第1話 図書室にて
秋の風が少しずつ冷たさを増し、安和女子学園の指定である上品なブレザーに、暖色系のチェックスカートを身に包む生徒が増え始めた頃。
お昼休みの図書室の片隅で、高等部一年のまさ子は、親友の詩織に向かって深く重く長いため息をついていた。
「……というわけなの。しいちゃん、私、どうしたらいいんだろう」
安和の制服は、幼稚園から大学まで基本的なデザインがほとんど変わらない。着る者の年齢によって違った魅力を引き出す伝統的な服だが、現在高一のまさ子が着ると、どう見ても中学生、下手をすれば小学生にしか見えなかった。
その身体つきはまだ発育途上で起伏に乏しく、骨格は良いもののまだ肉付きが伴っていないため、華奢に見える。そのあどけない容姿の奥から滲み出る、どこか人間離れした透明な美少女オーラと、本人のぽやぽやとした隙だらけの空気が、道行く男たちの庇護欲やよこしまな感情を必要以上に刺激してしまっていた。
そのため、まさ子は二、三日に一回くらい、しつこめのナンパに遭う。
基本的に誰に対しても丁寧に応対するまさ子は、相手がどんな男であっても、いつもの柔らかな敬語で接し、きっぱりとは断らないため、どうしてものらりくらりとあしらう形になってしまう。
だが、二ヶ月前のその男との出会いは、少しだけ勝手が違った。
いつものように駅前でしつこいナンパ男に絡まれ、「この人もまた痛い目に会っちゃうのかな。朱美さん、もうちょっと手加減してあげてもいいのになあ」、腕をつかまれながらまさ子はぼんやり考えていた。ちなみに朱美さんというのは、まさ子が使役している使い魔の赤蛇である。
しかしこの日は、まさ子たちの前に、不意に見知らぬ長身の少年がふわりと陰を落としたのである。
「嫌がってるだろ。離してやれよ」
一九〇センチはあろうかという恵まれた体躯と、広い肩幅。端正な中にもわずかに幼さを残した顔立ちの彼は、まさ子を背後に庇うように立ち塞がった。そして、逆上した男からあっさりと右頬への強烈な一発を食らった。
しかし彼は痛がる素振りも見せず、殴られて少し切れた唇の端を親指で乱暴に拭いながら、凄みのある眼光で男を見下ろした。
「……これで満足か? だったらさっさと行きな」
低く、しかしよく響く落ち着いた声だった。その気迫に気圧された男は、顔を引き攣らせて捨て台詞を吐き、足早に逃げていった。
まさ子が慌ててハンカチを差し出しながら丁重にお礼を言うと、彼は「気にしないで」と穏やかな笑顔を向けた。そして、まさ子の連絡先を聞くでもなく、もちろん見返りを求めるようなこともなく、そのまま振り向かずに歩いていった。映画のように鮮やかな去り方だった。
驚いたのは翌日である。
下校時、安和女子の校門の少し離れた場所で、彼が待っていたのだ。昨日の武勇伝をひけらかすわけでもなく、ただ真っ直ぐにまさ子の目を見て、彼は言った。
「俺、川越優一って言うんだ。昨日、君を見て好きになっちゃった。少しだけでいいから、お茶に付き合ってくれないかな」
そのストレートで外連味のない誘いと、昨日助けてくれた時と同じまっすぐな瞳を前に、いつもならこういう誘いには乗らないまさ子も、自然に応じてしまった。
それからの二ヶ月間は、まさ子にとっても決して悪い時間ではなかった。優一はしつこく待ち伏せるようなことはせず、週に一度か二度、タイミングが合った時だけ途中まで一緒に帰り、これまで誘われて三回ほど喫茶店に寄った。
話題も幅広く、ユーモアに溢れて面白く、一緒にいて退屈しない。歩く時は必ず車道側を歩き、まさ子がちらりと時計を見るだけで、彼はすぐに察してくれた。
「そろそろ帰ろうか。おじさんの夕食、作らなきゃいけないんだろ?」
押し付けがましいところは一切なく、女性への気遣いがどこまでも自然で温かい。彼が自分に向ける好意が、安直な下心などではない真摯なものであることは、まさ子にも痛いほど分かった。
だからこそ、これ以上彼の時間を奪うわけにはいかない。自分には、世間には許されなくても、闇の底でただ一人想い続けているあの人がいるのだから。
「……ちゃんと、私には心に決めた人がいるって、言わなきゃいけないと思うの。でも、川越君、本当にいい人で……傷つけたくなくて。どう切り出せばいいのかなって」
まさ子の長い相談を黙って聞いていた詩織は、手にしていたシャープペンシルを机にコトリと置き、呆れたように天を仰いでみせた。
「あのさあ、まさ子」
詩織は、切れ長の目をスッと細めた。凜とはまた違うベクトルで知的な魅力を放つ美しい顔立ちが、親友のぽやぽやとした顔を真っ直ぐに見据える。
「あんた、自分がどれだけ業の深いこと言ってるか分かってる? その川越君って人、顔が良くて、度胸があって、押し引きのタイミングも絶妙で、おまけに家庭の事情まで気遣ってくれる。普通なら、迷わずそっちに乗り換える優良物件よ」
「う、うん……」
「でも、あんたの心は、あのサーバールームの主、邦明おじさんに完全に握られてる。……いや、あんたが自分で握らせに行ってるのよね」
詩織は痛いところを正確に突いてくる。まさ子は小さく身を縮めた。
「あのね、まさ子。傷つけたくないなんて、それはあんたの傲慢よ。相手は真っ直ぐにあんたに好意を向けてくれてるんでしょ? だったら、こっちも誠意を持って、正面から叩き斬ってあげるのが礼儀ってもんよ。『私には、人生を全部捧げてもいいと思ってる年上の男性がいます』って、はっきり言いなさい」
まさ子が真剣な顔で頷くと、詩織は表情を和らげ、少しだけ意地悪く笑った。
「それにしても、その川越君。ちょっと出来すぎじゃない? 喧嘩の立ち回りもスマートすぎるし。どこかで何かのマニュアルでも読んでるんじゃないの?」
「え? そうなのかな。でも、すごく大人っぽくて、頼りになる感じだよ」
まさ子の言葉に、詩織は「ふーん」と気のない返事をして、小さく肩をすくめた。
「まあ、あんたがそこまで言うなら、本当にいい奴なのかもね。さっさと振ってあげてきなさい。あんたのその重たすぎる情念は、邦明おじさんみたいな化け物じゃないと受け止めきれないんだから」
背中を押されたまさ子は、小さく「ありがとう」と呟いて立ち上がった。
その日の放課後。秋の夕暮れが街をオレンジ色に染める中、まさ子はいつものように駅への道で待っていてくれた優一と共に、近くの静かな喫茶店へと向かっていた。
(了)




