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STR全振り脳筋ヒーラーは恋をする  作者: 白月つむぎ


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23/23

23 シトラスの風が吹く場所

 オーブンから漂うバターと砂糖の甘い香りが、厨房の熱気と混ざり合って白衣を包み込む。


 都内の有名洋菓子店。

 開店前の静まり返った厨房で私は絞り袋を握り締め、焼き上がったばかりのクッキーの表面に繊細なアイシングを施していた。


 仮想世界――キンドレッド・ソウルズ・オンラインの中で、私はすべてのステータスを筋力(STR)に振り分け、ただひたすらに重く巨大な鈍色のメイスを力任せに振り回す、不器用で無骨な戦士のような聖職者だった。

 しかし、現実世界での私は手先の器用さだけが取り柄であり、その特技を活かして今はこうしてパティシエ見習いとして厳しい修行の日々を送っている。


 ゲームの世界の極端なステータスと、現実の自分の細やかな手作業。

 そのギャップを笑い合いながら遠く離れた異国にいる先輩と過ごした数年間は、私にとって何よりも尊く――そして、過酷な時間だった。


 画面越しでしか会えない日々。

 時差を計算して深夜や早朝にログインし、仮想の指輪が光る左手で共に武器を振るった。

 どんなに会いたくても、触れたくても、決して届かない物理的な距離。

 その圧倒的な孤独を埋めてくれたのは、あの光の大聖堂で交わした――パートナーとしての誓いと、空港で交わした「絶対にログインする」という先輩との約束だけだった。


 そんな忍耐の日々に、唐突な終わりが告げられたのは、つい一ヶ月前のことだった。


『マリちゃん、日本の学校で英語の教師としての採用が決まったよ! 来月、日本に帰国するね』


 ゲームのチャット欄に表示されたその一文を見た瞬間、私はスマートフォンの画面に涙をぽろぽろと零し、声にならない悲鳴を上げて泣き崩れた。


 数年ぶりの、現実世界での再会。

 待ち合わせの場所に指定されたのは、私たちがオフ会で初めて待ち合わせした思い出の場所――カフェ・ヴァレンタインだった。


 約束の日の昼下がり。

 私は少し背伸びをして買った淡いベージュのワンピースに身を包み、アンティーク調の落ち着いた照明が灯る店内のテーブル席で、入り口の扉をじっと見つめていた。


 膝の上に乗せた手提げ袋の中には、厨房の隅でこっそりと焼き上げた彼女へのプレゼントが入っている。

 心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく音を立てている。

 鼓膜の奥で自分の血流の音が聞こえるほどの緊張感の中、カランコロンと懐かしいベルの音が店内に響いた。


 木製の重厚な扉が開き、初秋の柔らかな日差しと共に、一人の女性が店内に足を踏み入れた。

 洗練された薄手のトレンチコートを羽織り、綺麗に切り揃えられたボブヘアは、あの頃よりも少しだけ大人びた艶を帯びている。

 背筋をピンと伸ばして歩くその姿には、かつての完璧なエースとしての面影を残しつつも、自立した大人の女性としての凛とした美しさと知性が宿っていた。


 私を見つけた彼女の顔が、太陽のように明るく綻ぶ。

 歩み寄ってくる彼女から、ふわりと、あの頃と全く変わらない爽やかなシトラスの香りが漂ってきた。


「お待たせ、茉莉花ちゃん……すっかり、綺麗な大人の女の人になったね」


 その優しく落ち着いた声の響きを聞いた瞬間、私の目からは堪えようのない涙がボロボロと溢れ出してしまった。


 幻じゃない。

 画面越しのピクセルでもない。


 本物の――私がずっと焦がれ続けた栞先輩が、すぐ目の前に立っている。


「先輩……っ、お帰りなさい。ずっと、ずっと待ってました……」


「ただいま。泣かないでよ、あたしまで泣いちゃうじゃない」


 先輩はハンカチを取り出し、テーブル越しに私の頬を伝う涙を優しく拭ってくれた。

 その指先の温もりに触れ、私は数年分の寂しさが一気に浄化されていくのを感じた。


 私たちは向かい合って席に座り、懐かしいメニューを開いた。

 注文したのは、あの日初めて二人で食べたのと同じ、ベーコンと彩り野菜のサンドイッチだった。


 香ばしくトーストされたパンに、カリカリに焼かれたベーコンの塩気と、新鮮で色鮮やかな野菜の甘みが絶妙に絡み合う。

 一口齧るごとにかつてこの席で緊張しながら先輩と向き合っていた高校生の頃の記憶が、鮮やかに蘇ってきた。


 海外での大学生活のこと、英語教師としてのこれからの夢。

 そして、私のパティシエとしての厳しいけれど充実した毎日のこと。

 私たちは積もり積もった数年分の空白を埋めるように、夢中で言葉を交わした。


 食後のコーヒーが運ばれてきたタイミングで、私は膝の上の手提げ袋から、丁寧にリボンでラッピングされた小さな箱を取り出し、テーブルの上へと差し出した。


「これ、私からのささやかなプレゼントです。お店のケーキだと少し目立ってしまうと思ったので、アイシングクッキーを焼いてきました」


 先輩が嬉しそうにリボンを解き、小箱の蓋を開ける。

