21.アクアリウムの中で
ぽかぽかと温かくなった今日この頃、本当に春がやって来た。
ハルの体調も大きな変化はなく、落ち着いている。
しかしながら、確実に病状は進行しているようで、往診に来ていた先生が実施した血液検査のデータからも、着実に進行していることがわかった。
だが、見た目は本当に何も変わらないのが驚いている。
体調の悪化が感じられるのは二つの機会だけだ。一つは、先ほどの血液検査で、もう一つは、バレエの練習の時。
やはり、『春の声』を歌い切った後のハルは、息切れがひどくなる。
それでも、音楽が好きなハル。家で練習する時は、いつでも歌ってくれていた。
その他にも、ハルが料理を作ってくれたり、掃除をしてくれたり。そして、僕も料理を作ったり、掃除をしたり、そして、庭の手入れをしたりと、二人で、この別荘の暮らしを満喫している。
この間のキスを交わしてからは、毎日のように、おはようとお休みのキスを交わす。
まるで、ささやかな新婚生活のようだ。
これが毎日、永遠に続けばいいのにと思ってしまうが。
往診と、『春の声』を歌い切った後、そして、やはりぐったりしてしまうハルを見ると、覚悟しなければならない日が近づいてきていることがわかる。
しかしながら、当初は、『桜の時期まで持つかわからない』と言われていたのだが、もう、桜のつぼみは開きかけ、世間でも春休みになっていた。
僕たちの元にも、茂木先生から中学の卒業証書が、僕とハルの二人分、送られてきたのだった。
そう、鍵山にいろいろ言われることを思えば、出るだけ無駄だった。
結局、僕とハルは、卒業式に出席しなかった。
これで良いのだと思う。
そんな、ぽかぽかした春の陽気の頃、僕は思い切って、ハルと二人で出かけることに。
当時は、インターネットというものもあるにはあるけれど、まだまだ、調べるなら、書籍や雑誌を購入して、調べるのが主流だった。
近くのコンビニで、ガイドブックを見て、この場所へ行こうと決めた。
僕はハルを車いすに乗せ、外出の準備をする。
「どこ行くの?」
とハルが聞いてくるが。
「へへへっ、内緒。」
僕は得意げにハルに向かって言う。
ハルはニコニコ笑いながら頷き、それ以上聞かないことにした。
車いすを押して、僕は道を進んでいく。
「重くない?」
ハルは僕に聞いてくるが。
「ううん。全然軽い。」
僕はニコニコ笑って頷く。
「そっか。良かった。」
ハルは大きく頷く。
そうして、しばらく車いすを押して歩くと、電車の駅が見えてくる。
駅自体は、屋根のない、プラットホーム一つしかない駅だが、電車の交通の便は良い。上り、下りの両列車とも、三十分に一本の割合で走っている。
しかも、その間、特急も走っているのだから驚きだ、勿論、この駅には止まらないが。
「小さい駅だね。」
「うん。そうだね。」
ハルの言葉に頷くが、駅とその線路沿いには、桜の木が何本かあり、桜が少しだが、咲き始めている。
「桜が咲き始めたね。」
「うん。」
ハルの言葉に、僕は頷く。本当に感慨深くなる。
桜。医者の話からすれば、ハルは来年の桜は見られない。そして、僕も、こういう状況が差し迫ってくるのを目の当たりにすると、あと何回桜を見られるだろう。と思ってしまう。
美しく、素敵に、今この一瞬を、一生懸命生きていられるだろうか。
しかし、僕は大きく、ハルに見せまいと、心の中で首を振り、今、一生懸命生きているハルを見て、大きく深呼吸した。
「綺麗だね。」
「うん。」
ハルはニコニコ笑っていた。
そうこうしているうちに、電車がやって来た。
ワンマン運転の電車、さらにこの駅は無人駅ということで、一番前の扉しか開かない。そして、扉が開いた瞬間、運転手は僕たちに気付き、急いでスロープを持ってきて、ドアに設置してくれる。
運転手に頭を下げて、僕とハルは電車に乗り込んだ。
そして、電車に乗って一駅。
こちらの駅は、有人駅であり、しかも、特急も止まる少し大きな駅。
駅の中にはお土産屋さんが結構立ち並ぶ。
そして、もちろんだが、この駅から、路線バスの接続がいくつかなされており、僕とハルは、該当する路線バスに乗り込む。
ここでもバスの運転手がスロープを用意してくれた。
その運転手にも頭を下げ、バスに乗る。
そうして僕たちが向かった先。
それは、水族館だった。
「着いたよ。」
僕はハルに微笑みかける。
「うわぁ~。」
ハルはニコニコ笑っている。
どうやらサプライズは成功のようだ。
僕たちは入場券を買って、水族館の中へと足を進める。
最初に目につくのは、『ここ近辺で見られる仲間たち』という、看板。
子供たちのふれあいコーナーなのだろうか。色々な生き物に触ることができるスペースがいくつかある。
