第一章 四:告白
山田リーコは、何とか脚に力を入れて立ち上がった。逃げなければ、私もあの女のようにここから逃げなければ。そうやってリーコは必死に逃げようと駆け出した。
しかし、すぐに一月蒼士に腕を掴まれてしまった。
「離してよ!」
「できません」
「私を……そのナイフで刺して殺す気!? その男みたいに」
「いや、その男を殺したのは山田さんですよ?」
「うるさい!」
リーコは蒼士に掴まれた手を何度も振ったが、彼の手が離れることはなかった。
「まだ能力のコントロールができないみたいですね」
リーコはもう腕を降るのもやめてしまった。彼女に逃げる意思がなくなったのを確認すると、蒼士は手を離した。
「それに、僕は山田さんを殺すなんてとてもじゃないけどできません」
「どういうこと……?」
「山田さんはこちら側に来るからです。さあ僕たちと一緒に」
蒼士はリーコに対して手を差し出し、握手を求めた。
「は……? 私が……その霧雨とやらになるってこと?」
「いいえ。山田さんも次世代の龍の血脈になるんです」
リーコの頭に、火渡エクトの言っていた「悪いな……。これも次世代の龍の血脈になるためなんだ」という言葉が思い浮かんだ。
「そこの死んだ男も言ってたけど、次世代の龍の血脈ってなに?」
「真の共存を目指す龍の血脈のことです」
「意味分かんない。ってかあんたはそいつらを倒すんじゃなかったの?」
「山田さん、僕は龍の血脈ですよ」
「はあ!? どっちなんだよ! 支離滅裂すぎるって!」
「だからどっちもです。僕は龍の血脈であり、霧雨でもある……」
リーコは蒼士のことを理解することができなかった。それと同時に底知れぬ恐怖を、蒼士に対して抱き始めた。
「ごめんなさい……もう虐めとかしないから。一生のお願い、許してよ……!」
「大丈夫です。山田さんを殺すことなんてできませんし、山田さんなら虐めてくれると思ってましたから」
「なに……? 何言ってるの……?」
「僕がジュースをこぼしたあのキーホルダー。どれだけ大切なものか知ってますし、わざとこぼしたんです」
「は……? じゃあ私が虐めるだろうと思ってわざとやったってこと? 本当に意味分かんない!」
「意味は分からなくても、いま実際にこうして僕と山田さんは龍の血脈同士、話ができてるじゃないですか」
「ってことは最初からあんたの思い通り、全部仕組んでたってこと……!?」
「はい。すべて計画通りです」
リーコは高校を飛び出る直前に見た、机の中に入っていた「一月蒼士にこれ以上関わるな」という言葉が書かた紙のことを思い出した。
「じゃあ、あの紙を机に入れたのは……」
「お察しの通り、それも僕です」
リーコは全身から力が抜け、再びストンと尻餅をついてしまった。
全てはこの男に操られていたということ。リーコは、目の前に立つ蒼士の姿が実際の何倍にも大きく見えた。
これは、不思議の国のアリス症候群。この症候群を患った患者は、ものが大きく見えたり、小さく見えることがあるという。
リーコにこの症状はしばらく出ていなかったのだが、目の前の男への恐怖心と、大きな精神的な不安が症候群を再発させた。
「はぁ……はぁ……」
リーコの息が荒くなる。
「そういえば……一月製薬……。もしかして……実験薬もあんたが仕組んだっていうの!?」
「それは違います。山田さんが実験対象になるとは思ってもいませんでした」
もうリーコには何が本当で、何が嘘なのか分からない。目の前にいるのは人間なのか、霧雨なのか、龍の血脈なのか、あの風凪高校での姿は嘘だったのか。
「じゃあ……誰なの……。私はお父さんに処方されて……」
「考えてもみてください。僕たちはどれだけ親のことをしっていますか?」
「……! まさか……!」
リーコは、自分の父親が精神薬だと偽って実験薬のBFB05を処方していたのだということを理解し、さらに空間が歪み出した。
障子はグニャグニャと湾曲し、天井についた紐式の照明が伸びたり縮んだりしている。
「大丈夫ですか? その薬飲みます? 一応精神薬の成分も入っています」
「そうなの?」
リーコは畳の上に転がっていた薬の箱を乱暴に手に取ると、中から薬を取り出した。しかし、飲むための水がなかった。
蒼士は鞄からペットボトルの水を取り出し、リーコに渡した。リーコは水を受け取ると薬を飲んだ。
リーコは薬を飲んでからすぐに、体にかかっていた圧力が解かれる感覚がした。視界と感覚は戻り、体に力も入るようになった。それどころか全身の血の巡りを感じ、気力と体力も多少戻ったように感じた。
そして、リーコは立ち上がった。
