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追憶のヴァルトリア  作者: 律蒼唯
第一章 崩落編

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第一章幕間 「見えざる鎖が導く先で」

 空を覆い尽くしていた楽園都市エデンの崩落による地響きが、遠い幻聴のように僕の耳の奥にこびりついて離れない。


 西方都市を出発してから、すでに二度の夜を過ごした。


 かつては無数の人々が息づいていた街の残骸を背に、どんよりと濁った灰色の空の下を、僕たち四人はひたすらに歩き続けている。


「……っ、は、あ……!」


 乾いた赤茶けた土を蹴る僕の足がもつれ、その場に崩れ落ちそうになった。


 乾ききった空気が肺に流れ込み、焼け焦げるように熱く、呼吸をするたびに喉の奥から鉄の味が這い上がってくる。先日、三日三晩も死の淵を彷徨うように眠り続けたにもかかわらず、肉体の奥底にはいまだに重い鉛のような疲労と痛みがへばりついている。


 無理もない。ただの十五歳の少年の身体で、その身に宿る開かずの扉を強引に開いてしまったのだから。


 全身の骨が一度細かく砕かれ、神経の束を無理やり繋ぎ合わされたかのような凄まじい激痛は、完全に癒える気配がない。


 今も時折、視界の端がぼんやりと歪むような錯覚に陥り、心臓が異常な早鐘を打って体温が急激に跳ね上がる。僕という器の中に、到底収まりきらない規格外の熱源――世界を裁くための力――が、暴走の出口を求めて燻り続けているのを感じていた。


「お兄様、無理をしないでください。……これを」


 すかさず隣から差し伸べられた白く細い手が、崩れかけた僕の身体を優しく、けれどしっかりと支え止めてくれた。


 見上げれば、黄金色の瞳をひどく痛ましげに揺らしたフィナが水筒を差し出している。


 純白だったはずのドレスは今や煤と泥に汚れ、あちこちが引き裂かれていた。それでも彼女は、自分の身なりなど一切気にする素振りも見せず、甲斐甲斐しく僕の額に浮かんだ脂汗を布で拭ってくれた。


「……ありがとう。でも、もう大丈夫だから」


 僕はわざとぶっきらぼうな声を出して水筒を受け取り、生ぬるくなっていた残りの水を喉へと流し込んだ。


 あの日、瓦礫の山で僕が彼女を『一応、僕の妹だってことはさ』と不器用に認めた瞬間から、フィナの態度は劇的に変わっていた。


 かつて見せていた、冷徹なヴァルトリアの処刑人としての仮面は完全に鳴りを潜めた。今はただ、十五年間ずっと探し求めていた肉親の温もりを確かめるように、不器用ながら僕を気遣い、慕ってくる一人の少女としての顔を見せている。


 そのひどく真っ直ぐで純粋な視線が、僕にはまだ少し気恥ずかしく、同時に、どうしようもなく温かかった。


「まだ顔色が優れません。……ローヴェル、少し進む速度を落とすべきです」


 フィナが、前方を行く大柄な騎士に向かって鋭く進言する。


「お言葉ですが、お嬢。これでも随分と歩調は合わせているつもりですよ」


 先頭を歩いていたローヴェルが、堅牢な肩をすくめながら振り返った。その無機質な青い瞳には、周囲の荒野に対する極度の警戒が張り付いている。


「それに、足を止める必要もなさそうです。……見てください、ちょうどいい中継地が見えてきましたよ」


 ローヴェルが前方を指さした。


 舞い上がる灰色の土煙の向こう、荒涼とした大地を切り裂くようにして、いくつかの石造りの建物が身を寄せ合うように固まった小さな集落が姿を現していた。


「あれは南方都市の入り口へ続く、最後の中継拠点ですね。……無法地帯のすぐ手前にある割には、随分とまともな形を保っている」


 しんがりを務めていたセラヴィスが、赤い瞳を細めながら呟く。彼女は周囲の岩陰や大地の起伏に身を隠す刺客がいないか、油断なく気配を探っていた。


「あそこで少し休もう。ノア様の身体も、我々の物資も限界が近い」


 ローヴェルの提案に反対する者は誰もいなかった。


 中央都市の追手から身を隠し、僕の狂った回路を正常に戻すための唯一の希望である『南方都市』。その手前にあるこの集落で、僕たちは数日間の休息と情報収集をとることに決めた。


