②19××年4月1日
――目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。
目は覚めたが、夢が続いているような感覚だった。
「あれ、初詣の帰りだった気が……。夢か?」
夢にしては違和感が強い。
いや、夢じゃない?
昨日は確かに出掛けた。
出掛けて帰った。
帰り道の記憶はある。
記憶はあるが、帰宅した記憶は無い。
ただ、ここは帰る予定だった実家だ。
「……記憶が飛んでる? ……怖いな」
昨日の外出が夢の中の出来事で、その夢から覚めた瞬間が今この時、というような感覚。
――むしろ今が夢か?
酒を飲みすぎて記憶を飛ばしたことがあるが、それに近い感覚だ。
「ん……。部屋の中がおかしい?」
確かにここは実家だが、部屋の様子がおかしい。
まず、別の部屋に移動させたはずの本棚がある。中身も詰まっている。
更に、処分したはずの学生服がハンガーに掛けられている。
極めつけは、カレンダーだ。
今日は一月二日のはずだが、四月までカレンダーはめくられている。
しかも、西暦は19××年となっている。
二十年以上前の日付だ。
「……は?」
現状が上手く把握出来ない。
俺は片桐博和三十五歳。
今日は20××年一月二日。
頭はハッキリしている。
だからこそ、今は夢の中なのか?
ハッキリと物事が考えられる夢、ということなのか?
……それならばそれでいい。
夢と認識して見る夢は、好き勝手出来て楽しいものだ。
一応鏡を見てみる。
……なるほど。
幼くて冴えないツラをしている。
これは中学生の頃の俺のツラだな。
「なるほど、設定はガキの頃か。この年代だと俺は中学に入りたてってとこか」
冷静に分析をしてみる。
それにしても、あまりにも感覚がリアルで、とても夢とは思えない。
……いや、夢じゃない!?
少し現実逃避をしてしまったが、どう考えても俺はここに存在している。
夢なんてあやふやなものではなく、今この瞬間、確かに存在しているのだ。
『俺』は『俺』で、ここで生きている。
――どういうことだ?
心臓の鼓動が速くなり、その音が頭の中に響く。
変な汗が出てくる。
頭の中がまた真っ白になりかける。
――その瞬間、ドアの外から声が聞こえてきた。
「博和、もう朝よ。起きなさい」
「!」
この声は……。
ひどく懐かしい。
そうだ、母親の声だ。
記憶の中よりもかなり若いが、これは確かに母さんの声だ。
「もう中学生なんだから、ちゃんと起きなさい。今日が休みでも、やることはあるでしょう」
部屋のドアが開く。
ここにきて、俺は心臓が止まりそうになった。
――母さんだ。
うん、どこからどう見ても、俺の母さんだ。
「あ、あぁ、起きてるよ」
「そう、おはよう。もう朝ごはんが出来ているから、早く起きてきなさい」
「分かった……」
そう言って母さんは立ち去っていく。
俺はその場で立ち尽くしていた。
まだ信じられないが、俺は母さんに会ったのだ。
孫の顔も見せられず、情けない俺を最後まで心配していた母さんに。
戻ることのない日々を思い返して、何度母さんに『申し訳ない』と思ったことだろうか。
「母さん……」
そう呟くと、もう無理だった。
途端に目頭が熱くなる。
抑えきれない感情が溢れ出す。
「ゴメン。ゴメンなさい」
もう母さんの姿はない。
だが、この情けない自分の、やり場のない思いは大きくなるばかりだ。
決して自分はマザコンなどではない。
マザコンではないが、この何とも言えない気持ちは何だ。
母さんに縋りつきたい、母さんに懺悔したい、母さんにやり直して立派な姿を見せたい、母さんに最後まで安心していてほしい……。
「……」
もう言葉にはならなかった。
ただただ、涙が流れるばかりだ。
こんなに泣くのは、母さんの葬式以来だ。
俺はしばらくそのまま、部屋で泣き続けた。
――
「来るのが遅いじゃない。もう料理が冷めちゃってきてるわよ」
「あぁ、ゴメン」
十分くらい経ち、落ち着いた俺は朝食を食べに部屋を移動した。
目の前には母の手料理が並んでいる。
懐かしいな。
煮物と漬物。
味噌汁とご飯。
あとは焼き魚。
どれもこれも、一人暮らしをしていた俺が作らなかった料理ばかりだ。
高校を卒業するまでは毎日食べて、その後は数えるほどしか食べられなかった母の味。
「いただきます!」
俺は気持ちを引き締めて、食事に集中することにする。
母の味は、いい加減な気持ちでは味わえない。
勢い良くおかずに手を伸ばす。
まずは煮物からだ。
うん!
ゲロマズ!!
スーパーの冷凍食品の方がよっぽどマシ。
口に入れた瞬間、吐き出しそうになる謎の風味。
食材に申し訳なくなるようなこの味わい。
母さんの味だ!
初めて学校の給食を食べた時、「世の中にこんなに美味いものがあるのか」と思ったことは今でも覚えている。
しかし、義務教育が終わり、高校時代は母が手作りの弁当を用意してくれており、俺は三食おふくろの味を楽しむこととなった。
周りの奴らの冷凍食品の弁当が美味そうで、羨ましくて仕方なかった。
だが俺は、弁当を作ってくれた母には感謝していたし、弁当に関しては食べ残したことも無い。
思えばそれすらも自分の忍耐力の源になっているのかもしれない。
――俺は「食育」という言葉を思い浮かべた。おそらく意味は違う。
社会人になってから美味いものを食べ慣れてしまった舌には若干苦痛だったが、何とか久しぶりの母の手料理を残すことなく食べ終えた。
不味いものを我慢して食べたおかげか、冷静になってくる。
「ご馳走様」
そう言って俺は、部屋に戻る。
母との再会は本当に嬉しい出来事だったが、現状を整理したい。
まず、『今』がいつなのか、ということ。
新聞とTVのニュースで確認したところ、今日は19××年四月一日だった。
更に言えば、あと三日で中学の入学式があるらしい。
つまり俺は十二歳だ。
また、『俺』は誰なのか、ということ。
俺は間違いなく『片桐博和』だ。
若返ってはいるものの、家族も全員同じ人物だ。
記憶を掘り起こしてみても、昨日が20××年一月二日だったこと以外、おかしなことはない。
――いや、十分おかしいのだが。
『十二歳の片桐博和』としての直前の記憶はないものの、『三十五歳の片桐博和』として冷静に物事を考えることが出来る。
そして、この世界と俺が元々いた世界は同じものなのかどうか。
新聞と教科書で確認をしてみたが、おかしなところはない。
言葉は勿論、歴史や物理法則も以前から認識しているものと同じだ。
結論から言うと、俺は三十五歳の記憶を持ったまま、十二歳当時の俺の身体に入り込んだらしい。
「やり直しが、出来る……?」
この状態がいつまで続くかは分からない。
それこそ、夢のように終わってしまうことだってあり得るだろう。
だからこそ、戸惑って無駄に過ごしている場合ではない。
ずっと思っていた。
遠ざかってしまった過去に、手が届くなら。
もしやり直せるなら、あの時から、と。
そう、『あの時、ああしておけたなら』と思う、俺の人生の最初の大きな分岐点は、中学校の入学式だった。
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