「ただの精神薬じゃなかったんだ……」
リーコは薬の箱をズボンのポケットにしまった。
「さあ、山田さん。次世代の龍の血脈による組織、ブルー・フル・ブラッドに」
蒼士は再びリーコに握手を求めた。
「嫌なんだけど。人間を龍の血脈にするための実験台にされたって言われても、すぐに受け入れられるわけもないし」
「まだ理解してないみたいですね。血が青いというだけで霧雨に狙われるんですよ?」
「それで?」
「僕は龍の血脈ですが、霧雨でもあるんです」
「つまり私を脅してるわけ?その、ブルーなんとかに入らないとそのナイフで斬るぞって」
空気がひりついた。
蒼士の翠銀刀を握る手にも少し力が入っていた。
「さっきから言ってる通り、僕には山田さんを殺すなんてとてもじゃないけどできません。ただ、この翠銀刀で斬られるだけでは死にません」
「そうなんだ」
「だけど龍の血脈はこの翠銀刀を異常なほど恐れてるんですよ」
「なんで?」
「試してみますか?」
「はあ!? キモっ! やっぱり私のこと脅してんじゃん」
リーコは火渡エクトとの戦いの時に自分が空けた壁の穴を横目で確認すると、そこへ徐々に距離を詰め始めた。
しかし、蒼士が能力の瞬間移動を使用し、穴の前に立ち塞がった。
「え……? なになに? なんで?」
「不可解ですよね。山田さんも不可解な能力を使ってこの男を殺したんです」
リーコは一瞬目眩がした。紛れもなく自分が殺したという事実。自分の体から放たれた青い電撃。いくら身を守るためだとはいえ人を殺したという逃れられない現実。
「ち……違う……! 私は……私じゃない! こいつが悪いんだから!!」
リーコは自分を殺そうとしたこの男のことに苛立ち、激昂した。
すると彼女の体から再び青い電撃が放たれた。
電撃は蒼士に直撃し、彼を吹っ飛ばした。そしてそのまま後ろの壁に当たった蒼士は、壁をぶち抜いて隣の部屋まで吹き飛んだ。ただでさえ穴の空いていた壁に、さらに大きな風穴が空いた。
隣の部屋の畳の上に転がった蒼士は痛みでしばらく起き上がることができなかったが、想像以上の強力な電撃に蒼士は驚き、嬉しくなった。
しばらくしてようやく起き上がった蒼士は、元の部屋に戻った。しかし、やはりそこにはリーコの姿はなかった。
「逃げたか……」
物事は全てが思い通りにはいかない。リーコに逃げられる確率の方が高いと踏んでいた蒼士は、リーコをブルー・フル・ブラッドに引き入れるための次の手段もすでに考えていた。
なにより山田リーコは無事に覚醒した。そのことを知っているのは、本人と自分と、取るに足らない龍の血脈の女一人。
焦ることはない。そのうち山田リーコは必ずこちら側に来る。蒼士は目の前に転がるエクトの死体を見ながらスマーフォンを取り出すと、神野七莉に連絡を入れた。
***
リーコはひた走っていた。
鬱蒼と木々の生い茂る日が沈みかけの山道はすでに薄暗く、木と木の間に得体の知れない存在が立っていても不思議ではないほど不気味だった。
リーコは、左を向けばすぐに岩肌の壁が見える車一台通るのでやっとの道を一目散に駆け抜けた。龍の血脈として覚醒し、身体能力の向上した彼女は、人間が走って山道を降りるよりも何倍もの速さで下山をすることができた。
だが山道を降りても状況は変わらない。右を見ても左を見ても田畑か古い家が数軒見えるだけの見知らぬ場所。一応舗装されたアスファルトの道はあったが、車は一台も通っていない。
リーコは後ろを振り返れば一月がいるかもしれないという恐怖で、ただ前を見て走ることしかできないでいた。
これは夢ではない。わたしは人殺しになってしまった。わけのわからない連中に命を狙われることになるかもしれない。
リーコは、蒼士を虐めたことをひたすら後悔していた。そして同じクラスメイトであり友達だった有本京子と高山秋斗の顔が思い浮かんだ。
京子とは今日会っていたばかりのはずなのに、彼女のことがもう別世界の住人に思えてしまう。秋斗とは仲違いをして以降、一言も話していない。
あの二人は頼れない。
リーコは信号のない十字路の横断歩道の手前で止まった。まわりは畑に囲まれており、カーブミラーが設置してあった。
リーコはカーブミラーをちらと確認し、そこに写っているのが自分だけだと確認すると胸を撫で下ろした。
自分はどこに行けばいいのか。実験薬を処方するような父親がいる家に帰れるわけもない。これは家出でもある。誰のところにいけばいい。
そして、リーコの頭にある人物が思い浮かんだ。
蒼士に汚された大切なキーホルダー。
それをくれたのは、リセチ。




