3-03
潮臭い細い道を海の方へと向かう。周囲は平屋建ての錆びた倉庫ばかりで、やくざの本部に相応しいビルは見当たらない。小野田のハンドサインに答えたナオトは親指を上げると、一人脇道にそれて暗がりに消える。ほとんど身長くらいある対物ライフルを担いで、身をかがめて陰に紛れる。見つかればどんな言い訳も通用しないだろう。一人で大丈夫なのかと問うと、白い女は気にするなとでも言わんばかりにひらひらと手を振った。
「一方が倉庫の壁、半径300メートルに高所は無し。退路も確保しているし、万全だ。」
後はあいつの腕次第と言うわけか。己の命を運に委ねることができる度胸。あいにく僕はそんなもの持ち合わせちゃいないし、こんな化け物揃いの中で素人に何ができるというのだ?
そうだ。僕に何ができる?
無言で路地を舐めるように歩き、コンテナや倉庫の角を覗き込みつつ幾つか折れた先の倉庫群のはずれ。埠頭の南端に出ると、野球場一面が入るくらいに大きく開けたアスファルトの空き地の奥に5階建てのビルが建っていた。小野田は小型の双眼鏡を取り出すと少し覗いて、僕に手渡す。潮風で茶色に変色した壁面。細かいヒビ割れから鉄筋の錆が流れ出している。1フロアに3つずつ配置されている窓には全てシャッターが下りていて、中の様子は確認できない。その陰に紛れるように停められている黒のメルセデスのEクラスが2台。正面の入口に見張りが2人いるところまで確認して双眼鏡を返すと、小野田は腕時計に目をやって囁いた。
「あと5秒でナオトが見張りを仕留める。同時にビルの根元まで走るぞ。」
そう言い終えるか終えないうちに、50メートル以上離れていても分かるような大あくびをかましてる向かって左側の見張りの頭が、木っ端みじんに飛び散った。
呆気にとられて立ち尽くすもう一人の見張りも間髪入れずに同様の目に遭い、胸から上のない胴体だけがよろめいた後倒れこむ。遅れて爆竹をもっと太くしたような甲高い発砲音が2発響いた。じわじわと昇りつつある太陽が雲の向こうから薄暗く照らしている中、一気に飛び出した小野田の後を追って全速力でビルの入口へたどり着く。B級映画。逆手で慎重に開かれた入口の先は、上層へと続く暗くて細い階段だった。
「先に行く。」
白い女はそう言うと、壁に背を当て、ボロボロMP-40を胸に構えながら段を登っていく。僕は周囲を見回す。人影は見えない。左側はベンツに遮られていて気に掛ける必要はない。右側は倉庫群と海、そして頭の無い死体が2つ転がっている。砕け散ったアスファルトと肉片や骨片、脳みそのかけら。意外に吐き気は薄かった。少しは慣れたのかもしれない。と、階段の奥、左手に曲がる通路に入った小野田が、白い手を振って呼んでいた。僕は扉を閉め、その後を追った。
ビルの中は思わず身震いしてしまうほど冷房が効いていた。照明は階段奥の非常灯のみで、人気はない。階段を登りきると廊下が奥まで続いていたが、小野田は気に留めることもなく上の階へと向かう。かがんだ姿勢のままでコンクリ製の固い段を這って進み、3,4階と拍子抜けするほど順調に素通り、実は嵌められているんじゃないかと心配になりだした頃には、僕らはついに4階と5階の間の踊り場に到達してしまっていた。
「標的は5階のどこかで寝込んでいる。」
女は囁く。
「…可能性は薄いが、反撃には気を付けろ。まず中央の部屋からだ。」
「どうしてそこから?」
「両端の部屋だと、海側では壁越しに大火力の火器でぶち抜かれるし、陸地側だと壁沿いに侵入されるだろう。」
