L
立ち上がって流しの蛇口をひねり、水を一杯コップに汲むとエルは一気に飲み干した。
再びしゃがみ込む彼女。
「サプライズ、と思って、知らせないであの人の部屋へ行ったの...合鍵でドアを開けたら...」
荒くなってきた呼吸を整えて、エルは続ける。
「『真っ最中』だったの。それが...その相手が...」
「誰?」
「男の子だったの!」
エルは、今度は声を上げて泣き始めた。
端正な顔が、ぐちゃぐちゃになっている。
5分くらいしただろうか。しゃくり上げながら彼女が続ける。
「...女性が相手だったら、許せないけど...まだ納得がいく。離れていたのはわたしのせいだから」
「そんな...」
「でも男の子だよ。あの人...わたしにはひとことも言わなかった...納得できない!」
再び声を上げて泣き始める彼女。体は小刻みに震えていた。
ボクはそんなエルを前にして、しゃがみ込んで彼女の顔を見ながら、落ち着くのを待つしかなかった。
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部屋に入ってきてから20分くらい経っただろうか。
少し震えを残した声で、エルがボクに言った。
「ごめんなさい。キミには関係のない話だよね」
「そんなこと...気のすむまで吐き出してくれたらいいよ」
「...」
「それより、シャワー浴びたら? ずぶ濡れだし」
「うん。そうする」
バスタオルとジャージの上下をシャワーの外に置いた。
シャワーを終えて、ぶかぶかのジャージを纏ったエル。
「お腹空いてない?」とボク。
「うん。少し」
「明日食べようと思ってたお惣菜があるけど、よかったらご飯食べる?」
「ありがとう。いただくね」
食事の間、エルは「あの人」の話題には少しも触れずに、東京でのいろんなことを話してくれた。
仕事のこと、家族のこと、再会した旧友のこと。
「いい機会だと思って、両親とお兄ちゃんにカミングアウトしたんだよ」
「どうだった?」
「お兄ちゃんは、キミと同じように、さらっと、それでいてしっかりと受け止めてくれた」
「ああ、そう」
「そうそう、そんな感じ。お母さんは、最初は当惑していた。でも、最終的にはちゃんと話を聞いてくれた」
「お父さんは?」
「リベラルを自認する人だから、『そうか』って冷静なふりしてたけれど、内心では割り切れない思いがあるみたい」
「難しいんだね」
「打ち明けた後、わたしに接するときの振る舞いが、ぎこちないっていうか、避けようとしてる感じかな」
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扇風機の風をあてて干していた彼女の服。
デニムとカーディガンは時間がかかるけれど、下着とレモンイエローのTシャツは、食事を終えた頃にはほぼ乾いた。
自分の下着とTシャツを身に付けて、ボクのジャージの下を改めて履き直したエル。
「そう言えば、ちょうど去年の今頃だったよね」
エルが懐かしむような口調で言った。
「キミは、今日と同じ服を着てなかったっけ?」とボク。
「へえ。キミはそういうことに気が付くんだ」
「それ以外のことは鈍感だってこと?」
「そうじゃなくて...本人のわたしが忘れていたのに」
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雨音は途切れることなく続いていた。
ボクが淹れたコーヒーを二人で飲む。
「ところでどうなの。職場の新人さんは?」
「うん。飲み込みの早い子でね。すっかり戦力になってる」
「そうじゃなくて...どんな子?」
「ええと、ウェリントンの眼鏡をかけてる。まあ普通の女の子かな?」
「ボーイッシュ? それともガーリー?」とエルがさらに突っ込んでくる。
「そうだね...どちらかというとガーリーかな」
「じゃあ、キミの守備範囲だね」
「...て言うか、そういう目で見たことないから。8つも年下だし」
「そんなことより、キミはどうするの?」とボク。
「そうだね...もう一度あの人と会って、ちゃんと話をしてみようと思う」
「『武運長久』だね」
「返されちゃった」
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「わたしはあの人のことを愛している。大切に思っている。でもそれは、あの人がレズビアンだからというわけじゃない」
いつにも増して真顔になったエル。
「そうか、キミは...」
「うん」
「『エル』は...ラブの『L』なんだね」
ボクのその言葉に、エルは、はにかむように微笑んだ。
「そもそもセクシュアリティって、すっぱりと切り分けられるものじゃないし、固定的なものでもないんだ」
自分に言い聞かせるようにエルは言う。
「いま、その時点で、その人がどのように感じるかによるもの。だから、レズビアンが、あるとき男性を好きになったって、おかしいことじゃない」
そう言うと、エルは視線を遠くにやった。
「そう、基本的なこと...なのに、わたし...」
一瞬ボクに視線を向けると、エルはその後の言葉を飲み込んだ。
