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…いや…
それでも親切過ぎるような気もする。昨日も挨拶をしに行ったときに、引越しの片付けの手伝いをしようかと声を掛けてくれたのも断ったが、今日の夕食への誘いや歓迎会まで開くなんて度を越しているような気がする。身寄りのない事情を話したから気を使ってくれているのかもしれないが、買って来たものまでチェックされていたし、少し怖い感じすらする。身寄りがないなんて言わなければ良かった。
大家さんとの会話の交わし方もだが、いろいろなことがうまく運べない自分の生まれ持っての器量のなさを悔やみ、カップ天蕎麦を食べる気はなくなって、夕飯はおにぎりとお茶だけで済まそうと思った。
あらかじめ買っておいた、組み立て式の小さいちゃぶ台をまだ段ボールから出していないので、その段ボールをテーブル代わりにする。一日の立ち仕事にも疲れたし座ってゆっくりしたい。皿もまだ段ボールから出していないからティッシュペーパーを引いて、ラップを半分だけはがしておにぎりを置いた。そして米粒がティッシュペーパーに付かないように気を付けようと、一口おにぎりを頬張ったところでまた大きくドアチャイムが鳴った。
「いやだぁ…」と、声に出してしまった。
納得して帰ってくれた大家さんが、奥さんにもう一回誘っておいでと言われて来たんじゃないだろうか。それか、その奥さんが私にどうしても食べさせようと、タッパに入れてご飯を持って来てくれたんじゃないだろうか。
口の中のおにぎりを慌てて飲み込んでドアを小さく開けると、そこにいたのは石崎さんだった。
「木本さん?こんばんは」
小さい声で言う石崎さんに、「こんばんは」と返すと石崎さんは眉をひそめ、唇に指を当て静かにというジェスチャーをしてから囁くような声で続けた。
「ちゃんとモニターで確認してから開けなきゃダメだよ」
石崎さんにも大家さんと同じダメ出しをひそひそ声でくらった。
「…はい。すみません」
石崎さんはひそひそと続ける。「いやすみませんとか、怒ってるんじゃないよ。心配しただけ。女の子ひとりなんだからもっと気を付けないと。セールスとか宗教の勧誘とかも来るよ」
そう言われて、水本と石崎さんの階段の上から聞こえた会話を思い出した。
「はい…そうですよね、ありがとうございます。気を付けます」
同じようにひそひそ声でそう返した私に、石崎さんはうんうんとうなずいて微笑んでくれたが、隣の三号室の方をチラっと見た。そして折りたたんだ白い紙をぐいっと私の手に押し付け、「ポストに入れて帰ろうと思ったけどポスト見ないといけないと思って。じゃあ明日ね」と言って、私を中に押し込むように勝手にドアをぐいっと閉めて帰っていった。
渡された紙をカサッと広げながら、お湯がしゅんしゅん沸いていることに気付いて慌てる。カップ麺を食べないことにしたのに火を着けたままだった。気を付けないといけない。
火を止め、綺麗な手書きで書かれたメモを読む。
「こんばんは。お疲れ様です。上の部屋の石崎です。
大家さんの奥さんから連絡が来て、
木本さんが明日の歓迎会に来ないかもしれないから、
迎えに行って一緒に来て欲しいと頼まれたので、
夕方六時五十分頃に迎えに来ます。
それから昨日はご挨拶ありがとうございました。」
メモを見たまま、んん~~と唸った。
困ったな。石崎さんと大家さんの奥さんは仲が良いのか…。
もうおにぎりを食べる気も失せて来た。歓迎会は決定事項で、このままだと石崎さんが明日の夜迎えに来てくれて、そのまま連れて行かれる。目をつむって五分ほど迷う。どうするのが正解なんだろう。大家さん宅に改めて断りに行くか…。
行きにくいな。かといって明日の仕事帰りにそのままどこかへ寄って、九時くらいにしらっと帰って来る勇気なんて私にはない。
石崎さんの部屋へ行ってもう少し詳しく聞いてみるしかないかもしれない。石崎さんは初対面の引越しの挨拶に行ったときも感じよく対応してくれたし、今だって奥さんに頼まれたとはいえ、わざわざメモを渡しに来てくれたのだ。今行くと夕飯の邪魔になるだろうし、まず夕飯の時間ではなくても他人の部屋を訪ねたくはないが、小学生の子どもがいるところへ遅くに訪ねて行く方がもっと迷惑になる…。
しばらく迷って、それでも歓迎会についてここできちんと聞いておかなければと心を決め、それでもまだ躊躇し、ドアノブを掴んだまままた目を瞑って迷い、やっと大きな深呼吸を一つしてから石崎さんの部屋へ向かった。自分でもこういうところが本当に嫌になる。
結構悩んだ私とは裏腹に、石崎さんは夕食時に部屋を訪ねた私を全く嫌がる素振りも見せず、当たり前のように部屋の中に入るように言ってくれて、もちろん玄関先でと断ったが、中で話した方が良いからと、戸惑う私の腕を掴んでドアを閉め、はいはいはいと押し込むように部屋へ上げ、すぐにお茶の用意をしてくれた。