 近づくにつれて、段々と集落の入口が見えてきた。


 入口には、大人が何人か同時に通れるほど幅のある木造の大きな門があった。


 その門は左右に大きく開かれており、奥には人の行き来する姿がよく見える状態のまま、自由に出入りできた。


 集落の敷地内へと足を踏み入れた瞬間、僕の肌は微かな違和感を粟立たせた。


(……なんだ、ここは)


 南方都市の近隣。それも、中央の御三家の目が届かない最果ての無法地帯だ。もっと荒れ果て、生きる希望を失った犯罪者や難民がひしめき合う、暴力と血の匂いが充満するスラムのような場所を想像していた。


 だが、目の前に広がる光景は、僕たち一行の予想を完全に裏切っていた。


 通りは不自然なほどに綺麗に掃き清められ、ゴミ一つ落ちていない。行き交う人々の身なりも、決して裕福ではないが修繕された清潔な衣服を身に纏っている。建物の壁には新しく補強された跡があり、小さな市場の屋台には新鮮な野菜や保存肉が整然と並べられており、店主が元気に呼び込みを行っている。


 荒野のただ中にありながら、ここには奇妙な「活気」と「秩序」が満ちていたのだ。


「……なんだか妙ですね、ローヴェル。西方の辺境、それも南に隣接する土地で、これほど物資が循環しているとは」


 セラヴィスが声を潜め、(いぶか)しげに周囲を見回す。


「ああ、だが今は目立たないことが先決、調べるのは後だ。……まずは宿を手配しよう」


 ローヴェルが先導し、僕たちは大通りから少し外れた場所にある、古めだが清潔に整えられた宿屋へと身を滑り込ませた。


 セラヴィスの手慣れた交渉により二つの部屋を確保できた。フィナはセラヴィスと、僕はローヴェルと部屋を共にすることとなった。


「ノア様、流石にまだ回復していないでしょう。俺はセラヴィスとこの近辺を調査してくるので、ひとまず休んでいてください」


 僕は少し息を切らしながら部屋へ入ると、窓際に置かれていた簡素なベッドへ倒れ込むように横たわった。硬いマットレスの感触が背中を叩いた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、抗えない睡魔が僕を深い暗闇の底へと引きずり込んでいった。



 だが、すぐに暗闇は晴れた。


 純白の塔が崩れ落ちる光景。逃げ惑う人々の叫び声。そして瓦礫の向こう側で僕に向かって手を伸ばす、母さん――フェリンとイリス、その後ろにはヴァンスおじさん、エレナおばさんの姿もあった。


