午前三時十三分の音
その夜。
結衣はいつもより早く布団に入った。
部屋の隅には、昼間に買ったオルゴールが置かれている。
結局、あの老人に「縁があった人しか手に取らない品ですよ」と言われ、不思議な気持ちのまま買ってしまったのだ。
両親には「かわいいね」と言われただけで、それ以上は何も聞かれなかった。
しかし結衣は、どうしても気になっていた。
あの店。
あの老人。
そして最後に聞こえた、かすかな声。
「……たすけて」
あれは本当に気のせいだったのだろうか。
部屋の時計は午後十一時を回っていた。
窓の外では風が木々を揺らし、カーテンがゆっくりと膨らんではしぼむ。
結衣はオルゴールを見つめた。
静かだ。
もちろん、ゼンマイは巻いていない。
勝手に鳴るはずがない。
「……考えすぎだよね。」
そう呟いて部屋の明かりを消した。
暗闇が広がる。
街灯の明かりだけがカーテン越しに差し込み、部屋の家具がぼんやりと浮かび上がる。
目を閉じる。
眠ろう。
何も考えない。
そう思えば思うほど、頭の中にあの曲が流れ始める。
優しく、どこか懐かしい旋律。
知らないはずなのに、歌えそうなほど耳に残っている。
「……嫌だな。」
寝返りを打つ。
ようやく意識が遠のき始めた、その時だった。
カチ……
小さな音がした。
結衣は目を開ける。
静寂。
気のせいだ。
古い家だから、木が軋んだだけ。
そう思った。
カチ……
また鳴る。
今度はもっと近い。
結衣はゆっくりと体を起こした。
部屋の中は真っ暗だった。
時計を見る。
午前三時十三分。
その瞬間。
カチ、カチ、カチ……
ゼンマイを巻く音が聞こえた。
結衣の全身が強張る。
音は部屋の隅からだった。
オルゴール。
誰も触っていない。
それなのに。
カチ、カチ、カチ……
まるで見えない誰かが、丁寧にゼンマイを巻いている。
「……やめて。」
思わず声が漏れる。
すると。
音が止まった。
部屋は静まり返る。
ほっと息をつこうとした、その次の瞬間。
♪
オルゴールが鳴り始めた。
昼間と同じ曲。
だが今は違う。
音がどこか歪んでいる。
一音一音が、耳ではなく頭の中に直接流れ込んでくるようだった。
結衣は布団を握りしめる。
止まらない。
音はゆっくりと部屋中に広がっていく。
そして。
コン……
小さな音。
窓だった。
誰かが窓を叩いたような音。
結衣は恐る恐る視線を向ける。
二階の部屋だ。
外に立てる場所などない。
それなのに。
コン……
また鳴る。
コン……
コン……
一定の間隔で。
何かが窓を叩いている。
「お父さん……?」
助けを呼ぼうとした。
しかし声が出ない。
喉が締めつけられたように息が詰まる。
その時だった。
カーテンの向こうに、人影が映った。
細い。
小さい。
女の子。
長い髪。
首を不自然な角度に傾けたまま、じっと窓の外に立っている。
ありえない。
二階なのに。
結衣は目を見開く。
人影は動かない。
ただ立っている。
オルゴールの音だけが流れ続ける。
やがて。
カーテンの向こうの影が、ゆっくりと右手を持ち上げた。
そして。
トントントン……
三回。
窓を叩いた。
結衣は叫ぼうとした。
その瞬間、部屋の電気が突然ついた。
「結衣!」
母親だった。
「大丈夫!? 今、叫び声が聞こえたけど!」
結衣は震えながら窓を指差す。
「そ、そこ……女の子が……!」
母親はカーテンを開けた。
外には夜の住宅街が広がっているだけだった。
誰もいない。
「夢でも見たの?」
「違う……いたの……本当に……。」
母親は心配そうに額に手を当てた。
「熱はないね。最近疲れてるんじゃない?」
結衣は返事ができなかった。
母親が部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
その時、ふと机の上を見る。
オルゴールの蓋が開いていた。
さっきまで閉じていたはずなのに。
結衣は恐る恐る近づく。
中を覗き込む。
そこには、小さな紙切れが一枚入っていた。
昼間にはなかったものだ。
震える手で取り出す。
紙には、子どものような字で、たった一文だけ書かれていた。
「まだ、きこえてる?」
結衣の背筋を冷たいものが走る。
その文字を見つめていると、不意に違和感を覚えた。
インクが滲んでいる。
いや、違う。
滲んでいるのではない。
紙に染み込んでいたのは、赤黒い液体だった。
結衣が息を呑んだ瞬間。
耳元で、誰かが囁いた。
「……きこえた。」
冷たい吐息が首筋を撫でた。
結衣は悲鳴を上げながら振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。
ただ、開いたままのオルゴールだけが、ゆっくりとひとりでに蓋を閉じた。
――パタン。




