3
静けさを取り戻した部屋の空気が重く感じる。気付かずに溜息を吐いていた。
ベッドに和樹さんが腰掛ける。
「泣くほど辛い夢でも見たのか?」
あなたが私を置いていってしまう夢だった、とは言えなかった。
「そうみたい――よく覚えてないけど」
「そうか」
沈黙の後、何か言いたそうな和樹さんは僅かに視線を落としてそれ以上聞かなかった。
朝、喧嘩のような別れ方をしたせいかいつもとは違う雰囲気に、また怒られると分かっているのに、ついそれを口にしてしまう。
「デートはどうだった?」
軽い調子になるよう、声を無理やり弾ませる。
表情が強ばらないように、「私は恋人じゃない」と心の中で何回も繰り返す。
和樹さんは朝同様、うんざりしたような表情で私を見る。けれど朝とは違い、面倒くさそうながらも口を開いた。
「近頃は残業のことをデートと言うのか」
「残業?」
「明日休むために仕事をしていた」
和樹さんは疲れたように肩を落として溜息を吐いた。
ずっと消えなかったもやもやが一瞬でなくなる。と同時に、勝手に思い違いをしていた自分を大いに恥じ、何も言ってくれなかった和樹さんに少しだけ怒りが沸いた。
「だったら朝言ってくれれば良かったのに」
「お前が勝手に盛り上がったから訂正するのも馬鹿らしくて」
「あれは――」
つい反射的に反論しようとしたけれど、確かに私が勝手に勘違いして一方的にしゃべっていた。
「うぅ――ごめんなさい」
素直に白旗をあげた私の顔を見て和樹さんの表情が少し緩んだ。
「比佐子さんがお前はどうしているのかと電話やメールでしつこくて――だから明日行くと約束をした」
「比佐子さんが?」
ここに来て間もなくの頃、裏路地にひっそり佇むお洒落なバーに連れて行って貰った。
数百年前に人魚の肉を食べて不老不死になってしまった比佐子さんはこのマンションの管理人さんとも旧知の仲で、お客さんである『ヒト』の相談にも乗ってくれるお姉さん的な存在だった。
私の事情を知ると服や下着など、女性ならではの気遣いで調達してくれた。
死なない事に関しては先輩だから、何かあったらいつでも来てね。
比佐子さんの包み込むような笑顔と言葉に、すごく安心したし素直に嬉しかった。きっと彼はそれも見越して連れてきてくれたんだろう。
「明日連れて行ってくれるの?」
「その予定で残業したと言ったが?」
お前は鶏か? と呟く和樹さんの嫌味を聞きながらも名案を思いついた。
「そうか、比佐子さんに相談しよう」
安堵した気の緩みで心の声がそのまま口から出た――らしい。
「相談?」
気が付けば、彼が怪訝そうな表情で私をじっと見下ろしている。
「あ、それは――」
そこでちらりと彼を見上げた。私が説明するまでこのままでいる気らしい。
これ以上好きにならないようにするにはどうしたら良いか相談したい――なんて口が裂けても言えない。
「えーと、だから、今後のあり方というか、心の持ちようというか――」
しどろもどろで自分でも何を言っているか分からなくなってきた。
聞いている彼のほうはもっと理解できないだろう。
「何が言いたいのかさっぱり分からない」
彼は当然の反応を見せた。けれど突き放したような言い方と表情に腹が立った。
酔っている勢いも手伝って、キッと和樹さんを睨んだ。
「和樹さんに彼女が出来たときの、身の振り方とか相談しようと思って!」
和樹さんは怪訝そうな顔から驚いたような顔になり、そして最後に呆れたような顔になった。
「やっぱりお前は鶏だな」
「は?」
溜息と一緒に吐き出された言葉の意味が分からず、つい顔を顰めた。
「三歩歩くともう忘れるんだな」
「もう少し歩いても忘れませんけど」
ついいつもの調子で切り返す。
和樹さんは呆れた表情のまま、でも少し楽しそうに笑った。
「お前は俺のものだって言ったよな?」
「うん」
まだ私が人間だった時に聞いた最後の言葉だ。
「死ぬまで、死ぬ時も一緒だって言ったよな?」
「うん」
初めての夜に聞いた言葉だ。
「で――それを聞いてお前はどう思った?」
え? ここで質問?
酔った頭をフル回転させる。しばらくしてそれらしい回答が絞り出された。
「俺のものっていうのは私が和樹さんの餌だからで、死ぬ時も一緒っていうのは、不死人は吸血鬼が死ねば死ぬから、でしょ?」
てっきり正解だと思っていたのに、和樹さんは心底がっかりしたような顔になった。
あれ? また間違った?
「だって、そういう事だよね? 間違っていないよね?」
慌てる私に和樹さんは項垂れ、溜息交じりに呟いた。
「分かった」
そして上げた顔は見事に不機嫌だった。
「お前には1マイクロも伝わってないことが」
マイクロ? マイクロってミリ以下!?
驚愕する私に、和樹さんは少し視線を外した。
「面倒だから一度しか言わない」
そして少し緊張したような表情で私を見つめた。
「お前の血がどんなにまずくてもお前が不死人じゃなくても、手放す気はない」
「そ、それって――」
結局、どういう事?
頭が全く回らない。ワインを飲んで酔ってしまったことを今更ながらに後悔した。
顔を顰めた私の顔を見て和樹さんは意地悪く笑った。
「一度しか言わないって言っただろ? もう忘れたのか」
でもその声はどこかほっとしているようだ。
「いや、それは分かっているけどそうじゃなくて、ちょっと酔っているからもう少し簡潔かつ具体的に言って貰えると――」
それでも必死に食い下がる私を彼は容赦なく押し倒した。
「嫌だね。それで察する事の出来ないお前が悪い」
彼の指が私のブラウスのボタンに掛けられる。それが何を意味するのか、察しの悪い私でも流石に分かった。
「あ、ちょっと待って! 先にお風呂――」
深紅に染まる彼の瞳が、戸惑う私をまっすぐ射貫く。
「もう待てない」
遮ったその唇で私の口を強引に塞いだ。
「愛しているなんて、お前が気付くまで言わないからな」
彼の腕の中で微睡む私には、囁かれたその声が夢なのか現実なのか、分からなかった。