 これは夢だ。今、僕は夢を見ているんだ。


『ノア、助けて……!』


 彼女たちの悲鳴を聞きながら、僕は指一本動かすことができない。


『どうして、置いて行ったの?』


 無力な己を呪う感情だけが渦巻く。


『『『『…………ノア?』』』』


 視界がどす黒い炎に包まれていく――。


「……っ、はあっ!」


 僕は弾かれたように身を起こした。


 全身が冷たい汗でびっしょりと濡れている。窓の外を見ると、すでに陽は完全に落ち、集落は夜の静寂と、まばらなランタンの灯りに包まれていた。


「……夢、か」


 荒い呼吸を整え、両手で顔を覆う。


 いつまでも休んでいる暇はない。力を手に入れ、一刻も早く彼女たちの無事を確認しなくてはならない。


 だが、次第に僕の中で一つの考えが思い浮かんできていた。


「僕が帰ったら、また……みんなを危険な目に――」


 空腹が、胃袋を鋭く締め上げた。


 ここ数日しばらく水だけで過ごしていたため、さすがにお腹が悲鳴を上げている。


 階下から漂ってくる肉を焼く香ばしい匂いにつられ、重い身体を引きずって部屋を出ると、大勢の人間が騒ぐ賑やかな声に誘われるように、宿の食堂へと向かった。


 食堂の隅にある目立たない席では、すでにローヴェルとセラヴィス、そしてフィナが席に着いていた。


「目覚めましたか、お兄様。今、丁度お部屋へ呼びに行こうとしていた所です」


 フィナがそっと椅子を引き、僕を座らせる。


 程なくして、無骨な木の器に盛られた料理が運ばれてきた。


 大雑把に切られた獣肉を、濃い香辛料で煮込んだ塩気の強いスープと、硬く焼き上げられた黒パン。見た目は粗末だが、飢えた肉体には何よりのご馳走だった。


 僕は木のスプーンを手に取り、熱いスープを喉の奥へと流し込んだ。


 強烈な香辛料の刺激と、獣肉の野性味あふれる味が口いっぱいに広がる。不味くはない。生命力を補給するには十分すぎる食事だ。


 だが、その濃すぎる味付けが、僕の脳裏にどうしてもある記憶を呼び起こしてしまう。


 干し肉の出汁がほんのりと染み出た、あの優しくて温かい、母さんの薄味のスープ。野菜の切り方は不揃いだったけれど、食べればいつでも心が休まり、日常へと帰ってくることができたあの味。


 スプーンを持つ手が微かに震える。


 無事だろうか。あの巨大な瓦礫の向こう側で、今も助けを待っているのだろうか。


 僕はギリッと奥歯を噛み締め、木のスプーンを強く握り直した。


 必ず生き延びてやる。この力を完全に自分のものにし、すべてを終わらせて必ず迎えに行く。


 悲しみと焦燥を、僕は硬いパンと共に無理やり胃袋の奥底へと押し込んだ。



「ガハハッ! おい、聞いたか? 南方都市の仕事の件だよ!」


 ふと、隣の大きなテーブルを囲んでいた旅の商人らしき男たちの、陽気な笑い声が耳に飛び込んできた。


 酒の入ったジョッキを豪快にぶつけ合い、彼らは上気した顔で語り合っている。


「あぁ、本当らしいな。なんでも、新参者でも真面目に働きさえすれば、衣食住が完全に保障されるらしいぜ」

「一昔前は人殺しと泥棒の巣窟だって聞いてたが、いまや犯罪一つ起きない平和な街だっていうじゃないか。新しく偉い統治者様が街のルールを完璧に整備してくれたおかげらしいぞ」

「まったくだ。西の都市があんな有様になっちまったんだ、中央のクソ高い税金に絞り取られて野垂れ死ぬくらいなら、さっさと南へ出稼ぎに行った方がマシだ! 俺たち貧乏人にとっては、あそこは希望の街だよ!」


 男たちは嬉しそうにエールを煽り、まだ見ぬ南の都へ希望を馳せている。


 その会話を聞いた瞬間。


 食堂の空気が、僕たちの席の周りだけ、ピキリと凍りついた。


「……おい。どういうことだ」


 僕はスプーンを置き、声を潜めて向かいに座るローヴェルとセラヴィスを見つめた。


「南方都市は、御三家の勢力が及ばない『最悪の無法地帯』だって、お前たち言ってたよな? なんであの人たちは、あんなに嬉しそうに『平和な街』だって噂してるんだよ」


 問いかけに対し、ローヴェルは青い瞳に鋭い動揺を走らせ、腕を組んだまま硬直していた。


 セラヴィスもまた、食事の手を完全に止め、赤い瞳の奥に冷たい不審の光を宿して静かに唇を噛んでいる。


「……あり得ません」


 セラヴィスの声は、かつてないほどに低く、そして硬かった。


「私の知る限り、南方都市は血で血を洗う複数の組織が縄張りを争う、文字通りの『吹き溜まり』だったはずです。誰もが自分の命を守るために他人を蹴落とすあの場所で、自然にそんな善意の秩序が生まれるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない」


