一話 学校の噂
第一話 学校の噂
最近、この学校には“出る”らしい。
四階の窓に立つ白い女。
夜の校舎を歩く足音。
誰もいないロッカーから聞こえる呼吸音。
そんな噂が広まり始めたのは、六月に入ってすぐのことだった。
梅雨特有の湿った空気のせいか、生徒たちはやたらとそういう話で盛り上がっていた。
「ねぇ、今日から教育実習生くるんだって」
ホームルーム前。
田中麗奈が机に身を乗り出しながら声を上げた。
「え、男? 女?」
「女らしいよ。しかも若いって」
「男子絶対テンション上がるやつじゃん」
「麗奈が一番テンション上がってるじゃん」
窓際の席で笑ったのは、佐野さくらだった。
黒髪を肩まで伸ばした、柔らかな雰囲気の少女。
成績優秀で、美術コンクールでも何度か賞を取っている。
それでいて誰にでも分け隔てなく接するせいか、男女問わず人気があった。
「いや、だってイケメン彼氏とか連れてくるかもしれないし?」
「教育実習に何期待してんの」
「夢くらい見させろって」
麗奈は机に突っ伏しながら騒ぐ。
その様子を見て、斎藤遥香が呆れたように笑った。
「さくら、絶対こういう先生に好かれるタイプだよね」
「なんで?」
「優等生だし、美人だし、先生受け良さそう」
「最後のいらなくない?」
「いや必要」
教室にまた笑いが広がる。
窓の外は朝から曇っていた。
雨は止んでいるのに空気だけが重く、開いた窓から湿った風が入り込んでくる。
「ていうか最近さー」
麗奈が急に声を潜めた。
「マジで出るらしいよ。四階のやつ」
「あー、“白い女”?」
「それそれ」
遥香が嫌そうに顔をしかめる。
「もうその話いいって。普通に怖いんだけど」
「でも吹奏楽部の子も見たらしいよ?」
「どうせ見間違いでしょ」
「いや、“呼吸聞こえた”って話もあるんだって」
「やめてって!」
遥香が本気で嫌そうな声を出し、教室が笑いに包まれる。
「その話、ほんとなんですか?」
不意に、小さな声が聞こえた。
振り返る。
木下若菜だった。
ショートボブの髪を揺らしながら、不安そうにこちらを見ている。
真面目で大人しい性格。
さくらとは小学校からの付き合いで、昔からいつも彼女の近くにいた。
「え、若菜こういうの苦手だっけ?」
麗奈が笑う。
「……苦手というか、普通に怖い」
「意外。真面目だから耐性ありそうなのに」
「どういう理屈?」
若菜は困ったように笑った。
その時だった。
ガラッ。
教室の扉が開いた。
担任の後ろに、一人の女性が立っている。
黒髪を後ろでまとめた、落ち着いた雰囲気の人だった。
スーツ姿が妙に大人っぽく見える。
「今日から三週間、教育実習に来る高橋先生だ」
「高橋由奈です。よろしくお願いします」
柔らかい声だった。
教室の男子が少しざわつく。
「うわ、普通に美人」
「優しそう」
「絶対人気出るじゃん」
そんな声があちこちから聞こえた。
由奈の視線が、一瞬だけさくらへ向く。
そして、小さく笑った。
まるで知り合いを見るような、自然な笑顔だった。
さくらも軽く頭を下げ返す。
その様子を見ていた麗奈が、目を丸くする。
「え、さくら知り合い?」
一瞬、教室の視線がこちらへ集まった。
「……うん」
「マジで?」
「親戚のお兄ちゃんの彼女」
「えっ!?」
麗奈が声を上げる。
「うそ!」
「マジで!?」
教室が一気にざわついた。
「いや待って、昨日校門にいた人、そのお兄ちゃん?」
「……そう」
「なんか普通に社会人って感じだったよな」
「てか教育実習の先生と付き合ってるってすごくね?」
