第1話 俺の人生は、ここからだ
三年間という時間は、長いようでいて、終わってしまえば驚くほど短い。
少なくとも、矢城勇真にとってはそうだった。
「以上をもちまして、卒業証書授与式を終了いたします」
体育館に響いた声を合図に、それまで張り詰めていた空気が一気に緩んだ。椅子から立ち上がった卒業生たちは、それぞれ友人のもとへ集まり、三年間の終わりを惜しむように言葉を交わし始める。
「終わったー!」
「三年間、マジで一瞬だったな!」
「写真撮ろうぜ!」
「桃香! あとでみんなで撮ろ!」
「いいよー!」
あちこちから笑い声が聞こえてくる。泣いている女子もいれば、肩を組んでふざけ合う男子もいる。スマートフォンを取り出し、最後の制服姿を写真に残そうとしている者もいた。
そんな中、勇真は一人だった。
別に今日だけではない。思い返せば、三年間ずっとこんな感じだった。
成績は悪くなく、運動だって中学まではバスケットボールをやっていたから、人並み以上にはできる。顔については自分ではよく分からないが、少なくとも見るに堪えないほどではない……と思いたい。
それなのに、高校生活は見事なまでに何もなかった。
友達らしい友達はおらず、もちろん彼女なんてできたこともない。クラスでは目立たない存在で、時には馬鹿にされても、まともに言い返すことすらできなかった。
――三年間もあったのに。
勇真は、楽しそうに話しているクラスメイトたちを眺めた。
女子の輪の中心にいるのは、名取桃香だ。小学校の頃から知っている桃香は、高校でも変わらず人気者だった。頭が良く、運動もできて、誰とでもすぐに仲良くなれる。
自分とは正反対の人間だ。
少し離れたところでは、成瀬健太と高石守が男子たちに囲まれていた。
健太は顔が良く、勉強もできて運動神経も抜群。それなのに嫌味なところがなく、誰にでも自然に接することができる。勇真から見れば、まさに何もかもを持っている人間だった。
「……すげえよな」
思わず小さく呟いた。
同じ十八歳で、同じ高校に通い、同じ三年間を過ごした。それなのに、どうしてここまで違うのだろう。
勇真から見れば、健太のような人間こそが「人生の勝ち組」だった。
さらに視線を動かすと、清水千尋と栗原友香が話している。
「チヒロ、卒業しても絶対遊ぼうね!」
「当たり前でしょ。何泣きそうになってんの」
「泣いてないし!」
「目、赤いけど」
「うるさい!」
友香が千尋の腕に抱きつくと、千尋は面倒そうな顔をしながらも振り払おうとはしなかった。
勇真は無意識にその姿を見ていたが、千尋と目が合う前に視線を逸らした。
清水千尋。美人で気が強く、言葉遣いも態度もどこか怖い。そして何より、なぜか自分のことをひどく嫌っている。
理由は分からない。ほとんどまともに話したことすらないのに、目が合うだけで露骨に嫌そうな顔をされたこともあった。そのため勇真も、できるだけ関わらないようにしてきた。
「おい、矢城」
突然名前を呼ばれ、勇真の肩がわずかに跳ねる。
「……何?」
振り返ると、真下徹が立っていた。その後ろには川井純平と林剛もいる。
「卒業式まで一人?」
勇真が黙っていると、徹は面白そうに笑った。
「三年間ブレねえな、お前」
純平と剛もつられるように笑う。
腹が立たないわけではない。むしろ言い返したかった。
最後くらい「うるせえよ」と、その一言をぶつけてやればいい。今日でこいつらとの関係も終わるのだから、今さら何を恐れる必要がある。
そう頭では分かっているのに、いざ口を開けば――。
「……別にいいだろ」
出てきたのは、それだけだった。
「怒んなって」
徹たちは笑いながら離れていった。
勇真は何も言えず、その背中を見ながら拳を握る。
最後までこれか。
情けなくなってくる。
頭の中なら何度だって言い返せる。「こう言えばよかった」「ああ言えば黙らせられた」と、相手がいなくなってからならいくらでも言葉が浮かぶ。
けれど、次に同じようなことが起きれば、また何も言えなくなる。
そんなことを三年間も繰り返してきた。
それが矢城勇真という人間だった。