「俺たちの持っていた情報が……完全に間違っている、ということか」


 ローヴェルが、苦々しげに呟く。


 彼らは御三家に属するエリートだ。西のシュヴァルゼン家や東のセリグラード家の動向すら把握している彼らが、南方都市の現状・・について、何一つ正確な情報を掴めていなかった。


 それはつまり、南方都市が中央都市の情報網を意図的に遮断し、完璧な隠蔽工作を行っていることを意味していた。


「何かが、あの街を塗り替えた。……それも、私たちの想像を絶する力を持った『何か』が」


 セラヴィスはそう言って、暗闇が広がる窓の外、南方都市がそびえ立つ南の方角を冷たく睨みつけた。


「犯罪一つ起きない平和な街……か」


 僕は自身の震える手のひらを見つめ、グッと拳を握った。


「お兄様……」


 ただの力による支配ならば、反逆者が生まれて争いが絶えないはずだ。それなのに、街の外にまで『平和で安全な街』という噂が流れてきている。


 まるで巨大な蜘蛛が美しい糸を張り巡らせ、獲物が自ら飛び込んでくるのを甘く誘っているかのような。


 輪郭の見えない静かで不気味な恐怖が、僕の背筋を冷たい指でなぞり上げるのを感じた。


----------


 翌朝。乾いた風が、荒野の細かい砂を巻き上げて集落の窓をカタカタと叩く音で、僕は目を覚ました。


 身体の節々に残る鈍い痛みは相変わらずだったが、昨晩の食事と睡眠のおかげか、最悪の底は脱したような感覚があった。少なくとも、自力で立ち上がり歩くことには支障がない。


 顔を洗い、簡素な身支度を整えて部屋を出た。


 階下に降りると、すでにローヴェルとセラヴィス、そしてフィナが円卓を囲み、声を潜めて何事かを話し合っていた。僕の姿を見るなり、三人の表情がわずかに引き締まる。


「おはようございます、お兄様。お加減はいかがですか?」


 フィナがすかさず立ち上がり、僕の体調を気遣うように顔を覗き込んできた。その黄金の瞳には、昨夜の不安げな色は少し薄れ、いくぶんかの安堵が混じっている。


「おはよう。ああ、だいぶマシになったよ。……それで、何か分かったのか?」


 僕が席に着きながら尋ねると、ローヴェルが重々しい面持ちで首を横に振った。


「夜明け前からセラヴィスと共に集落を歩き回ってみましたが……収穫はゼロに近い。いや、正確に言えば、『異常がないこと自体が最大の異常』という状態です」

「どういうことだ?」

「この集落の人間の顔には、西の鉄鎖巷や焔牙層で見てきたような、飢えや絶望、あるいは他者を出し抜こうとする狡猾さが一切ありません。誰もが決められた日々の仕事を淡々とこなし、挨拶を交わし、慎ましくも穏やかに生きている。……まるで、完全な庇護の下にある温室の植物のようです」


 セラヴィスが赤い瞳を細め、窓の外を行き交う村人たちを冷たい視線で観察しながら言葉を継いだ。


「無法地帯と隣接する境界の地で、自警団すらろくに機能していない集落が、これほど豊かな物資と平穏を保てるはずがない。南の都から何らかの『恩恵』を受けているとしか考えられません。……しかし、その対価が何なのかが、全く見えてこない」


