か何かがはめ込まれ、内側から巨大なビスで固定されていた。朝なのに日光ゼロ。体内時計が狂いそうだ。嫌味の一つくらい言ってもいいだろう、と僕が話しかけようとした時、それより先に小野田が口を開いた。
「...お前と組むなんて。ドクターと組んだほうが数倍マシだ。」
素人だから仕方ない。合羽は鼻を鳴らす。ここの人間は、不満があると鼻息で会話するようだ。僕は聞いた。
「ドクターって?」
「...ここの8階にいる腕利きの医者だ。防衛医大出身、ユーリの友人。」
「医者が戦えるのかよ。」
「戦える医者、だ。」
小野田は一瞬足を止め、また息を吐くと再度口を開いた。
「...詳しくは知らないが、衛生兵としてPKO派遣された中東で負傷し、退官後は外科医になったそうだ。伊達に数年間砂漠地帯を走り回っていたわけではない、お前のようなチンピラの数百倍は役に立つだろう。」
頭にくる言い方だったが、抑えた。僕が食って掛かったところで適うわけが無い。代わりに言ってやった。
「兵士の医者か、医者が兵士なのかわかんねぇな。」
別に倫理規定や国際協定の話をしているわけではない。そんな戦闘のプロと比べられても仕方ないし、こっちは素人だ。女は少し時間を空け、一言だけつぶやいた。
「下らん。」
それ以上、この話は続かなかった。
懇切丁寧に5階を示している蛍光塗料が光る防火壁を横目に、見るからに分厚そうな鋼鉄製の扉の前に立った。この階だけは他のフロアとは違い、扉の数が1箇所しかない。でかい部屋が一つ。倉庫か何かかと思ったが、小野田は僕に靴紐を結び直すよう言った。
「一応だが気を抜くな。誤って射線上に入ってしまうようなことがあれば、お前の命は無い。」
何の話だ、と聞き返すまもなく、女は重たそうなドアを押し開けた。
中には、薄暗く駄々広い空間が広がっていた。異様に高い天井は上の階をくり抜いているようで、目測だが横幅15メートル、縦30メートルはある体育館のような空間だ。青いLEDライトらしき光が、部屋の隅で輝いている。その下に人影。何をしているのだろうか、と僕が目を凝らすと、突然、そこから火花が散った。
尾を引くように長く、銃声が轟いた。
僕は思わずそこで飛び上がる。急いで半身の姿勢をとって逃げ去ろうとしたが、女の落ち着きを払った様子から、それが徒労であることを知る。小野田は平然と部屋の中に踏み込むと、外壁に沿って人影のほうへと歩いていく。僕は背中に妙なむず痒さを覚えながら、扉を閉めてそいつを追う。微かに鉄くさい。硝煙のきつい臭いが強くなる中、僕はここが何のための空間なのか理解した。
「射撃訓練場か?」
「いいや、訓練場ではない、試射室だ。部屋のサイズにも制限があるし、正規施設で無い限り予期せぬトラブルに対応できないからな。」
「じゃあ射撃訓練とかはどこでやっているんだ。」
「いずれ話す。今は知らなくていい。」
そこまでぶっきら棒に答えなくていいのに。不満を口にする前に、女に先を越された。
「ここには全部で7レーンある。最大距離はビルの横幅一杯の28m、それ以内の距離調整は各レーン手元のハンドルで手動だ。特に制限は無いが無駄撃ちはするな。消音用ヘッドセットの装着は絶対だ、でないと耳がやられる。以上、質問は?」
特に無いので肩をすくめてやった。
ぼんやりと浮かび上がったレーンの幅は、人一人がようやく立てるほどの広さしかなかった。臍の高さにちょっとした台があり、その上にヘッドホンのような耳当てが転がっている。B級アメリカ映画みたい。奥まで歩いていった小野田は人影になにやら話しかけると振り返り、僕を手招きした。
「うちの社員だ、紹介しておく。」
そう言って、傍らで腰を屈める人影に目をやる。小野田の影から現れたその人物を見たその時、一瞬思考が停止した。僕は無表情無感動でズボラなチンピラだと地元では通っていたが、LEDに照らされたそのガキの姿を見て驚かないほど不感症ではない。ガキなんてものじゃない。不思議そうに僕を見上げつつスナイパーライフルをリロードするそいつは、坊ちゃん刈りのチビだった。
「エリ姉、この人新入り?」
「新入り、と言うより警護対象だ。ユーリから話は聞いているだろう。」
「へえ、この人が対象か。」
小学生丸出しのチビは立ち上がり、立ち尽くす僕の体をじろじろと見回す。身長150センチと少し。傍に置かれたライフルは旧ソ連製のSVDか何かに見えたが、こいつと並んでみると、そのぐねぐね曲がったフォルムがアリゲーターか何かの頭のように見えてくる。丸っこい目はひとしきり僕を眺め回した後、なぜか不快気に眉間に皺を寄せた。
「君って嫌な目つきなんだね。僕は花田直人。ナオトでいいよ、よろしく。」
一瞬僕の中で鎌首をもたげた久方ぶりの怒りは、無邪気なチビの笑顔に玉砕される。変な奴ばっかり。僕が鼻を鳴らすと、ガキは不思議そうにこっちを見て、言った。
「あれ、自己紹介とか無いの?」
あきれた奴。僕は言った。
「...楠下章。好きに呼べ。」
「エリ姉みたいだね。最初会った時、『コールネームはエンジェル。好きに呼べ。』って言ってたの、思い出したよ。」
あの台詞は使いまわしだったようだ。小野田はそっぽを向く。それを見たガキはくすくすと悪戯っぽく笑うと、足元のドラグノフを左肩に担ぎ、僕に敬礼して見せた。
「よろしくね、章君。」