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甘い蜜に溺れる花は夜に染まる  作者: アル


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9.5話 琉生side⑥

玄関の鍵を閉めると、ようやく誰の声も聞こえなくなった。


抱えていた花を、テーブルへ置く。

黒い器の中で、白いバラがわずかに揺れた。


上着を脱ぎ、ソファの背へ掛ける。

シャツのボタンを外しても、首元にまだ何かが残っているようだった。


何度、名前を呼ばれただろう。

何人の目を見て、笑っただろう。


誕生日を祝う言葉も、グラスの触れ合う音も、耳の奥ではまだ続いていた。


ソファへ腰を下ろすと、体が深く沈んだ。


目の前には、みあが選んだ花がある。


白と、淡いベージュ。

その間に沈む、深い紫。


店では、席を移るたびに目で探した。

誰かの話を聞きながら、グラスを持ち上げながら。


あの花が見えると、午後のテーブルへ戻れる気がした。


煮込みハンバーグ。

二人で分けた小さなケーキ。

細いろうそくの向こうにいた、みあ。


『琉生。二十五歳、おめでとう。』


火を消す前に、願った。


来年は、帰らなくてもいいように。


祝ってもらったあと、そのまま同じ部屋にいて。

眠る前にも、朝になって目を開けたときにも、みあがそばにいるように。


十一月十二日。


予定帳へ俺の名前を書いていくペン先を、ずっと見ていた。


みあは、俺が何を頼んだのか、まだ知らない。


あの夜だけじゃない。

その先も、欲しかった。


◇


高校を卒業して間もない頃、花屋の奥で、みあが一枚の紙を見つめていた。


俺に気づくと、帳面の下へ差し込む。


「何、それ。」


「車の見積もり。少し、直さないといけなくて。」


みあは笑い、作業台に残っていた花へ手を伸ばした。


「配達で使うから、ちゃんとしておかないとね。」


テーブルの端から、金額の欄だけが見えていた。


俺の財布に入っている金では、どうにもならない額だった。


その日は、いつもより多く片づけた。

花桶を洗い、床を掃いて、翌朝使う包装紙を揃えた。


みあは何度も、助かったと言ってくれた。


それでも、帰るときには、あの紙はまだ帳面の下にあった。


俺がどれだけ花桶を洗っても、そこに書かれた数字は減らなかった。


◇


求人情報を見ながら、紙に数字を書いた。


給料。

家を出て暮らすために必要な金。

毎月、残せそうな額。


その下に、結婚、と書く。


みあが三十歳になるまでに、いくら用意できるだろう。


指輪を買って、二人で暮らして。

店で何かあったときにも、大丈夫だと言えるくらい。


みあには、花屋を続けてほしかった。

好きな花を選んで、客と話して、帰っていく背中を見送る。

あの場所にいるみあが、好きだった。


金のことで、その顔を曇らせたくなかった。


書いた数字を足して、消す。


少しずつ貯めればいい。

そう思おうとしても、指先は次の求人を開いていた。


早く、みあの隣に立ちたかった。


学校を卒業しただけでは、何も変わらない。

いつまでも食事を用意してもらい、帰りを心配されているだけでは。


◇


ホストの求人を見つけたとき、自分には無理だとは思わなかった。


女の人から、どう見られるか。

それは、もう知っていた。


父親は、よく家に女を連れてきた。


玄関に、知らない靴があった。

洗面所には、誰のものか分からない小さな瓶が増えた。


長くいる人も、次にはもう来なくなる人もいた。


父親がいるときは、俺にほとんど話しかけない。

それなのに、父親が出かけると、声が変わる女がいた。


「お父さんより、ずっといい顔してるね。」


廊下ですれ違えば、必要以上に近づいてくる。

俺が部屋へ戻ろうとすると、もう少し話そうと引き留める。


父親には内緒にして、と、笑う。


初めは、何を求められているのか分からなかった。


分かるようになってからは、二人きりになる時間を避けた。

帰宅して見知らぬ靴があれば、そのまま外へ出たこともある。


嬉しくはなかった。


ただ、自分の顔や、少し笑い返しただけの態度に、相手が反応することを覚えた。


俺のことを何も知らなくても、近づきたいと思う女はいる。


そのことと、好きになってほしい人が俺をどう見るかは、まるで別だった。


みあは、そんな目で俺を見なかった。


それに救われていたくせに。

いつからか、それだけでは足りなくなっていた。


◇


画面の中には、売上によって給料が変わると書かれていた。


顔がいいだけで、金になるとは思わなかった。


それでも、俺には資格も、経験もない。


相手の表情を見て、言葉を選ぶこと。

近づきたがっているのか、機嫌を損ねたのかを察すること。


そういうことなら、ずっとやってきた。