 昨晩の『平和な街』という前向きな噂。


 だが、その平和がどのような形の上に成り立っているのか。それを探るため、僕たちは四人で集落の奥へと調査に赴くことになった。


 宿を出て、少し土埃の舞う大通りを歩く。


 すれ違う村人たちは、僕たちのような見慣れない余所者を見ても、警戒するどころか愛想よく会釈をして通り過ぎていく。それが逆に僕たちの警戒を強める要因となっていた。


 しばらく歩き、大通りから一本外れた薄暗い路地裏へ差し掛かった時のことだった。


「……ん?」


 ふと足を止めた。


 路地の奥、瓦礫と木箱が積まれた影から、ズリッ、ズリッ、と、何か重いものを引きずるような異音が聞こえてきたのだ。


「ローヴェル」

「ええ。何かがいます」


 ローヴェルが剣の柄に手をかけ、セラヴィスが音もなく僕の死角をカバーする位置へと滑り込む。フィナもまた、僕の前に立ち塞がるようにして身構えた。


 じりじりと距離を詰め、瓦礫の影を覗き込んだ瞬間。


 僕は思わず息を呑み、言葉を失った。


「……っ、あ、あぁ……」


 そこにいたのは、衣服をボロボロに引き裂かれ、全身が土と乾いた血にまみれた一人の男だった。


 男の肌は死人のように青白く、頬は極限まで痩せこけ、眼窩が不気味なほど落ち窪んでいる。男は地面に這いつくばりながら、両手の爪が剥がれているのにも構わず、南の方角――南方都市がある方向へと向かって、地面をガリガリと掻きむしっていた。


「おい、大丈夫か!?」


 僕は咄嗟に駆け寄り、男の身体を抱き起こそうとした。


 その時、破れた襟元から見えた男の首筋に、何かに深く抉られたような、二つの生々しい傷跡が赤黒く変色しているのが目に入った。


「しっかりしろ! 宿から人を呼んでくる! ……大丈夫だ、あんた、南の無法地帯から命からがら逃げてきたんだろ? もう安心だから――」


「違あ”ぁ”う……っ!!」


 突如、男が鼓膜を裂くような狂った悲鳴を上げ、僕の腕を激しく振り払った。


 その腕力は、痩せこけた身体からは想像もつかないほど強烈だった。男の瞳は異様な血走りに染まり、焦点の合わない目で空虚を睨みつけながら、僕の言葉を完全に否定した。


「違うんだ……、俺は逃げてきたんじゃない! 俺は……俺は追い出されたんだぁぁっ!」

「……え?」

「税を……今月の税を払えなかったから! あの綺麗で、安全で、完璧な街から……俺はゴミみたいに放り出されたんだよ”ぉぉっ!」


 目の前の男は僕を見るのをやめ、ガタガタと全身を激しく痙攣させながら、再び南の空へ向かって、血が滲むほど両手を伸ばした。


「外の世界は地獄だ! 飯もない、夜の恐怖に怯えなきゃならない、誰も守ってくれない! 嫌だ、あそこに戻してくれ! 頼むから、もう一度あの壁の中に置いてくれぇぇっ……」


 男は涙とよだれで顔をぐしゃぐしゃにし、地面に額を擦りつけながら泣き叫んだ。


「来月は……来月はちゃんと全部納めるから! だから見捨てないでくれぇぇっ!!」


 狂乱し、這いずり回る男の無惨な姿を前に、僕たちはただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 背後で、セラヴィスが忌々しげに舌打ちをする音が聞こえた。