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「ありがとう、本当に」
口元にうっすらと笑みを浮かべて、エルは言った。
「別に、ボクは何も」
「キミがいま、ここにいてくれなかったら、わたし、どうなっていたかわからない」
「だとすれば、いいけれど」
「キミはわたしの全体を、そのまま自然に受け容れてくれた。家族ですら難しいことなのに」
そう言うとエルは、両腕を伸ばし、ボクの両耳のあたりにやさしく手を添えた。
唇を近づけて、ボクのおでこに、そっとキスをした。
洋画のワンシーン。おかあさんが子供にする「おやすみのキス」のようだった。
それからボクたちは、横に並んでぴったりと体をひっつけた。
去年の台風のときに彼女が口ずさんだYの曲を、ボクのスマホから流した。
曲が終わると、エルが呟いた。
「わたしが、キミの言ったように低気圧の『L』だとしたら」
「うん」
「反時計回りの渦に乗って時間を元に戻すことは、できるのかな」
「ボクには...わからない」
彼女は何も言わずにいた。ボクが続ける。
「戻すとしたら、いつまで戻したいの?」
彼女は黙ったまま、答えることはなかった。
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翌朝6時過ぎ。ボクが目を覚ますと、エルはまだ眠っていた。
くるまっていた毛布がずれて、ぶかぶかのジャージの下も脱げていた。
背中を丸めて膝を曲げて、長い両腕を胸の前で内側に畳み込んでいる。
すらりと伸びた長い足。ふだんはデニムに隠れて見ることができない。
そして、息を呑むほどの白い肌。
まるで宿直明けの天使が、休んでいるよう。
エルはふだん、朝10時頃に出勤しているはず。
いったん部屋に戻って着替えるにしても、8時に起こせば大丈夫だろう。
その無防備な体を、見なかったことにするかのように毛布をかけた。
穏やかな寝顔。寝息が微かに聞こえる。
雨は降り続いている...
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枕元に置かれた彼女の手紙に気がついたのは、エルがボクの部屋を後にした水曜日の、午後のことだった。
新しい靴を履き始めて何日かすると、足首の後ろが痛み出す。
エルのいない日常。少し遅れてやってくる靴擦れのようにボクの胸は痛み始めた。
エルの手紙は、開いてそのままにしておいた。
紫陽花が美しく咲く季節はあっという間に過ぎ、梅雨が明けた。
エルの手紙をどうしようかと思って、手に取ろうとした。
しっかりと掴まなかったので、床に落としてしまった。
ん? 小さな文字のメッセージが裏に書かれている。
最初に読んだときには、気が付かなかった。
改めて、最初から最後までエルの手紙を読んでみた。
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キミへ
この部屋で、二人でいろんな話をするのが好きでした。
二人で雨音を聞くのが好きでした。
ずっと忘れません。この部屋で過ごした時のことを。
窓から滲み込んでくる雨の匂いのことを。
ありがとう。ここで過ごさせてくれたキミ。
わたしは「L」。勘違いしないよね。なので言います。
キミのことが、大好きでした。
もう「時間を元に戻せるかな」なんて言いません。
前を向いて進んでいきます。
だから...リセットさせてください。
キミのことを、ずっと、ずっと、好きでいられるように。
それじゃあ。
追伸
キミと交わした、たくさんの「かけら」たち。
わたしにとって、みんな「奇跡」だよ。
では、わたしからの「かけら」。
バイトの後輩の子、「そういう目」で見てみたら?
きっとなにか見つかると思うよ。
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「エル」は、ロスの「L」?
いや、ちがう。
「エル」は、ラブの「L」。
そして...そう、ライフの「L」。
だからボクも、リセットしなくちゃいけない。
前を向いて進んでいかなくちゃいけない。
エルのことを、ずっと、ずっと、好きでいられるように...
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夏が過ぎて、季節はまた一つ進んだ。
職場の後輩の子が、初めてボクの部屋に来る日。
片付けて念入りに掃除をし、窓を開けて換気をした。
夕方、ボクは彼女を城址公園沿いの道まで迎えに行った。
彼女は、ミディアムヘアをポニテにアレンジしていた。
部屋に入ってしばらくすると、雨音が聞こえ始めた。
窓のところへ行って振り返った彼女の、フレアのロングスカートがふわりと揺れた。
ウェリントンの奥の瞳をきらきらさせながら、こう言った。
「窓、閉めますね。湿気ちゃいますから」
彼女は、少しだけ開いていた窓を閉めた。
雨音が、遠くなった。
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エル、それじゃあ。
<了>