「そこ?」
さくらが苦笑すると、また笑いが起きた。
けれど。
「なんか勝手に、さくらと付き合ってるのかと思ってたわ」
麗奈が悪気なく笑った瞬間。
教室の空気が少しだけ静かになる。
「お前それ失礼すぎ」
遥香が吹き出した。
「だって距離近かったじゃん。普通にお似合いって感じだったし」
「ないない。親戚だから」
さくらは笑い返した。
けれど。
少しだけ、不快だった。
◇
ホームルームが終わると、教室はすぐにざわつき始めた。
男子たちは高橋由奈の話ばかりしている。
「普通に美人じゃね?」
「てか佐野さんと知り合いなのやばくね?」
「親戚のお兄ちゃんの彼女って言ってたよな」
「昨日校門にいたの、そのお兄ちゃんか」
「なんか普通に社会人って感じだったよな」
そんな声があちこちから聞こえていた。
由奈は午前中、教室の後ろで授業を見学していた。
時々教師へメモを取っている。
その姿をちらちら見ている男子も多かった。
昼休みになると、麗奈がまた騒ぎ始める。
「ねぇ、さくらのお兄ちゃんってどんな人?」
「普通だよ」
「絶対モテるタイプじゃん」
「なんでそうなるの」
「だって雰囲気あったし」
「意味分かんない」
笑いが起きる。
その時。
廊下を歩いていた高橋由奈が、教室の中をちらりと見た。
楽しそうに笑うさくらたちを見て、由奈は小さく微笑む。
けれど、すぐに教師の後ろについて廊下の向こうへ消えていった。
◇
放課後になる頃には、また雨が降り始めていた。
窓ガラスを叩く雨音が、静かな教室によく響いている。
「最悪。傘忘れたんだけど」
麗奈が窓の外を見ながら顔をしかめた。
「コンビニで買えば?」
「金ない」
「知らないし」
遥香が笑う。
教室にはもうほとんど人が残っていなかった。
部活へ向かった生徒。
先に帰った生徒。
夕方特有の静けさが、少しずつ校舎の中へ広がっている。
「さくらは帰らないの?」
「もうちょっとしたら帰る」
「へー」
麗奈が鞄を肩に掛けながら立ち上がる。
「じゃ、先帰るわ」
「また明日ねー」
遥香も立ち上がり、軽く手を振った。
「若菜は?」
さくらが聞くと、若菜は少し驚いたように顔を上げた。
「……あ、私、職員室行かなきゃ」
「なんかあったの?」
「提出物。今日までだったの忘れてて……」
「あー、真面目ちゃんだ」
「うるさい」
若菜は少しだけ頬を膨らませる。
その時、外で雷が鳴った。
若菜の肩が小さく揺れる。
「ほら、やっぱ怖がってるじゃん」
「……苦手なだけ」
困ったように笑う若菜を見て、さくらは立ち上がった。
「じゃ、私も一緒行くよ」
「え?」
「暗いし怖いんでしょ?」
「子供扱いしないで」
若菜は呆れたように笑った。
麗奈と遥香もつられて笑う。
「じゃあ私ら先帰るわ」
「また明日ねー」
二人は手を振りながら教室を出ていった。
◇
「結構時間かかっちゃったね」
職員室を出ながら、さくらは時計を見る。
外はもうかなり暗くなっていた。
「……そうだね」
若菜が小さく頷く。
「意外と準備に時間取られたし」
「まぁ、ギリ間に合ったしよかったじゃん」
さくらは苦笑した。
若菜も曖昧に笑う。
廊下には誰もいなかった。
窓の外では、雨が強くなっている。
その時だった。
——ガタン。
校舎のどこかで、何かが倒れるような音が響いた。
若菜の肩がびくりと揺れる。
「……なに、今の」
「風じゃない?」
そう答えながら、さくらは暗い廊下の奥へ目を向けた。
けれど。
そこには、誰の姿も見えなかった。