有難いとも思ったが、流れるような動作で中へ入れられたのが少し怖い。
石崎さんの部屋も私の借りている下の部屋と構造は同じようで、玄関を入ってすぐ手前、右側の部屋が四畳半ほどのキッチン。左の扉はトイレだ。キッチンには二人掛けには少し大きい、でも四人掛けには小さいくらいの正方形のテーブルがあり、肩より少し長い髪をツインテールにした女の子が、草花の写真の載った黄緑色の表紙のハンディタイプの本を読んでいた。
この子が小学三年生の娘さんか。
「菜月」と、石崎さんが娘を呼んだ。「下の部屋に引っ越して来た木本さんだよ」
菜月と呼ばれたその子はパッと本から目を離し、私に「こんばんは」と言ってにこっと笑ってくれた。石崎さんに似ていて可愛らしい。
「こんばんは」慌てて挨拶を返した。「急に来てごめんなさい。お邪魔します」
促されて私用に出してくれた丸椅子に腰掛け石崎家の食卓につく。あっという間に私の前に熱いほうじ茶を入れた大きめのマグカップを置いてくれた石崎さんは、今度は冷蔵庫から四角い少し深みのある白い皿を取り出しながら私に聞いてくれた。
「ちょっと子供にご飯出しながらしゃべるけど…。あっ!木本さんもお腹空いてるよね?マカロニグラタンとサラダ食べる?」
「いえ、大丈夫です。おにぎりとか食べたんで。本当にすみません夕飯の時に上がり込んで。すぐ帰るので。歓迎会のこと、どうしてもちょっと聞きたくて」
実際私自身はこうやって部屋まで上がり込む気はなかったが、マカロニグラタンだってきっと二人分しかないに違いない。それでも石崎さんは、自分もちょうど私に聞きたいことがあったから、ゆっくりお茶でも飲んでいってと言ってくれた。
「木本さんさぁ、ここに帰って来た時、隣の部屋の水本っていう子に話しかけられてたでしょ?」
「…はい」
石崎さんは冷蔵庫から取り出した皿に入っていたマカロニグラタンの上に、チーズとそのまた上にパン粉を少し振りかけオーブンに入れた。
石崎さんは水本とのあの会話の後、部屋には入らずに下で水本が私に話しかけるのを聞いていたのだろうか。私も石崎さんが、何かを教えようかと言っていた同じコーポの住人の水本に、どうして無下に断りを入れていたのか気になっていた。
少し眉をひそめるようにして石崎さんは言った。
「ねえ木本さん、水本に話しかけられたとき、なんかちょっと変な感じしなかった?すぐインスタ交換とか言われなかった?」
石崎さんは水本を呼び捨てだ。私も心の中では呼び捨てにしているけれど。
「言われなかったです。…変な感じですか?」
聞いてみたが、石崎さんは少し小首を傾げて私の次の言葉を待っている。
「…変な感じっていうか、挨拶したんですけど。引越しの挨拶です。さっき初めて会ったので。なんか結構ノリが軽そうな人なのかなって思いましたけど」
「何か言われた?」
「はい。私の名前が春花っていうんですけど、水本さんの弟さんも陽日っていうらしくて、それで歳も私と同じらしくて、その話を」
「弟の話?」
「はい。…なんかそれで弟さんが髪伸びるのがすごい速いって言ってました。変なって言ったらその髪のことぐらいかなって。それから引越しの挨拶のタオル渡しただけです。石崎さんに渡したのと同じやつなんですけど」
水本との会話を思い出しながら話した。そう言えば初対面の私のことを木本ちゃんて呼んでいたけど…。
石崎さんが怪訝な顔で聞いてくる。「なんで弟の髪の話なんてするんだろ?髪の伸びるのどれくらい速いんだろ?」
「いや、わかんないです。なんか、自分もまあまあ速いって言ってましたけど」
「何アピールそれ」
私に聞かれても、と思う。「…わからないです」
「なんかね」石崎さんが言う。「私ここに越して来てまだ二週間目なんだけどね」
「そうなんですか⁉」
じゃあ私とほとんど同じ新人住人だ。だから石崎さんのも一緒に歓迎会するのか。
「水本がさ、私の名前、ちゃん付けで呼ぼうとして来たんだけどキモくない?」
「え?あ、でも、なんか私も呼ばれました木本ちゃんて」
「苗字じゃんそれ」
「下の名前でってことですか?」
「それに木本さんは水本とそんなに年も変わらないでしょ?ちゃん付けでも全然変じゃないよ」
「お母さん」急に菜月ちゃんが口を挟んだ。「人のこと呼び捨てにしちゃいけないんだよ。水本さんて呼ばないと」
少しムッとした石崎さんが娘に言い訳をする。「水本さんがいるところではちゃんと水本さんて呼ぶよ」
「えーー、先生そういうのはいけないって言ってたよ」
「…わかった。気を付ける。でも今日のところは水本って呼ばせて?」
「えーー…私、知らないよ。そういうのって今日だけとか言ってても、忘れててその人の前とかでも言っちゃうんだよ」
ずいぶんしっかりした小三だ。よく見ると、菜月ちゃんが見ているのは『道端でもよく見る草花雑草図鑑』という、大人が見るハンディタイプの草花図鑑だった。
大家さんには下の名前で呼ばれたと私が言うと、「大家さんはいいんだよ」と石崎さんは言った。




