20.練習
別荘に移った翌日はハルを一人にしてしまって、申し訳ない気持ちがあったが、茂木先生と約束していたので。
「気にせず行って来ていいよ。」
ということなので、ハルに見送られ、茂木先生の手紙を持ち、七月のコンクールまでの数か月だが、新しく通う、東京のバレエスタジオへ向かった。
東京までは電車で二時間少々。特急を使えば早くなるが。別に、各駅停車でも、北関東から各駅停車で東京へ出る時間とそこまで変わらないので、各駅停車で東京へ向かうことにした。
ここの海辺の地域は交通網が、都会ほどではないが発達している。
三十分に一本くらいの割合で、電車が通っているし、バスの路線もいくつかある。
そうして、時刻表で電車の時間を調べ、東京へ向かった。
二時間電車に揺られ、東京へ着く。
茂木先生から紹介されたバレエスタジオはすぐに見つけられたし、本当に、おしゃれな雰囲気の内装だった。
「やあ、吉岡君だね。待ってたよ。」
バレエスタジオの先生から優しく声を掛けられ、ニコニコ笑いながら部屋に通された。
早速、コンクールに向けた練習を一緒に進める。
良かった、先生も優しそうな人で、安心した。
そう思って、ふうっと、一息入れて、安心する僕。
そうとわかれば、急ピッチで、自由曲『春の声』の振付をせねばならない。
ハルがまだまだ、多少は元気なうちに、歌ってほしかったからだ。声を、“ハルの声”を聞かせてほしかったからだ。
「すごいね。茂木さんから話を聞いていて、やっぱり、気迫が伝わってくるよ。予定より早く振付をマスターして、コンクールまで、精度を高められそう。」
先生はニコニコ笑いながら、僕の両肩をポンポンと叩く。
僕は、無我夢中で振付を自分のものにしていく。
初日は、曲全体の三分の一程度の振付を覚えることができた。
そうして、再び、二時間弱、電車に揺られ、茂木先生の別荘にたどり着く。
「お帰り、昴君。」
ハルがニコニコ迎えてくれる。
「ただいま、ハル。」
僕は笑顔で答える。
「少しだけど、ご飯、作ってみた。」
ハルはニコニコ笑いながら、手作りの夕食を持ってくる。
「えっ、ハル、本当に?」
ハルは頷く。
「ごめんね。ありがとう。」
僕はハルに頭を下げる。
そうして、別荘のリビングには、コンビニで買ったお惣菜もあるが、ご飯と、みそ汁と、煮物のおかずは、ハルの手作りだった。
本当に、ハルは病人なのだろうか。それを疑ってしまう。
「ふふふっ、一度でいいから、好きな人に、作ってあげたいと思って。夢、叶えちゃった。」
ハルは笑っていた。
ハルの料理は本当に美味しかった。
美味しくて、感動して、涙が出た。
「ありがとう。ハル。」
僕はハルの料理の味を一つ一つ、よく噛んで味わう。
食事の会話はいたって普通、今日のバレエ教室の初日について、ハルが、根掘り葉掘りと、質問してきたのだった。
「良かったね。先生も優しそうな人で、雰囲気もよさそうで。」
ハルは少し微笑んでいた。
さすがにハルに無理をさせてはいけないと思い、ハルの料理をおいしくいただいた後、食器洗いは僕がやることになった。
そして、全ての食器が洗い終わったころ、やはりハルは、部屋に戻っていて、少しぐったりしていた。
「ハル。ありがとう。」
僕は小声でつぶやく。
「あっ、昴君、洗い終わったの?」
案の定、ハルも小声で返す。
「そうだね。」
「ありがとう。」
ハルはぐったりしながらもニコニコ笑っていた。
お互いにおやすみを言って、部屋に戻る。
別荘の夜はやはり静かだった。
そして、翌朝を迎える。
翌朝はストックしていたパンを食べ、午前中は、昨日のバレエの振付の復習をすることになった。
僕はラジカセを持ってきて、ハルの部屋へ。
「ん?どうしたの?」
それに気づくハル。
「昨日のバレエの復習。」
僕はそう言ってラジカセを置いて、曲を流す。
「あっ、この曲、知ってる。」
そう、ハルの前でこの曲を流したかった。
ヨハン=シュトラウスの『春の声』、この曲は、ソプラノの歌詞があって、オペラ歌手のリサイタルでもよく歌われる曲。
「歌える?」
僕は言う。
「うん。私も、頑張ってみる。」
そうして、昨日やったところまでを、踊っていく僕。
ハルも生き生きとした表情で歌っている。
透き通ったハルの歌声。まさしく、『春の声』だった。
ハルの部屋から見る庭にも、先日、春がやって来た。
あとは、チューリップが咲けば。
この日は曲の途中までだが、僕はバレエで、ハルは歌で、沢山踊り、歌った。
そうして、この数日、バレエスタジオに通っては、振付を覚え、ハルの生歌で復習する、という日々が続いた。
日に日に、この場所も気温が高くなり、春の訪れを予感させる日が多くなった。
そして、ついに。
自由曲、『春の声』の振付が全て通った。
バレエ教室の先生からも、お褒めの言葉をいただき、早速、別荘に戻って、ハルと一緒に通しの練習、つまり、通しの復習をする。
「ちょっと楽しみ・・・・。」
ハルは緊張しながらもニコニコ笑う。
「うん。」
僕は深く頷き、ラジカセをセットする。
そして、曲が流れ始める。
僕は頭の上から足の先まで、全神経を集中させる。
そして。
ハルの声。透き通った、ハルの歌声。
その声、春の訪れを告げる声を頼りに、僕は必死で踊り続ける。
何だろうか。癒される空間。
僕は疲れを感じない。透き通った声が、癒しの波動となって、僕に伝わってくるから。
そして。
曲は最高の盛り上がりでフィニッシュする。
踊り切った後、僕は思いっきり拍手をする。
同じく、ハルも僕に拍手をする。
「ありがとう。ハル。」
「ありがとう、昴君・・・・・。・・・っ。」
ハルは僕に向かって倒れ掛かるように抱き付いてきた。
「ごめんね、ハル。」
「ううん。はあ、はあ。」
ハルは呼吸を整える。
「すごく、楽しかった。」
ハルは笑っていた、笑っていたが。
はあ、はあと大きく呼吸が乱れている。
「ハル・・・・。」
「ね、ねえ、昴君。」
お互いの瞳を見つめ合う、僕たち。
その後、自然と僕とハルの唇が重なり合う。
だが、それは一瞬のこと。
長い時間やり続けていれば、再びハルの呼吸が乱れてしまう。
「「ありがとう。」」
お互いにニコニコ笑う僕たち。
この別荘に、穏やかな春の訪れを確かに告げていた。
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