第13話
「っつ――」
壁に頭を打ちつけた痛みで、蟻牧は目を覚ました。
蟻牧は手足を縛られ、ワゴン車のトランクに寝かされていた。
走行中の車は時折大きく揺れ、その度に蟻牧の身体が僅かに跳ねる。
運転席から若い男の声がした。
蟻牧は失血による疲労と揺れからくる吐き気を堪えつつ、その声に耳を傾ける。
「――ねえ、いちかちゃーん、マジでアイツ飼うわけぇー?」
妙に粘っこい、耳障りな声だった。
「当然じゃん。そのために攫ってきたんだから。」
助手席からいちかの声がする。
「ガキ産むための養分って言うけどさー、オレの血じゃダメなん?」
「だってニンゲンの血ってクソ不味いし。試しにアイツの血飲んだら、今まで無理して飲んでたのが馬鹿らしくなっちゃった。それにアッくん、いちかが血吸ったらショック死しそうじゃん。」
「ふーん」
アッくんと呼ばれた男が不機嫌そうに言う。
「嫌なんだよねー、オレ。いちかちゃんに他の男の血が入るの。今までの奴らは一回で死んだからギリ許したけどさー、美味いからって知らんヤツの何度も吸うの酷くね?オレの気持ちも考えてよ。じゃなきゃオレ、アイツぶっ殺しちゃうかも。」
「はいはい、いちかはアッくんが大好きです。愛してます。アッくんだけの彼女です。……これで満足?」
数秒の沈黙の後、唇の触れ合う生々しい音が車内に響いた。
彼らの言う「アイツ」とは俺のことだろう。
ただのバカップルにしてはやけに猟奇的な二人の会話に、蟻牧の背筋が冷える。
確かに、いちかに従えばプロリファレイト社の支配からは逃れられるかもしれない。しかし、彼女に監禁され、餌として一生血を吸われ続ける生活もまた、別の地獄に違いない。逃げなければ。そう思った。
こんな時に『残機』が居てくれたなら……。蟻牧の脳裏にそんな思考が過った。先程まで、他でもない『残機』の許から逃げようとしていたというのに。
「……ねぇアッくん、さっきから、尾けられてない?」
いちかがリアウインドウを気にするように振り返った。
いちかの視線の先には一台の黒いバイク。バイクはいちか達の乗る車と一定の距離を保ちつつも、離れることなくついて来る。
「しつこい!振り切って!」
いちかの声に、男が無言でアクセルを踏み込む。
突然の急加速に、蟻牧はまたも壁に頭をぶつけて呻き声を上げた。
いちかは食い入るようにリアウインドウを見つめる。
背後のバイクが急加速し、車と衝突する寸前まで距離を詰めてきた。
「!!」
いちかの視界から、バイクが消えた。
バイクが車体を跳び越えたと気付いた時には遅かった。
前方に現れたバイクを避けようとした車が派手にスピンする。
バイクから降りた配達員風の青年―波星が両手首に固定されたスプレーボトルのキャップを開ける。
「仮融着」
波星が低く呟く。声紋認証完了と同時に、車に向けて液体を噴射した。スプレーノズルから粘性の高い液体が伸び、生き物のように車体ドアを這って僅かな隙間から内部へ侵入した。
「げ、何これキッショ!」
液体の糸に気付いた男が前方の波星ごと轢き飛ばそうと車を急発進させる。
車と接触する寸前、波星が跳躍した。車体の上、空中回転する波星の胸部から一対の長い槍―黒褐色の昆虫の脚が飛び出し、タイヤを引き裂く。
波星が着地するのと同時に、車体の左右ドアとトランクが全て開け放たれた。
「融着解除」
波星とのリンクが切断された液体の糸がべちゃりと道路に叩きつけられる。
映像が逆再生されるかのように波星の胸部に昆虫の脚が格納される。
いちかが恐る恐る車から降りた。手に蟻牧から盗んだ小銃を構え、波星と相対する。
「いちかちゃん、そいつヤバいって!逃げよ?!」
運転席から男が叫ぶ。
「でももう車動かないじゃん!アッくんのヘタレ!!」
小銃を構えるいちかの指が恐怖に震えていた。
「その銃はアブラムシ型専用武装だ。お前には扱えない。」
波星が冷ややかに告げた。
「藤嶋逸夏14歳。記憶を消すだけのつもりだったが、お前、旧ミライ人だろ?暴走はしてないようだが……人を殺してる。それも何人も。」
いちかが波星から僅かに視線を逸らし、軽薄な笑みを浮かべた。
「……何のこと?いちか、ただの中学生だし。知るわけないじゃん。」
「お前の身辺は調べた。両親、仲の良かった同級生、部活の先輩、担任教師。皆、謎の失踪を遂げている。偶然にしては出来すぎだ。」
いちか、否、逸夏の笑顔が若干引き攣る。
「うわぁそんなとこまで調べるとか、おにーさん変態?引くんですけどぉ……」
「母親以外は全員男。……共犯兼餌ってところか。そっちの彼も後で殺すつもりだったんだろ。」