「……逃げ出したんじゃない。追い出されて、絶望している……」


 僕の口からも、信じられないというような呟きが漏れる。


 暴力で押さえつけられ、恐怖で支配されているのではない。


『あの中にいれば安全で幸福になれる』という、甘く致命的な蜜。それによって、人間の精神を根底から完全に依存させ、自ら進んで税を差し出させるほどに洗脳しているのだ。


 鞭で打たれるよりも恐ろしい、輪郭の見えない狂気的な統治の在り方。


 僕は、南の地平線の彼方にそびえるであろう巨大な都市の影を幻視し、背筋が凍りつくような強烈な悪寒を覚えた。


 男を近隣の住人に引き渡し、僕たちはさらに集落の奥へと足を進めた。


 通りがかった住人たちは男を哀れむでもなく、ただ『可哀想に、ルールを守れなかったんだね』と無感情に呟いて回収していった。


 歩を進めるごとに、集落の異質さはより浮き彫りになっていく。


 やがて四人の前に、周囲の荒れた風景にはおよそ不釣り合いなほど、過剰に立派で清潔な石造りの建物が姿を現した。


 高い石壁に囲まれたその敷地内には、手入れの行き届いた広大な中庭が広がり、この灰色の世界には珍しい純白の花々が咲き乱れている。


「……あれは孤児院、でしょうか」


 鉄格子の門越しに中庭を見つめ、フィナが黄金の瞳を丸くして呟いた。


 花畑の中では、十歳にも満たない小さな子供たちが数十人、揃いの清潔な白い衣服を身に纏い、追いかけっこをして遊んでいた。


「わぁ、お兄ちゃん、お姉ちゃんたち! どこから来たの?」


 門の外に立つ僕たちに気づき、五、六人の子供たちが無邪気な笑顔を浮かべて駆け寄ってきて、「こっちこっち!」と庭の方へと歓迎してくれた。


 鉄格子の隙間から顔を覗かせる彼らの肌は、信じられないほど滑らかで、髪にも艶があった。鉄鎖巷で廃品を拾って走り回っていた子供たちのような、煤や油にまみれた泥臭さは微塵もない。


「……俺たちは、西の方から来たんだ。ここはすごく良いところみたいだな」


 僕は努めて声を和らげ、しゃがみ込んで尋ねた。


 子供たちからは、見知らぬ大人に対する警戒心や怯えといった感情が全く感じられない。純粋な好奇心だけで僕たちを見つめ返してくる。


「うん! ここはね、毎日すっごく美味しいごはんが食べられるの。ふかふかのベッドもあるんだよ!」


 一人の少女が、屈託のない笑顔で大きく頷いた。


 だが、その後に続いた言葉が、僕の耳に冷たく、そして不気味にこびりついた。


「でもね、大人たちから『お外で走ってケガをしたら、すごく悲しいことが起きるからダメだよ』って言われてるの。だから、あんまり走っちゃいけないんだ。お行儀よくして、いつも身体を綺麗にしていなくちゃいけないんだって」

「……悲しいこと?」


 僕が聞き返すと、少女はまるで母親から教えられた大切なおとぎ話を暗唱するように、目を輝かせて南の空を見上げた。


「うん。お行儀よく、ケガをしないで綺麗な子にしてたらね……いつか南の都の、とっても偉い貴族様がお迎えにきてくれるの! だからみんな、あのお城に行くのを楽しみにしてるんだぁ!」

「そうだよ! 貴族様のお城に行ったら、もっともっと幸せになれるんだって!」


 他の子供たちも口々に賛同し、嬉しそうに飛び跳ねる。


 その無邪気な声は、先ほどの路地裏で狂乱していた男の姿と重なり、胸に冷水のような悪寒を走らせた。


 ……南の都の、貴族様?


 僕がゆっくりと視線を上げると、中庭の奥のテラスで、子供たちを見守っている村長をはじめとする大人たちの姿が目に入った。


 彼らは、子供たちが僕たち部外者と話しているのを咎める様子もなく、ただ静かに微笑みながらその場に立ち尽くしている。


 だが、僕は息を呑み、思わず一歩後ずさった。


 背後で、セラヴィスとローヴェルの呼吸がピタリと止まる気配がした。


 子供たちのお世話をする大人たちの顔。


 確かに彼らの口元は穏やかな弧を描いている。先ほど子供の頭を撫でていた手つきも、ひどく優しく、丁寧だった。


 しかし、その瞳には決定的な何かが欠落していた。


 彼ら大人の目は、目の前で笑い、無邪気に駆け回る子供たち『本人』を全く見ていないのだ。


 その瞳はどこか虚ろで、焦点が合っておらず、薄いガラス玉のように空虚だった。まるで、我が子を愛する親の温もりや情愛など最初から存在せず、ただ、何かもっと別の、巨大で逆らうことの許されないルールに対する恐怖と義務感だけで、子供たちへ機械的に微笑みかけている。


