↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/3

エル

 30分しても戻ってこないエルを、ボクは捜しに出た。

 城址公園のあたりまで行ったところで、向こうから歩いてくる彼女を見つけた。

 うつむき加減で、見上げるような視線をボクに送るエル。

 ちょうど雨が降り出した頃、ボクたちは一緒に部屋に戻った。


 コーヒーを淹れてマグカップに注ぐと、エルの前に置いた。

 一口啜る彼女。

「ごめんなさい」とボク。

「...」

「無神経だった。謝る」


 おもむろに口を開くエル。

「キミがそういうことに興味を持ったとしても、仕方ないよね」

「...」

「現れ方は違うけれど、キミもわたしも性的存在であるわけだし」


 視線を遠くにやって、エルが続ける。

「レズビアンのわたしとキミの間には、越えられないボーダーがあること、改めて思い知らされちゃったな」


「わたしがここにいて、迷惑じゃない?」

 そう言って、エルは視線をボクのほうに戻す。

「迷惑だなんて...思ったこともないよ」

「キミのために何かできるわけじゃないし」


「カノジョのいないキミを慰めるための、右手の代わりになれるわけでもないしね」

「それって...どういう意味?」

「そうね...さっきの仕返しかな」

 それまで無表情だったエルの顔に、うっすらと笑みが浮かんだ。


「ちなみに、わたしは左利きだよ」

「じゃあ、『エル』は、レフティーの『L』だね」

「ははは。それ、いいかもしれない」


「さっき言ってたボーダーのことだけど」とボク。

「うん」

「キミがボクにカミングアウトしたことで、越えられないボーダーの存在が、明らかになったんだと思う」

「そうだね」


 エルの目をまっすぐに見て、ボクは続ける。

「でも、キミとボクはこうやって同じ時を過ごしている。ボーダーを挟んでコミュニケートしようとしている」

「うん」

「ボクが言うことなんて、きれいごとかもしれない」

「そんな...」

「ほんの小さな『かけら』なのかもしれない」

「...」

「けれど、そうやって小さな『かけら』を積み重ねることで、ボクはキミという女性、いや、キミというヒトと、わかり合いたいと思う」

「うん」

「そのことが『奇跡』だ、と思えるくらいに」


 エルの瞳が、きらりとしたような気がした。


 外は本降りの雨になっていた。


----------------------


 エルは、週末をお相手の女性のところで過ごしていた。

 東京都出身の3つ年上。仕事で行ったカンファレンスで知り合って、何度か会った。

「ビジネスにはつながらなかったけれど、プライベートでつながっちゃった」


 大学を卒業してその人が就職した先は、そういうことに理解のある職場ではなかった。

「男まさり」などという、心無い言葉が平気で飛び交う。

 カミングアウトどころではない。

 学生時代からのつながりに支えられて、なんとか仕事を続けているのだという。


「キミは職場では?」

「誰にも言ってない」

「やはり無理解な感じ?」

「いや、逆に必要以上に気遣ってくれそうな雰囲気。『腫れ物に触るように』っていうのかな。それも息苦しいし」


「あの人と比べれば、わたしなんか、ほとんど苦労していないようなもんだよ」とエルが強調する。


 その人が、自分のセクシュアリティに気付いたのは中学生のとき。


 異性愛が前提の授業。水泳のときの着替え。修学旅行の宿での入浴...