 中に入っていたのは、精密な細工が施された数枚のクッキーだった。


 鈍色を表現した灰色のアイシングで描かれた、無骨なメイス。

 そして、銀色と青色で彩られた、強固な騎士の盾。

 中央には、大聖堂で交わした二つの指輪が並んで描かれている。


 私が得意とする手先の器用さをすべて注ぎ込んで作った、私たちの数年間を繋ぎ止めてくれた絆の象徴だった。


「すごい……! 茉莉花ちゃん、これ食べるのが勿体ないくらい綺麗。マリちゃんのメイスと、あたしの盾だね。本当に、立派なパティシエになったんだね」


 目を細めてクッキーを見つめる先輩の顔を見て、私はテーブルの下で自分の両手を強く握り締めた。


 ――いよいよ、その時が来たのだと覚悟を決める。


 高校生の頃の私は先輩の引っ越しという絶対的な壁を前にして、自分の想いを伝えることすら諦め、波の音に言葉を消し去ってしまった。


 しかし、今の私は違う。

 厳しい修行に耐え、自分の腕一つで生きていく覚悟を持った、自立した一人の大人だ。

 もう、逃げ隠れする必要も、後輩という安全な殻に閉じこもる必要もない。


「栞先輩。あの夏の旅行の夜、私が先輩に言えなかった言葉があるんです」


 私の真剣な声のトーンに気づき、先輩も居住まいを正して私を真っ直ぐに見つめ返した。


「あの時、先輩が遠くへ行ってしまうと聞いて、私はこれ以上先輩を困らせたくなくて、自分の本当の気持ちを喉の奥に飲み込みました……でも、もう大人になった今なら、胸を張って言えます」


 大きく深呼吸をして、肺いっぱいにシトラスの香りを吸い込む。


「先輩。私、ずっと、ずっとあなたのことが大好きでした。憧れや、後輩としての尊敬じゃありません。一人の女性として、あなたを心から愛しています」


 静かなカフェの店内に、私の決定的な言葉が溶けていく。


「女の子同士で、こういう関係になるのは、決して簡単なことじゃないって分かっています。世間の目とか、これからの人生でぶつかる現実の壁とか、同性だからこそ乗り越えなきゃいけない困難がたくさんあることも、理解しているつもりです」


 かつて私を苦しめた――友達という境界線。

 その向こう側に広がる現実は、決して甘いだけの夢物語ではない。

 茨の道かもしれない。

 けれど、私はその痛みをすべて引き受ける覚悟ができていた。


「でも、どんな壁があっても、私はもう絶対に逃げません。ゲームの中だけじゃなく、現実の世界でも、先輩の隣に立って、先輩を守る強さを持ちたいんです……私を、本当の意味で、先輩のパートナーにしてください」


 言い終えた私の手は、微かに震えていた。

 先輩は、目を見開いたまま静かに私の顔を見つめていた。

 やがて、その大きな瞳からポロリと大粒の涙が零れ落ち、テーブルクロスの染みを作った。


 彼女は両手で顔を覆い、小さく肩を震わせた後、ゆっくりと顔を上げた。


「……ずるいよ、茉莉花ちゃん。そんなの、あたしの台詞なのに」


 涙で濡れた顔に、とびきりの笑顔を咲かせて、先輩は私の右手を両手で優しく包み込んだ。


「海外で独りぼっちで、言葉も通じなくて毎日泣いていたあたしを救ってくれたのは、茉莉花ちゃんが振るうあのメイスだった。ゲームの中で結婚を申し込んだあの時から、あたしはいつか現実でも、茉莉花ちゃんの隣で生きていきたいって、ずっと願ってたんだよ」


 先輩の言葉に、今度は私の視界が涙でぐしゃぐしゃに滲んでいく。


 彼女の温かい手が、私の指先に絡みつく。

 彼女の左手の薬指には、細く繊細な銀のリングが光っていた。

 それは、ゲームの中で私が彼女に贈ったものと全く同じデザインの指輪だった。

 彼女は海外にいる間もずっと、この指輪を現実の世界で身につけ、私との繋がりを信じ続けてくれていたのだ。


「同性の壁も、これからの困難も、二人でなら絶対に乗り越えられるよ。だってあたしたち、最強のパーティだもん。茉莉花ちゃんが敵を攻撃したり、回復してくれるなら、あたしはどんな敵の前でも盾を構えてみせる」


 その力強く、愛おしい言葉に、私は何度も何度も頷いた。

 数年間の遠回りをして、私たちはようやく、現実の世界で互いの本当の居場所を見つけることができたのだ。


 カフェ・ヴァレンタインを出ると、空は美しい茜色に染まり始めていた。


 秋の涼しい風が、私たちの髪を揺らしていく。

 先輩が極めて自然な動作で、私の右手をしっかりと握り締めた。

 高校生の頃、はぐれないようにと繋いだあの無邪気な手ではなく――これからの人生を共に歩むという、確かな覚悟と愛おしさが込められた強固な繋ぎ方だった。


 もう、海を越える必要はない。

 時差を気にして深夜にアラームをかける必要もない。


 振り返ればいつでも、大好きな彼女のシトラスの香りがそこにある。

 私たちは繋いだ手を小さく振りながら、夕陽に照らされた一本の道を、ゆっくりと歩き出した。


 私の隣には、世界で一番美しく――誰よりも愛おしい、私だけの騎士が微笑んでいる。


 私たちの本当の冒険は、ここから始まるのだ。



 Fin

ここまで読んでくださってありがとうございます!

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