第2話 刺繍の手触り
秋の夕暮れが窓ガラスを深く濃いオレンジ色に染めている。
駅前の静かな喫茶店。向かいの席に座る優一は、運ばれてきたコーヒーのカップに少し口をつけてそっと置き、まさ子に向かっていつもの余裕のある、しかし少し心配そうな笑顔を向けた。
「今日は、なんだか話しにくそうだね。どうかした?」
その大人びた気遣いに、まさ子はテーブルの下で両手をぎゅっと握り合わせた。
彼は本当に、出来すぎているくらいに優しくて、誠実な人だ。だからこそ、詩織の言う通り、これ以上彼の時間を奪ってはいけない。正面から向き合って、伝えなければならない。
「あのね、川越君。今まで黙っていて、ごめんなさい。私……川越君のこと、すごく素敵な人だと思っているし、一緒にいる時間は本当に楽しかった」
まさ子の真剣な声のトーンに、優一の表情が少し曇った。そして彼はすべてを察したように、静かに目を伏せる。
「……そっか。好きな人がいるのかな?」
「うん。……ずっと前から、心に決めている人がいるの。その人とは、たぶん普通のお付き合いはできないのだけれど……でも、私の全ては、その人のためにあるから。だから、川越君の気持ちには応えられない」
まさ子が真っ直ぐに見つめてそう告げると、優一は寂しそうに、けれどいつもの爽やかな笑顔を浮かべた。
「そっか。薄々、そんな気はしてたんだ。君、僕と一緒にいる時も、たまにすごく遠くを見てる時があったから。……そうかあ、振られちゃったな」
優一は照れ隠しのように頭を掻いた。その仕草は、これまでスマートだった彼が初めて見せた、飾らない無防備な隙のように見えた。
「その人って、どんな人なの? やっぱり、僕なんかよりずっと大人で、かっこいい人?」
優一の問いに、まさ子の脳裏に、万年寝不足で顔色が悪く、モニターの青白い光に照らされた四十三歳の叔父の姿が浮かんだ。
「かっこいい……かは、分からないけど。でも、すごく大人だよ。私よりずっと年上で、二十八歳差だから」
「……二十八歳差?」
「うん。四十三歳なの」
「………………は?」
優一の動きが、完全に停止した。
手にしたカップがカチンと音を立ててソーサーに落ちる。彼は目を真ん丸に見開き、まさ子の顔を凝視した。
「よ、よんじゅう……? え、おじさん……えっ? ま、待って! 待って待って! 二十八歳差で四十三歳ってことは……君、今いくつなの!?」
「え? 十五歳。高校一年生だけど」
まさ子が不思議そうに答えると、優一は顔面からスッと血の気を引かせ、両手で頭を抱え込んだ。
「こここ、高校生!? ウソだろ……俺、ずっと小学生……いや、せいぜい中一くらいだと思ってた……。安和の制服って下から上まで全部同じデザインじゃん!? 君、ちっちゃくて、なんかこう、ふわふわしてるから……俺、てっきり年下の子を守ってあげなきゃって、一生懸命背伸びして……!」
優一の顔が、耳の先まで一気に真っ赤に染まっていく。
まさ子は、目を丸くして彼を見つめ返した。
「あ、あの……川越君って、もしかして……」
「……中学、二年生。十四歳……」
優一はテーブルに突っ伏したまま、消え入りそうな声で白状した。
静寂が降りた。まさ子の頭の中で、これまでの彼の大人ぶった言動「おじさんの夕食、作らなきゃいけないんだろ?」「車道側は危ないよ」といった数々のスマートな台詞が、すべて「中二男子の精一杯の背伸び」としてリプレイされていく。
「どこかでマニュアルでも読んでるんじゃないの?」図書室での詩織の勘は、見事に当たっていたのだ。
「……うふっ」
まさ子は堪えきれず、小さく吹き出した。
自分を年下だと思い込み、一生懸命に虚勢を張って、大人の男として守ろうとしてくれていたのだ。その不器用な優しさと背伸びが、たまらなくいじらしくて、愛おしかった。
