無口な美少女は、俺に傘を差し出した
白瀬雫は、俺のクラスメイトだ。
学園一の美少女。
そんな呼ばれ方をしている。
けれど本人は、それを喜んでいるようには見えない。
いつも教室の隅で本を読んでいて、休み時間も誰かと騒ぐことはない。
話しかけられても、こくりと頷くか、短く返事をするだけ。
綺麗な黒髪。
人形みたいに整った顔。
静かで、冷たくて、何を考えているのか分からない。
だからクラスの一部では、陰でこう呼ばれている。
氷人形。
俺も、そういう噂を聞いたことはあった。
ただ、本人に向かって言うほど馬鹿なやつはいない。
白瀬雫は目立つ。
目立つのに、近づきにくい。
そんな不思議な距離感のある女子だった。
その白瀬が今、雨の中で、俺を見ている。
校門の屋根の下。
黒い傘を持って、静かに立っている。
俺は何を言えばいいのか分からなかった。
制服はすでにびしょ濡れだ。
髪から落ちた雨水が、頬を伝って顎に流れる。
鞄も濡れている。
スマホを握った右手だけが、妙に冷たかった。
画面には、まださっきの通知が残っている。
あなたは「RioLive」の管理者から削除されました。
その文字を見た瞬間から、胸の真ん中に穴が空いたみたいだった。
なのに、白瀬に見られていると気づいた途端、俺は反射的にスマホを伏せた。
見られたくなかった。
情けないところも。
捨てられたところも。
期待して、傷ついて、それでもまだ平気なふりをしようとしているところも。
「……白瀬」
名前を呼ぶと、白瀬は少しだけ首を傾げた。
雨音が強い。
校舎の屋根を叩く音。
道路に跳ねる音。
遠くで車が水たまりを踏む音。
その全部の中で、白瀬は何も言わずに俺の前まで来た。
そして、黒い傘を差し出した。
「いや、大丈夫」
俺はすぐに首を振った。
「家、近いし。走れば平気だから」
白瀬は、傘を差し出したまま動かない。
無表情。
でも、目だけはまっすぐ俺を見ていた。
俺は困って笑おうとした。
「ほんとに大丈夫だって。ちょっと濡れただけだし」
白瀬は、ゆっくりと自分のスマホを取り出した。
細い指で画面を何度か触る。
それから、メモアプリの画面を俺に向けた。
そこには、一文だけ書かれていた。
『大丈夫じゃない顔をしてる』
息が止まった。
たったそれだけだった。
説教でもない。
慰めでもない。
何があったの、と問い詰めるわけでもない。
ただ、俺の顔を見て、そう書いてあった。
それだけなのに、胸の穴が急に広がった気がした。
「……顔に出てた?」
俺が聞くと、白瀬はこくりと頷いた。
「そんなに?」
もう一度、こくり。
容赦ない。
少しだけ笑いそうになって、失敗した。
喉の奥が詰まる。
唇を噛んだ。
泣きたいわけじゃない。
泣くほどのことじゃない。
俺はただ、裏方をクビになっただけだ。
幼馴染にいらないと言われただけだ。
ずっと一緒に作ってきたチャンネルから、管理者権限を外されただけだ。
それだけ。
それだけなのに。
「……っ」
うまく息が吸えなかった。
白瀬は何も言わない。
ただ、傘を俺の方へ少し近づけた。
それが、やけに優しかった。
俺は観念して傘を受け取る。
「ありがとう」
白瀬は小さく頷く。
そして、自分も俺の傘の中に入ってきた。
「え」
思わず声が出た。
傘は一つしかない。
当然、二人で入れば肩が触れそうになる。
白瀬は平然としている。
いや、よく見ると耳が少し赤い気もする。
気のせいかもしれない。
「白瀬、自分の傘は?」
白瀬は俺の手元を指差した。
「これ、白瀬のだろ」
頷く。
「俺が使ったら、白瀬が濡れる」
白瀬は少し考えて、またスマホを操作した。
『一緒に入ればいい』
「いや、そうだけど」
正論だった。
正論ではあるが、距離が近い。
学園一の美少女と相合傘。
しかもこっちは、幼馴染に捨てられた直後のびしょ濡れ男。
状況が意味不明すぎて、頭が追いつかない。
白瀬はそんな俺を気にせず、校門の外へ歩き出した。