 気味が悪い。あんな大人、焔牙層ですら見たことがない。


「……離れますよ」


 背後から、セラヴィスの氷のように冷え切った声音が響いた。


 僕が振り返ると、ローヴェルの顔も訝しんでいるのが分かった。


 これといった情報は何もない。


 子供たちは心から幸せそうに笑い、庭で楽しそうにはしゃいでいる。


 だが、それこそが異常だった。


 この集落全体が、南方都市という存在を前に、何かしらの狂ったルールに縛られ、静かに、しかし決定的に内側から歪み始めている気がする。物理的な鎖ではなく、精神の髄まで浸透した目に見えない恐怖と洗脳の鎖。


「……バイバイ、お兄ちゃんたち! 気をつけてね!」


 手を振る子供たちの背後で、虚ろな目をした大人たちが一斉にこちらへ向かって深く、機械的なお辞儀をした。


 その異様な光景に、僕は何も答えることができず、ただ背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒に震えながら、孤児院の門から逃げるように立ち去った。


 宿の部屋に戻った四人の間には、鉛のように重く、息苦しい沈黙が横たわっていた。


 分厚い木の扉を閉め、窓のカーテンを引き切った薄暗い室内。


 それぞれが壁際や椅子に腰を下ろし、先ほど目にした光景の余韻に言葉を失っている。


「……やはり、完全に異常だ」


 沈黙を破ったのは、ローヴェルだった。


「犯罪のない平和な街。そこから追放されて狂いかける男。そして、子供たちを虚ろな目で見つめ、南の都へ送るために育てる大人たち……。俺たちの持っていた『複数の組織が血を洗う最悪の無法地帯』という情報は、完全に過去のもの、あるいは中央の目を欺くための目眩ましだ」

「ええ。暴力による強引な略奪や支配なら、まだ対処のしようがあります。敵の首魁を討てば済む話ですから。ですが……」


 セラヴィスが静かに腕を組み、冷たい壁に背を預けたまま赤い瞳を伏せた。


 彼女の声には、数多の死線を潜り抜けてきた暗殺者としての本能が警鐘を鳴らす、深い危惧が込められていた。


「あの街にいるナニカは、人間の心を内側から飼い慣らし、自発的に従属させている。恐怖や暴力ではなく、『そこに行けば幸せになれる』という甘い信仰を植え付け、人間の精神を根底から服従させているのです。……私たちの想像を絶する底知れない相手が、すでに南の全域を支配していると考えるべきでしょう」


 情報の盾がない。敵の全容も、その支配のカラクリも、全く見えない。


 今の僕たちにとって、南方都市へ足を踏み入れることは、一切の灯りを持たずに底なし沼へ身を投じるに等しい行為だ。だが――。


「……それでも、行くんだろ」


 重苦しい空気を切り裂くように、静かに、しかし断固とした声で言った。


 部屋の隅で不安げに俯いていたフィナが、驚いたように黄金の瞳を見開いて僕を見つめる。


 僕は自身の、いまだに時折微かな熱を帯びる右の掌をじっと見つめた。


 力を引き出した代償の激痛は、今も身体の奥底で燻っている。だが、それ以上に、僕の心の中にはあの崩落する瓦礫の向こう側に残してきた家族の姿が、鮮烈に焼き付いていた。


「どんな不気味な奴が待っていようが、どれだけ狂った罠が仕掛けられていようが……僕には進む道しかないんだ」


 僕は顔を上げ、ローヴェルとセラヴィス、そしてフィナを真っ直ぐに見据えた。


「ここで立ち止まって中央の追手に殺されるわけにはいかない。それに……力を完全に制御できるようにならなきゃ、母さんたちを守ることなんて絶対にできない。さっき見た大人たちや、何も知らずに笑ってた子供たちを見て見ぬふりをして逃げるなんて、僕にはできないんだ」