波星は武器のつもりかスコップを片手に逃げ出そうとしている男を指して言った。
「逃げるな。」
追い縋る逸夏を払いのけ、波星が瞬時に男との距離を詰めた。波星は男が振りかぶったスコップを掴んで投げ捨て、体勢を崩した男の腹に膝蹴りを叩き込む。
「ちょっと、アッくんは関係ないでしょ?!」
叫ぶ逸夏を無視し、波星はポケットから取り出した注射器の針を、気絶した男の首に突き刺した。
「何、したの?」
「記憶を消した。目が覚めたら、お前のことも忘れてるだろう。」
波星が注射器をしまいながら、こともなげに答える。
逸夏が怒りに肩を震わせた。
「許せない!」
逸夏が波星の頭部に小銃を突きつける。
波星は振り向きざまに逸夏に足払いをかけ、バランスを崩した逸夏の腕を掴んで後ろに捻った。
逸夏が取り落とした小銃を波星はすかさず遠くへ蹴り飛ばす。
「抵抗は止せ。今なら命までは奪わないから。」
波星は少し疲れたように言った。
その冷めた態度が余計に逸夏の怒りを煽った。
「……もういい。テメエの血も吸ってやる!!」
逸夏の口元が管状の蚊の口吻に変わった。
「暴走か……。もう手加減してやれないな。」
波星は逸夏から距離を取りつつ、一瞬泣き笑いのような表情を浮かべた。
少女とはいえ殺人犯の逸夏を野放しには出来ないが、暴走を自力で抑えられるならまだ救う手立てはあったかもしれない。
逸夏の胸部から黒地に白い縞模様をもつ一対の細い槍が飛び出した。人間大のヒトスジシマカの脚だった。同時に逸夏の背から黒い縁のある二枚の翅が伸びる。
頭部まで大きな複眼と触角をもつ蚊の姿に変わった逸夏が、波星に迫った。
波星の背を割って、黒く硬質な上翅と、その内側の薄い後翅が現れた。左右の上翅それぞれの中央に赤い丸模様が光っている。黒地に赤の警告色が見る者を威圧する、ナミテントウの二紋型を思わせる姿。
波星は大きく羽ばたき、逸夏のタックルを避けた。
逸夏も翅を広げ、上昇を続ける波星を追って夜空を飛ぶ。
50mも上昇したところで、突如、波星は飛翔を止めた。
逸夏が好機とばかりに波星に突進する。
波星は逸夏の背後に回り込み、その首を腕で絞め上げた。がくりと項垂れ、脱力した逸夏の身体を支えて引き上げるように飛びつつ、薄い蚊の翅を噛みちぎる。
波星が、逸夏の身体から手を離した。
またも気を失っていたらしい。気付いた時には蟻牧は一人、車内に取り残されていた。車は完全に停止しており、何故かドアとトランクが全開になっていた。
何にしても、助かったようだ。
蟻牧は胸部に意識を集中させる。蟻牧の胸から一対のアブラムシの脚が飛び出した。失血の影響かいつもより小ぶりだったが、蟻牧の手足を縛るロープを掻き切るには充分だった。
トランクから這い出ようとしたその時、蟻牧の目の前のアスファルトに何かが落下した。
勢いよく路面に叩きつけられ、赤黒い液に濡れたその物体は、ワンピースを着た少女の形をしていた。
「あ……あ……ぁ……」
それが誰だか知っているのに、蟻牧の脳は理解を拒んだ。その名を呼ぶことが出来なかった。認めてしまえば、すべてが終わってしまう気がした。
血塗れの物体の脇に、一人の青年が降り立った。
背に翅のあるその青年の姿に、蟻牧は見覚えがあった。
波星――!
「何で、お前が……」
波星が蟻牧に視線を向けた。
「どうして……!」
殺したんだよ、とまでは言えなかった。
否、理由なら分かっていた。いちかは旧ミライ人で。車内での会話から察するに今まで多くの人を殺していて。危険な存在だった。だから殺された。
この青年が手を下さずとも、いずれプロリファレイト社の誰かが、或いは蟻牧自身が殺すことになっていたかもしれない。
それでも、蟻牧はそんな現実を認めたくなかった。いちかとの未来をほんの一瞬だけ、夢見てしまったから。いちかの正体を知った今でさえ、いつかは彼女が振り向いてくれるかもしれない、そんな淡い期待を捨てきれなかったから。
いちかがいないなら、最早どこにも逃げ場がないなら、このクソみたいな世界でいったい俺はどうしろっていうんだ。
「……殺すんだろ、俺も」
蟻牧は呻くように言った。
「殺せよ。」
蟻牧は波星の瞳を見据えた。
その時初めて、蟻牧は波星のひどく苦しげな表情に気付いた。
波星の背から翅が消えた。
「……俺だってもうたくさんなんだよ、こんなことは」
波星は俯き、吐き捨てるように言った。
波星の意外な言葉に、蟻牧は虚を衝かれた。
何か言い返したかったが、言葉が出なかった。
波星が倒れたバイクを起こし、エンジンをかける。
遠ざかる波星の背を、蟻牧はただ茫然と見送ることしか出来なかった。