◇
教室を出ると、廊下でもあちこちで写真撮影が始まっていた。
「三年間ありがとー!」
「大学行っても遊ぼうな!」
「グループ消すなよ!」
そんな声を聞きながら、勇真は一人でその横を通り過ぎていく。誰からも呼び止められないし、自分から声をかけることもない。
階段を降り、靴を履き替え、昇降口を出ようとしたところで声をかけられた。
「矢城」
「……ん?」
振り返ると、そこには堀井将士がいた。
同じクラスの、あまり目立たない男子だ。勇真と同じようにクラスの中心にいるタイプではなかったが、誰かを馬鹿にしたり、必要以上に騒いだりするような人間でもなかった。
「卒業、おめでとう」
「……ああ。堀井も」
「うん。じゃあな」
「ああ」
それだけ言って、将士は去っていった。
勇真はその背中をしばらく見つめる。
もっと何か言えばよかった。三年間ありがとうでも、大学はどこへ行くんだでも、また会おうでも、何だってよかったはずだ。
それなのに、結局出てきた言葉は「ああ」だけだった。
「ほんと……俺って」
自嘲気味に笑う。
最後の最後まで、何も変わらなかった。
◇
校門を出る直前、勇真は足を止めて振り返った。
三年間通った高校も、今日で最後だ。
ところが卒業したという実感より先に、胸の奥から妙な虚しさが込み上げてくる。
「……俺、高校で何してたんだろ」
三年間を振り返ろうとした。
授業を受け、テストを受け、朝になれば学校へ来て、授業が終われば家に帰る。その繰り返しだった。
では、文化祭では何をした?
体育祭は?
修学旅行で誰と一緒に行動した?
放課後、誰かと遊んだことは?
誰かを本気で好きになったことは?
何か一つでも、夢中になったものはあっただろうか。
考えても、「これだ」と言えるものが何一つ浮かばなかった。
十八歳になり、高校生活は今日で終了。彼女はいない。親友と呼べる相手もいない。三年間を象徴するような思い出さえ、ほとんどない。
「最悪じゃん……」
思わず笑ってしまったが、少しもおかしくなかった。
校門の近くでは、桃香たちが楽しそうに写真を撮っている。健太たちも笑っていた。きっと彼らにとっては、終わってほしくないと思えるほど充実した三年間だったのだろう。
自分は違う。
卒業することが悲しいのではなく、何もできないまま三年間が終わってしまったことが悔しかった。
「……大学行ったら変わるかな」
大学デビューという言葉もある。環境が変われば、自分だって変われるかもしれない。友達ができて、もしかしたら彼女だってできるかもしれない。
大学生活を楽しみ、その後は就職する。新しい人たちと出会い、今までとは違う人生を送る。
そんな未来を思い描こうとして、勇真は途中でやめた。
代わりに浮かんできたのは、大学の講義室で一人座っている自分だった。昼休みにはスマートフォンを眺めながら一人で飯を食べ、大学を卒業したあとは会社と家を往復するだけの日々を送る。
そして何年か経った頃、きっとまた同じことを思う。
――あの時、変わっていれば。
「……違う」
勇真は足を止めた。
大学へ行けば変わる。就職すれば変わる。新しい環境へ行けば、誰かが自分を変えてくれる。
そんなわけがない。
高校へ入学した時だって、「高校生になったら変わろう」と思っていたはずだ。友達を作って、彼女も作って、楽しい高校生活を送ろうと考えていた。
その結果が、今の自分だった。
環境が勝手に人生を変えてくれると思いながら、自分からは何もしなかったのだから当然だ。
「俺が変わらなかったら……どこに行ったって同じじゃねえか」
もう一度、校舎を振り返る。
悔しかった。
三年間を無駄にしたことも、徹に最後まで何も言えなかったことも、将士にまともな一言すら返せなかったことも、全部ひっくるめて情けなかった。
けれど、終わってしまった高校生活は取り戻せない。過ぎた三年間を悔やみ続けるくらいなら、これから先を変えるしかない。
「変わるなら、今しかない」
今までも「変わりたい」と思ったことは何度もある。ただ、いつも思うだけだった。