自分へ向けられる視線に、何も返さず逃げていた頃とは違う。


仕事なら。

金に変わるのなら。


みあとの暮らしに、近づけるかもしれない。


募集ページの連絡先を開き、面接を受けたいと送った。


送信した文字を見つめてから、机の上へ目を落とす。


結婚。


その二文字だけは、消さなかった。


◇


面接で理由を聞かれたときも、金を貯めたいと答えた。


「何か、買いたいものでもあるの。」


向かいに座った男に尋ねられ、少し迷った。


「……結婚するために。」


男が履歴書から顔を上げた。


「若いね。」


笑われたのかと思った。

けれど、そのあとに続いたのは、給料と仕事の説明だった。


最初から客がつくとは限らない。

売上がなければ、思っているほど稼げない。


俺は頷きながら聞いた。


いつから働けるのか。

初めは、何をするのか。


ひと通り尋ね終えると、男が言った。


「まず、やってみる?」


「はい。」


返事をしてから、膝の上で握っていた手を開いた。


◇


初めて席についた夜、女の人に好かれることと、客に選ばれることは違うのだと知った。


かわいいね、と言われた。

顔を覗き込まれ、歳を聞かれた。


けれど、先輩が話し始めると、彼女たちの目はそちらへ戻った。


俺が席を離れても、誰も引き留めなかった。


帰り道、教わったことをスマートフォンへ書き込んだ。


名前。

話していたこと。

返事が続かなかったところ。


見られるだけでは、足りなかった。


また会いたいと思わせなければ、次はない。


何度か顔を合わせた客に、ある夜、言われた。


「今日、全然元気ないでしょ、私。」


彼女は笑っていた。


慰めてほしいのかと思った。

けれど、用意しかけた言葉は、どれも薄っぺらく聞こえた。


「うん。さっきから、無理して笑ってる。」


彼女の口元が止まった。


「……分かる?」


「笑いたくないなら、笑わなくていいんじゃない。」


しばらくして、彼女は仕事の話を始めた。


俺は聞いた。

途中で何かを尋ねると、彼女はまた話した。


帰り際、その人が振り返った。


「次、いついるの?」


出勤する日を伝える。


今度は、俺を見て頷いてくれた。


◇


最初にまとまった金を貯金へ回した日、残高を何度も確かめた。


まだ足りない。


それでも、紙に書くだけだった数字が、ようやく手の届くところに来た気がした。


みあに何か買っていこうかと思って、やめた。


急に高いものを渡せば、心配される。

自分のために使いなさいと、きっと言う。


だから、いつもと同じように勝手口を叩いた。


「琉生。ご飯は食べた?」


顔を見るなり、みあが尋ねた。


「まだ。」


「じゃあ、一緒に食べよう。ちょうど作ったところ。」


俺の分があることを、当然みたいに言う。


その背中を見つめながら、思った。


いつか、俺が同じことをしてやりたい。


疲れて帰ってきたみあに、座っていてと言いたい。

金がかかることを気にせず、必要なものを買ってほしい。


何も持っていなかった俺を、何度も迎え入れてくれた人だった。


今度は俺が、みあの暮らしを支えたかった。


その暮らしの中に、俺がいることを疑いもしないまま。


◇


ソファから立つと、脚が重かった。


花の器へ水を足す。

みあに言われたとおり、暖房の風が当たらない場所へ移した。


深い紫の花びらに、部屋の灯りが落ちる。


その隣へ、引き出しから取り出した小さな箱を置いた。


蓋を開ける。


細い輪の上で、石が一つ、光った。


みあの手を思い浮かべながら選んだ指輪だった。


花の茎を握る手。

リボンを結ぶ指。

予定帳に、俺の名前を書いてくれた左手にはないほうの、その動きを見ながら。


空いたままの薬指を、何度も思い出していた。


仕事中は、外すだろう。

水に触れる前には、大切にしまうかもしれない。


それでも、店を閉めたあとには。

エプロンを外し、俺の隣へ座るときには。


そこに、あってほしかった。


金を貯めたからといって、みあが俺を好きになるわけじゃない。


分かっている。


ただ、好きになってくれたときに、何も足りないものがないようにしたかった。


その日が来ることだけは、疑いたくなかった。


十一月十二日。


みあは、予定帳に書いてくれた。

ほかの約束は入れないと、俺に言った。


箱の蓋を閉じる。


今夜、いくつもの祝いの言葉をもらった。

欲しいものを尋ねられるたび、相手が喜びそうな答えを返した。


本当に欲しいものは、午後、あの小さなテーブルで伝えていた。


その日の夜、俺と一緒にいて。


まだ、そこまでしか言っていない。


その先に続く言葉を、十八歳の頃から用意していた。


みあ。


俺は、一晩だけのつもりで待ってきたんじゃないよ。


挿絵(By みてみん)

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