呟くと、小野田は短機関銃の銃身に20センチ近くある筒状のものを装着した。サプレッサー。そのまま一気に残りの段を音もなく駆け上がると、ほとんど転がるように明かりの無い廊下を走り抜け、気付いた頃には奴は中央の部屋のドアの前にかがんでいた。サルかお前。その3分の1くらいの速度で追い付くと、小野田はここで待つよう掌で僕を制し、丸いノブを回す。いとも簡単に開いた。
小野田が部屋の中に吸い込まれていくのを見送り、部屋の外に一人残された僕は驚くほど平常心を保った状態でそこに腰を下ろしていた。人気の無さがそうさせたのかとも考えたが、自分の腕の中の得物を見て違うと直感できた。銃身を下げ、胸に当てている感触は驚くほど心地よく、かすかに温もりすら感じられるように思えるようになっていた。
やばいやばい、と頭の中で誰かが囁いていた。取り憑かれたら逃れることが出来ない道具。お前は一体何を手にしているんだ。今すぐ捨てろ、今すぐに。でないと、お前は戻ることが出来なくなるぞ。
トリガーに指がかかっていた。安全装置は作動させていない。これさえあれば己の身を守ることはおろか、他人の命を司ることだってできる。悪魔のツール、と淡路は言い、神器だ、と安川は口にした。どっちだっていい。これさえあれば、僕は悪魔にも、はたまた神にでもなれるのだ―――
―――ドスッ、っと1発だけ、壁伝いに低い振動が伝わってきた。
少し間をおいて、またドアが音もなく開く。それが閉じられるのと入れ替わりに這い出て来た小野田は、まるで何事もなかったかのようにそばに屈み、言った。
「変わりないか?」
「…ああ。」
「何かあったのか?」
「何もねえよ。」
そう応えると、白い女はついて来い、と肩越しに手招きして前に立った。
「人相書き通りなら、標的を始末したことになる。表に出る時は注意しろ、下の死体に気付いた連中に待ち伏せを食らう危険性がある。ナオトが排除しているだろうが。しかしやけに張り合いの無い相手だな…」
「…ていうかさ、」
「何だ?」
僕は手元に残る嫌な感覚を振りほどくために尋ねた。
「どうせアナログなら双方向性にしないと効率悪すぎるだろう。」
「…言っただろう、無駄に盗聴されるリスクを増やさないためだ。それと…」
小野田はいつものように溜息をつく。
「…ナオトが喋りすぎるからだ。さあ行くぞ。」
思わず笑ってしまいそうになるのを堪えた。女は低い姿勢で蛇のように床を這っていたかと思うと、次の瞬間には音を極限まで殺した状態で階段をニホンザルのように下り始めた。踊り場に到達するたびに下階に目をやり、視線を交わしてまた下る。妙に背すじがピリピリし始めた。風呂に入った時の、汗腺が開く感覚に似ている。気がつけば、体中どこともなく油汗まみれだった。緊張?恐怖?そんなものではない。チンピラとケンカする時によく似た感じの、しかしそれと比べる事もできないほど巨大な、まぎれもないスリルのみがあった。長距離を走るときに陥るランニング・ハイがこんな感じなのかもしれない。五感が体を離れ、見えない階段の先を探っている。薄明かりの中、僕の全感覚は世界と融合していた。
ふと2階の踊り場まで至った時、小野田が小さく左手を挙げ、僕を制した。かすかに明るい、少し黄色味を帯びているあたり、下の階段に刺しているのは太陽光か。
「入口が開いている。」
白い女は壁越しに下を覗き、得物を引き上げ、後ずさりする。物音は無い。人気も感じられない。僕は放していたM4のトリガーに再度指をかけた。
プッ、と耳元で無線が開く音がした。
「こちらマザー。エンジェル、オーガ、聞こえる?子豚が3匹巣に戻った。ミサゴが食べたけど、子豚ちゃん、まだまだ戻ってくるよ。大至急巣から離れて!」