俺も慌ててついていく。
「白瀬、どこ行くんだ?」
白瀬はスマホを見せる。
『温かいもの』
「温かいもの?」
こくり。
「いや、俺ほんとに帰るだけで」
白瀬は立ち止まる。
そして、またメモを打った。
『そのまま帰ったら、風邪ひく』
「それは、まあ」
『風邪をひいたら、つらい』
「うん」
『つらいのは、だめ』
最後の一文が、妙に強かった。
無口なのに。
声もほとんど聞いていないのに。
そこだけは、はっきりとした意思が伝わってきた。
俺は何も言えなくなる。
白瀬は満足したように頷いて、再び歩き出した。
向かった先は、学校から少し離れたファミレスだった。
雨のせいか、店内は空いている。
入り口の自動ドアが開いた瞬間、暖房の空気が全身を包んだ。
そこで初めて、自分の体がかなり冷えていたことに気づく。
指先が震えていた。
白瀬は店員に人数を聞かれると、指を二本立てた。
声は出さない。
慣れているのか、店員も特に不思議そうにはしなかった。
案内された席に座ると、白瀬はメニューを広げた。
俺はまだ、頭がぼんやりしていた。
向かいの席に白瀬雫がいる。
机の上には黒い傘。
窓の外では雨が降り続いている。
現実感が薄い。
まるで、配信の台本にない場面へ突然放り込まれたみたいだった。
「白瀬、本当にいいのか?」
白瀬が顔を上げる。
「俺、こんな格好だし。迷惑じゃ」
白瀬は首を横に振る。
それから、メモを見せた。
『迷惑なら、連れてこない』
「……それもそうか」
言われてみればそうだ。
いや、メモで言われているんだけど。
白瀬は呼び出しボタンを押した。
店員が来ると、白瀬はメニューのスープセットとドリンクバーを指差した。
それから俺の方を見る。
「俺は水でいいよ」
白瀬の目が細くなった。
怒っている。
たぶん、これは怒っている。
彼女はまたスマホを打った。
『温かいもの』
「いや、でも」
『温かいもの』
同じ文をもう一度見せられた。
圧がある。
氷人形どころか、静かな圧力鍋だった。
「……じゃあ、同じので」
白瀬は満足そうに頷き、店員にメニューを指差して注文を終えた。
しばらくして、スープとドリンクが届いた。
白瀬は俺の前にスープを置き、紙ナプキンも一緒に差し出してくる。
「ありがとう」
彼女は小さく頷いた。
俺はスプーンを手に取る。
湯気の立つスープを一口飲んだ。
温かい。
ただ、それだけだった。
それだけなのに、体の奥に固まっていたものが少しずつ溶けていく気がした。
「……うまい」
思わずこぼすと、白瀬の表情がほんの少しだけ緩んだ。
分かりにくい。
でも、確かに緩んだ。
その顔を見て、胸がまた苦しくなる。
莉央と配信を作っていた時、俺はいつも誰かを笑わせる側だった。
莉央が笑うように。
リスナーが楽しめるように。
案件先が安心するように。
チャンネルが荒れないように。
ずっと、そうしてきた。
だから、自分のために誰かが何かをしてくれることに、どう反応すればいいのか分からない。
「白瀬」
白瀬が視線を上げる。
「なんで俺なんかに、ここまでしてくれるんだ?」
聞いてから、少し後悔した。
重い。
今日初めてまともに話す相手にする質問じゃない。
でも、聞かずにはいられなかった。
白瀬はすぐには答えなかった。
スプーンを置く。
スマホを手に取る。
ゆっくり、文字を打つ。
その間、俺は窓の外を見ていた。
雨粒がガラスを流れていく。
さっきまでの俺みたいだと思った。
どこへ行くのか分からないまま、ただ落ちていく。
白瀬が、スマホをこちらへ向けた。
そこには、こう書かれていた。
『高瀬くんが、いつも誰かのために動いてるのを知ってる』
心臓が、強く鳴った。
俺は画面を見つめたまま、動けなくなる。
「……知ってるって」
白瀬は、こくりと頷いた。
また文字を打つ。
『朝倉さんの配信の準備をしてるところ、見たことがある』
さらに続ける。
『昼休みにサムネを直してた』
『放課後に台本を書いてた』