色々な生き物に触れるようにと、展示されてある他の水槽から色々と持ってきているようだ。
ハルの表情は終始、無邪気な子供に戻った、そんな感じだった。
小さな水槽に目が行く。
「いろいろ触って行かれますか?」
係りの人が僕たちに声をかけニコニコ笑っている。
僕とハルは頷く。
先ずはヒトデ。これは触りやすく、僕とハルは少し触ってみる。
やはり海の生き物なのだろうか、独特の感触。
「ひゃっ。」
「ハハハ。」
ハルは一瞬、ニコニコ笑う。
次に案内されたのはウニだ。
「棘が多いですし、触れるのですか?」
僕は係りの人に聞く。ハルも大きく頷く。
「はい、勿論。ウニはこう、下から触ってください。」
係りの人が見本を見せる。下からすくうように、ウニを取り出す。
僕たちも同じようにやってみる。すると。
ウニの棘が無い。
「あれ?棘が無いね。ハル。」
「うん。」
ハルはニコニコ笑って、安心する。
「はい。ウニは下側には棘が無いのです。」
係りの人はニコニコ笑って、ウニの生態の説明をしてくれた。
係りの人はその他にも、色々な生き物を案内しては、触らせてくれた。
「それでは、他の展示物も楽しんで。」
係りの人に見送られながら、僕たちは、水族館の奥へ、奥へと進んでいく。
次の展示場は。
『ここよりも暖かい海』と、書かれていた。
「うわぁ~。」
ハルの目の色が大きく、輝き始める。
それは僕だって同じだ。
大きな、大きな水槽の中に、いくつもの、色とりどりの熱帯魚たちが、僕たちを歓迎するかのように泳いでいる。
飾られている、サンゴ礁も本当に神秘的だ。
さらには、それとは別に大きな水槽があり、そこには、マンタ、ジンベイザメ、イワシの魚群と大きな水槽の中にいくつもの生き物たちが、泳いでいたのだった。
「すごい。海の中だね。」
僕はハルに言う。
「うん。夏が来たみたい。」
大きな、大きな、アクアリウムの中。
海の底を僕たちは歩いている、そんな感じだった。
「海の中、海の底だね。」
「うん。泳げるかな。」
ハルはニコニコ笑いながら、僕に言う。
「うん。泳げるよ。きっと。」
僕はハルに向かって笑う。
「うん。ありがとう。」
ハルは少し寂しそうに笑っていた。
その瞬間に、何だろうか。すべてを悟った僕が居た。
ハルはおそらく、自分がどんな状況か知っていると。
たとえ、茂木先生やハルの両親が、ハルに彼女の病気の状況を話していなくても。
夏、また皆で泳げるだろうか。それは分らないし、ハルの場合はその可能性は極めて低い。
それでもハルは、懸命に生きようとしている。
頑張ろうとしている。
ここに来れて本当に良かった。
ハルに夏を見せることができた。
僕は、ハルの瞳を覗き込む。
僕は、大きく頷く。きっと大丈夫と。
ハルも力強く頷いた。
「ありがとう。」と。
そうして、ハルの車いすを押しながら、アクアリウムの中を僕たちは通っていく。
海の底を歩くみたいに、泳ぐみたいに。
『ここよりも暖かい海』があれば、『ここよりも寒い海』という展示室だってある。
今度は。
「かわいい~。」
ハルはニコニコ笑っていた。
アザラシ、白クマ、ペンギン。さらには、白イルカと。ここよりも寒い場所で暮らしている生き物たちとのご対面だ。
やはり、とても可愛らしい見た目の生き物が多いようで。
「可愛いね。」
その生き物たちの表情に僕も釘付けだ。
「今度は、冬が来たね。」
「うん。でも、冬は終わっちゃったね。」
ハルはニコニコ笑っている。
そう、今は、冬が明けて、春の季節になろうとしている時期。桜も少しずつ咲き始めている。
「そうだね。」
僕はニコニコ笑って、ハルに応える。
「でも、可愛い。」
ハルはニコニコ笑って、可愛い生き物たちを見つめていた。
そして、最後のイベント。
イルカショーを見学した。
「イルカ、可愛いね。」
「うん。」
僕たちは、イルカたちの芸に、大きな拍手をしながらそれを見ていた。
イルカのジャンプしたときに発生する、水しぶき。
その水しぶきには少しだが、虹色に輝いていて、とても美しかった。
そうして、僕たちは帰りにお土産を買って帰った。
キーホルダーと、ぬいぐるみを二つずつ。キーホルダーには、可愛らしい、イルカの絵が。そして、ぬいぐるみはイルカとカメのぬいぐるみで、海の仲間が増えたのだった。
「良かったね。」
「うん、ぬいぐるみも可愛い。」
僕たちはニコニコ笑っていた。
そして、再び、ハルの車いすを押して、水族館の建物を出て、帰路に就いたのだった。
ハルに夏を見せることができた。
本当に、本当に、良かった。
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