 恐怖を完全にねじ伏せた、純度の高い反逆の炎が、僕の胸の奥で静かに燃え盛っていた。


 たとえそこが人間の精神を狂わせる未知の箱庭だとしても。


 たとえ相手がどれほど強大な力を持つ正体不明の化け物だとしても。


 すべてを暴き、その狂った秩序ごとぶち壊して、必ず生き残ってみせる。僕の確固たる覚悟が、淀んでいた部屋の空気を震わせた。


「……ふっ」


 ローヴェルが、不意に短く息を吐いた。


 その青い瞳に、僕に出会ってから初めて、明確な敬意と不敵な笑みが宿る。


 彼は静かに片膝をつき、騎士としての礼をとった。


「さすがはヴァルトリアの血を引くお方だ。……失礼ながら、出会った当初……いや、つい先ほどまでは、ただの怯える少年に過ぎないと思っておりましたが、どうやら私の目は節穴だったようだ。言うようになられましたね、裁定者殿」

「よしてくれ。僕はまだ記憶も欠けたままなんだ。そんな名前で呼ばれる柄じゃない」


 僕が顔を背けると、今度はフィナが歩み寄り、僕の手の上に自らの白く細い手をそっと重ねた。


「お兄様がそうおっしゃるなら、私はどこまでもお供いたします。……この命に代えても、あなたの道を切り拓く剣、危機が迫るのであれば盾となりましょう」


 彼女の黄金の瞳には、一切の迷いがない、揺るぎない絶対の信頼が宿っていた。


 セラヴィスもまた、深くため息をつきながらも、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。


「腑に落ちないこともまだ多い。ですが、主たちが揃って無謀な死地に飛び込むと言うのなら、護衛としては付き合うしかありませんね。……せいぜい、背後から寝首を掻かれないよう気をつけることです」


 未知なる都を前にして、四人の意志が初めて重なり合った瞬間だった。



 ――三日後。


 宿での休息を終え、肉体の限界まで回復を待った僕たちは、ついに集落を後にすることとなった。


 早朝の灰色の空の下、集落の出口まで歩を進めると、いつの間にか孤児院の住民たちが道の両脇に立ち並んでいた。


「気をつけてね」

「南の都は良いところだよ」

「貴族様によろしくね」


 口々に僕たちへ見送りの言葉を投げかける彼らの顔には、あの時と同じ、焦点を失った虚ろな微笑みが貼り付いていた。


 子供たちは無邪気に手を振り、大人たちは何かに操られているかのように一糸乱れぬお辞儀をする。


 背筋を這い上がるような気味の悪さを振り払うように、僕は前だけを向いて歩き出した。


 やがて、僕たちの視界の先、どんよりとした灰色の地平線を断ち切るようにして、途方もなく巨大な建造物の輪郭が浮かび上がってきた。


 天を突くようにそびえ立つ、重厚で黒々とした城壁。


 周囲の荒野の風音すら吸い込んでしまうような、不気味なほどの静寂に包まれたその都市こそが、かつては最悪の無法地帯と呼ばれ、今は得体の知れない平和を享受する巨大な箱庭――『南方都市』だった。


 常識が一切通用しないであろう、人間の精神を内側から支配する未知の統治者が待つ領域。


 その巨大な口の中へと飛び込むように、僕は深く息を吸い込み、決意の籠もった一歩を力強く踏み出した。


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