『配信中、荒れたコメントを消してた』
『朝倉さんが笑ってる時、高瀬くんはいつも画面の外にいた』
指先が震えた。
スプーンを持っていなくてよかった。
持っていたら、落としていたかもしれない。
俺は、誰にも見られていないと思っていた。
裏方だから。
表に出ないから。
莉央のチャンネルだから。
俺の名前なんて、どこにも残らないから。
でも。
見ている人がいた。
教室の隅で本を読んでいる、無口な美少女が。
俺が誰かのために動いていたことを、知っている人がいた。
「……そんなの、よく見てたな」
どうにか声を出すと、白瀬は一瞬だけ視線を落とした。
それから、またメモを見せる。
『見てたから』
短い。
理由になっているようで、なっていない。
でも、不思議とそれ以上聞けなかった。
白瀬はさらに文字を打つ。
少し迷っているように、指が止まったり動いたりする。
そして、画面を俺に向けた。
『誰かのために頑張れる人が、誰にも大事にされないのは、おかしい』
胸の奥が、熱くなった。
今度こそ、目の前が滲んだ。
俺は慌てて下を向く。
「……白瀬、それは反則だろ」
声が少し震えた。
かっこ悪い。
情けない。
でも、白瀬は笑わなかった。
慰めの言葉も言わなかった。
ただ、紙ナプキンを一枚、俺の前に置いた。
それがまた、優しかった。
俺はそのナプキンを見て、なぜか少し笑ってしまった。
「用意がいいな」
白瀬は小さく頷く。
それから、ほんの少しだけ口元を上げた。
たぶん、笑った。
白瀬雫の笑顔は、思っていたよりずっと柔らかかった。
氷人形なんて呼び名は、まるで似合わない。
ただ、静かなだけだ。
言葉が少ないだけだ。
ちゃんと見ていて、ちゃんと考えていて、ちゃんと優しい。
そのことを、今日初めて知った。
スープを飲み終える頃には、体の震えは収まっていた。
雨はまだ降っている。
でも、さっきより音が遠く聞こえた。
白瀬はドリンクバーから持ってきた温かい紅茶を、俺の前に置いた。
「ありがとう」
頷く。
「白瀬は、紅茶好きなのか?」
頷く。
「甘いのは?」
少し考えて、頷く。
「じゃあ、砂糖入れる派?」
また頷く。
会話というには、かなり静かだった。
でも、不思議と気まずくはなかった。
むしろ、これくらいでいいと思った。
今は、たくさん話されたら壊れそうだったから。
白瀬は、俺が飲みやすい速度に合わせるように、ゆっくり紅茶を飲んでいた。
その気遣いに気づいて、また胸が少し痛くなる。
「あのさ、白瀬」
彼女が顔を上げる。
「今日のこと、クラスのやつらには」
白瀬は首を横に振った。
まだ最後まで言っていないのに。
『言わない』
画面には、すでにそう書かれていた。
「早いな」
『分かる』
「俺、そんなに分かりやすい?」
こくり。
また即答だった。
少しだけ悔しい。
でも、その正直さがありがたかった。
店を出る頃には、雨は少し弱くなっていた。
俺の制服はまだ湿っている。
髪も冷たい。
でも、来た時よりはずっと息がしやすかった。
白瀬は傘を開き、また俺の方へ差し出した。
「いや、今度は俺が持つよ」
そう言うと、白瀬は少しだけ目を丸くした。
俺は傘を受け取り、彼女が濡れないように角度を調整する。
白瀬はしばらく俺を見上げていた。
それから、小さく頷いて、傘の中に入ってくる。
二人で並んで歩く。
雨の匂い。
濡れたアスファルト。
夜の街灯。
いつもなら莉央の配信後に、明日の数字のことを考えながら歩く道。
今日は、隣に白瀬がいる。
何も言わないのに、不思議と一人じゃないと思えた。
しばらく歩いたところで、白瀬が足を止めた。
俺も止まる。
「どうした?」
白瀬はスマホを取り出しかけて、途中でやめた。
そして、少しだけ唇を開く。
雨音の中で、かすかな声が聞こえた。
「……うち、来る?」
俺は、傘を持ったまま固まった。
白瀬は耳まで赤くして、でも逃げずに俺を見ていた。
その瞳はやっぱり静かで。
だけど、氷なんかじゃなかった。