「ふふっ……くす、くすくす……」
いつも先生に言われているように、安和の生徒らしく品を保とうとするのだが、こみ上げてくるおかしさと温かい愛着に、どうしても笑いが止まらなくなる。まさ子は両手で口元を覆い、必死に声を殺して小さく肩を震わせた。
そんなまさ子の前で、優一は「笑うなよぉ!」と顔を真っ赤にして涙目で抗議しながら、完全に年相応の、等身大の少年の顔になっていた。
「ごめんね。でも、そっか。中学生だったんだね。川越君、すごく背が高いから、全然分からなかった」
「……もう、最悪だ。年上の高校生に、知ったような口聞いて……めっちゃ恥ずかしい……っ」
「そんなことないよ」
まさ子は笑い涙を指で拭いながら、優しく微笑んだ。
「私を助けてくれた時の川越君、本当に強くて、かっこよかった。あのかっこよさは、背伸びなんかじゃないよ。本当の勇気だったと思う」
その言葉に、優一はハッとして顔を上げた。
彼女の笑顔は、やはりぽやぽやとしていてあどけなかったが、その奥にある眼差しは、彼よりも、いや、十五歳という実年齢よりもずっと年上の、深く相手を包み込むような女性のものだった。
「あとね」
まさ子は少しだけ声をひそめると、自分のブレザーの折り返し襟に視線を落とした。
「うちの制服、実は全部同じじゃないんだよ。優一君には内緒で教えてあげる」
テーブルの上に置かれていた優一の手をすっと取った。
「えっ、あ……」
突然のことに息を呑んで固まる優一の指先を、まさ子は自分の襟元へとゆっくり導いた。彼女特有の無防備すぎる隙が、なんの衒いもなくその行動をとらせていた。
「えっとね、ほらここ。ちょっと触ってみて。制服の生地と同じ色なんだけど、少しだけ光沢のある糸でツツジの花が刺繍されてるの。ほら、私の指があるところ」
まさ子自身も指先でその微かな凹凸と光沢を探り当てながら、そこに優一の指を重ねるようにして触れさせる。
だが、相手は十四歳、それも必死に大人ぶっていた中二男子である。ほんの数十センチの距離。指先からはブレザーの少しざらついた感触だけでなく、そのすぐ下にある微かな体温や、まさ子の甘くふわりとした香りが伝わってくるような気がする。
「これが、幼稚園から大学生まで、一つから五つまで増えていくの。私は高校生だから、四つ」
「あ、う……よ、よっつ……本当だ……」
顔から火が出るどころか、全身の血が沸騰しそうなほど赤面した優一は、指先から伝わるわずかに盛り上がった糸の感触に全神経を集中させたまま、完全にフリーズしていた。
「こんなに近づかないと見えないし、触らないと分からないから、外部の人には絶対に見分けられないんだけどね。優一君は特別」
まさ子が優しく微笑む。
自分が彼女のパーソナルスペースに片足踏み込むことを許され、こっそり秘密を共有してくれた事実。そして、襟元の刺繍まで触れさせてくれた彼女の無防備な優しさと残酷さに、優一はついに完全に白旗を上げた。
「……やっぱり、敵わないな。四十三歳の大人には」
優一が、限界まで赤くなった顔のまま、さっぱりとした爽やかな笑顔を見せると、まさ子もまた嬉しそうに頷いた。
店の外に出ると、秋の夜風が心地よく火照った頬を撫でた。
駅前の交差点で、二人は振り返ることなく、あっさりと別の道へ歩き出す。
まさ子はふと夜空を見上げ、今もあの真っ暗な部屋にこもっているはずの愛しい人の顔を思い浮かべた。
「……あ、もうこんな時間。早く帰って、お夕飯作らなきゃ。遅くなっちゃう」
家に帰ったら、ブレザーの刺繍の秘密を叔父さまにもう一度自慢してやろう。そんなことを考えながら、まさ子の足取りは来た時よりもずっと軽やかに、サーバールームへと向かっていた。
(ツツジの秘密・完)