明日から頑張ろう。次はちゃんとしよう。大学に入ったら変わろう――そうやって先延ばしにしているうちに、三年間が終わった。
もう同じことは繰り返したくない。
「変わってやる。どうせ変わるなら……徹底的に変わってやる」
友達を作り、恋愛もする。勉強や運動にも本気で取り組み、人の顔色ばかり気にするのをやめる。言いたいことを言えるようになって、誰かに馬鹿にされても俯いているだけの自分とは今日で終わりにする。
全部を手に入れるくらいのつもりでやってやる。
「人生の勝ち組になってやる」
口にした途端、少し恥ずかしくなった。
「……何言ってんだ、俺」
それでも、不思議と悪い気分ではなかった。これまでの十八年間で初めて、自分の人生を誰かや環境に任せるのではなく、自分自身で動かそうと思えた気がする。
勇真は小さく笑い、もう一度だけ高校を振り返った。
「俺の人生は――ここからだ」
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
「ん?」
取り出して画面を見ると、一件の通知が届いている。
その内容を目にした瞬間、勇真の表情がわずかに変わった。
――そこから先の記憶は、なぜか曖昧だった。
誰かに呼ばれたような気がする。
夕暮れの中、人の少ない場所へ向かった記憶が断片的に浮かび、その先には誰かが立っていた。
『矢城』
女の声だった。
聞き覚えのある声だったような気もするのに、なぜか顔だけが思い出せない。何を話したのか、どうしてそこへ行ったのかも分からない。
ただ、一瞬だけ何かが光った。
そして次の瞬間、勇真の視界は暗闇に包まれた。
◇
ピピピピピピッ――!
「――っ!」
けたたましい電子音に、勇真は勢いよく目を開けた。
荒く息をしながら見上げた天井には、嫌というほど見覚えがある。
「……俺の部屋?」
身体を起こすと、頭の奥が妙にぼんやりしていた。
卒業式のことは覚えている。徹に最後まで言い返せなかったことも、将士に声をかけられたことも、校門の前で自分の人生を変えると決意したことも覚えている。
しかし、そこから先だけが奇妙なほど抜け落ちていた。
「俺……どうやって帰ってきた?」
記憶を探ろうとした時、勇真は部屋の違和感に気づいた。
机の上には新品の教科書が積まれ、その隣には見覚えのある学生鞄が置かれている。だが、卒業するまで使っていた傷だらけの鞄ではない。
「何だこれ……」
ベッドから降り、何気なく鏡の前を通り過ぎようとして足が止まった。
「……え?」
鏡に映っているのは、間違いなく自分だった。
けれど、昨日までより少し幼い。髪型にも見覚えがある。
「いや……待て」
嫌な予感がして、勇真は机へ駆け寄った。
スマートフォンを掴んで画面をつける。
【4月8日】
「…………」
一瞬、意味が理解できなかった。
「4月……8日?」
卒業式は三月だった。しかも、画面に表示されている西暦まで確認すると、勇真は息を呑んだ。
三年前。
「嘘だろ……」
何度画面を確認しても表示は変わらない。壁に掛けられたカレンダーを見ても、そこに記されているのは同じ年だった。
新品の教科書と鞄。三年前の日付。そして、鏡に映った少し幼い自分。
「なんで……」
その時、部屋の外から母親の声が飛んできた。
「勇真ー! 早く起きなさい!」
勇真の肩が跳ねる。
「何してるの! 遅刻するわよ!」
「遅刻って……」
何を言っているのだろう。
自分は昨日、高校を卒業したはずだ。
ところが母親は、何でもないことのように続けた。
「今日、高校の入学式でしょ!」
「…………」
勇真は何も答えられなかった。
新品の教科書。新しい鞄。三年前の日付。少し幼い自分。そして、高校の入学式。
偶然で説明できるものではない。
「いや……そんなわけ……」
乾いた笑いが漏れた。
もう一度スマートフォンを見る。
【4月8日】
表示は変わらない。
三年間、何もできなかった高校生活。そのすべてが始まった日だ。
勇真はスマートフォンを握りしめたまま、呆然と呟いた。
「俺……高校入学の日に戻ってる……?」