 性自認は女性なのに、好きになるのは女の子ばかり。

 自分の思いを殺して悶々と過ごした日々。


 高校2年のとき、両親にカミングアウトした。

 父親の怒り。ただ嘆くばかりの母親。

 自分のセクシュアリティについて、ちゃんと受け止めて話を聞いてくれる人がいなかった。


 自己嫌悪、自己否定、そして希死念慮。あらゆるマイナスの感情に苛まれた。

 とにかく逃げ出したくて、首都圏以外の大学を受験し、ボクの出身大学に進学した。


 大学でセクシャルマイノリティの仲間と出会い、学外のネットワークとのつながりもできた。

 やっと見つかった、気持ちを楽にできる居場所。

 そして、交際相手ができた。


「わたしはね、あの人にとって3人目の交際相手なんだ。だから『三度目の正直』だったらいいな、と思うの」

 瞳をキラキラと輝かせながら、彼女が話す。

 その人を心から尊敬し、信頼し、愛しているのがわかる。


----------------------


「低気圧の周囲ではね、風が反時計回りに吹き込んで渦になるんだ」

 首都圏直撃の予報を伝えるテレビの台風情報を見ながら、ボクはエルに言った。


 東京から新幹線で1時間半ほどのところにある、ボクたちの住む街。どうやら直撃は免れるとのこと。

 それでも外は、不規則な荒い息遣いの風に乗せて、雨粒が乱れ落ちてくるようになった。


「時計の針と反対に回るなら、低気圧の中に入れば時間を元に戻せるのかな?」とエルが言った。

「そうだね。コリオリ先生に聞いたらわかるかな」

 ボクは窓を閉めると続けた。

「地球の自転の影響で、コリオリの力というのが働く。低気圧の渦はそのためなんだって」


「それより、あの人のところに行かなくて大丈夫なの?」

「いま東京に出張してる」

「ドンピシャだね。心配じゃない?」

「心配だけど、たぶん大丈夫。ちゃんとしたホテルに泊まってるって言ってたから」


「チャンネル変えてもいい?」とエル。

「うん。いいよ」

 どのチャンネルも、右下に台風のレーダー画像を映していた。


 情報番組にチャンネルを合わせた。

 男女二人組の音楽ユニットの話題だった。

「いいよねえ。Y」と言って、楽曲の一節を口ずさむエル。

「へえ、Yっていうの」とボク。

「えっ、知らないの?」

「うん」

「それって、マズくない?」

「そうなの?」

「音楽に興味ないとか」

「なくはないけど...好き嫌いが激しくって」


 以前の職場で、当時人気絶頂だったミュージシャンのGについて「好きになれない」と言ったことがある。

 すると、周囲のボクを見る目が、あたかも異星人を見るかのようになった。

 それ以来、最近の音楽は聴かなくなった。


「時間を戻せるかどうかはともかく、進んでいく時間にはついて行ったほうがいいと思うよ」とエルの総括。

「コリオリ先生どころではないですね」と畏まるボク。


 やがて雨は、まさに「滝のよう」な降り方になった。

 地上波のほとんどのチャンネルが、台風情報の特番に切り替わった。


----------------------


 11月後半になって、晴れる日が多くなった。


 エルが、仕事の関係で12月初めからしばらく東京に滞在することになった。

 半年くらいの予定で、千葉の両親のところから仕事先に通うそうだ。


「クリスマスは東京か。お相手と離れて寂しくないの」

「寂しいよ。正直なところ」

 エルの表情が一瞬曇った。すぐに元に戻って続ける。

「東京へ発つ前に、1か月早いクリスマスをやるんだ」

「じゃあ、ボクの出る幕はないね」


 そう言いながら、エルが東京に発つ前の火曜日、ボクはシフト明けの夕方の売り場で、見切り品を買い込んだ。


 部屋にやってきた彼女が、その量に目を丸くした。

「壮行会、だとしてもちょっと多くない?」

「大丈夫。残ったら冷蔵庫に詰めといて片付けるから」

「じゃあ、期限の早いものから先に食べるね」

 缶チューハイで乾杯すると、二人は「値引きシール付きのご馳走」の山に取り掛かった。


----------------------


 ボクたちの街は、冬場は晴れの日が多い。

 その年の冬は、例年に増して晴天が多く、雨の降らない日が続いた。


 ボクはアルバイトの日々を淡々と過ごした。

 エルとは、ときどきチャットで短く近況報告をした。


 変わったことといえば、スマホの音楽配信サービスに加入したことくらい。

 Yをはじめ、少しずつ最近の音楽を聴くようになった。


 そんな中、春から国立大学に入った女の子が、ボクの職場にアルバイトで入ってきた。

 ボクより8つ年下のその子を、ボクは先輩として指導することになった。

 そのことをエルに報告した。

 彼女から「武運長久」のスタンプが返ってきた。


 5月の下旬、「6月初めに戻る」というチャットがエルから送られてきた。

 ちょうど梅雨前線が沖縄、奄美あたりを行ったり来たりして、本土を窺っていた。

 雨の季節を待つかのように、そこここに佇む紫陽花の蕾。


----------------------


 梅雨入りした6月最初の火曜日、エルがボクの部屋にやってきた。


 その日の夜遅く現れたエルは、全身ずぶ濡れだった。


 傘を持ってこなかったのか、どこかに置いてきたのか、わからない。

 部屋に入ってくるなりフローリングにしゃがみ込んだ。

 顔を両手で覆うとさめざめと泣き始めた。


 ショートヘアの黒髪から落ちる水滴。

 ボクはしばらく、声をかけられずにいた。


 頃合いを見計らって、ボクはエルに話しかけた。

「...どうしたの?」

「あの人が...あの人が...こんなのって!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。