第百話 戦いの夜明け
「はぁい、ストーップ」
乾いた声。
ひどく間延びした調子。
「やぁ、女の子をいじめるのは感心しないなぁ」
空気が歪んだ。
誰も気づけなかった位置から、誰かが“そこに立っていた”。
石畳の上に、影がひとつ落ちる。
包帯だらけの男――レイジ。
だらしなく肩を落とし、口元だけが楽しそうに吊り上がっていた。
「お兄ちゃん、顔コワいコワい」
ひらひらと手を振りながら、のぞき込むようにファングとリンカの間へ視線を滑らせる。
「首、落とすかどうかでそんな真剣になるなんてさぁ」
肩をすくめ、わざとらしくため息をつく。
「やっぱり家族って、めんどくさいよねぇ?」
レイジの薄笑いに、張りつめた空気がさらに歪む。
誰も口を開けない中――
「……やめろ」
低く、押し殺した声が割り込んだ。
ウィングだった。
彼はファングの背中を見つめ、苦い顔で言葉を続ける。
「ファング。今のお前は、剣を振るう顔じゃねぇ」
冗談めいた軽口ではない。戦士の眼。
「殺す覚悟も、助ける覚悟も……まだ揃ってねぇ顔だ」
ファングの肩が、びくりと揺れる。
ウィングは続けた。
「――震えたまま振るうもんじゃねぇ」
レイジが退屈そうにあくびをした。
「説教タイム長いなぁ。まとめてくれる?」
ウィングは一瞥だけを向け、吐き捨てる。
「まとめ? 一つだけだよ」
ファングの背に向け、
「――迷うな」
静かに告げた。
ファングの喉が鳴る。
リンカは無表情のまま、そのやり取りを見ていた。
その時だった。
遠くの通りから、甲高い悲鳴が響いた。
「――助けてくれぇぇッ!!」
「逃げろ!こっちに来るな!!」
複数の足音が、こちらへなだれ込む。
蒼白な顔の人々が、我先にと広場へ駆け込んできた。
「ウィングさん!!」
「ハルクさんは!? 誰でもいい、力のある人を!!」
叫びながら、必死に指差す。
「化け物だ! 化け物が出た!!」
その言葉に、場の空気が一変する。
ウィングは瞬時に声を張り上げた。
「全員、広場の奥へ下がれ!!」
「細い路地に逃げるな! 挟まれるぞ!」
戦場で培った声が、本能で人を動かす。
民衆が言われるがままに退避し始める。
スノーが息を飲む。
「化け物って……魔獣じゃないよね」
サヤは砂を握りしめる。
ハウンは無言で治癒の構えを整えた。
レイジだけが肩を揺らして笑う。
「おお、タイミングばっちり」
「“壊れる過程”のおでましだ」
ハルクは逃げ、駆け込んできた兵士団員の袖を掴んだ。
「待て!落ち着け、状況を話せ!」
兵士は顔面蒼白で、呼吸も乱れ、言葉をうまく繋げられない。
「は、はる……ハルクさん……っ!」
掴まれた瞬間、糸が切れたように、彼は涙をぼろぼろ溢れさせた。
「だ、団長が……! 団長が、あんな……!」
全身が震え、膝から崩れ落ちる。
ハルクはぐっと肩を掴み直した。
「ギルベルトがどうした!!」
鋭い声に、兵士の視線が必死に焦点を結ぶ。
「く、薬を……! あの、例の薬を飲んで……!」
ワタルたちの背筋に冷気が走る。
ハルクの握る手にも力が篭った。
「――薬…?」
ハルクの低い声が、兵士の肩を震わせた。
「――薬……?」
その言葉を拾うように、
ぱん、と再び軽い手拍子。
「はーい、ここで“楽しい解説タイム”!」
レイジだった。
包帯だらけの身体をだらしなく傾け、芝居がかった口調で続ける。
「説明しよう! ……って一度、言ってみたかったんだよねぇ」
誰も笑わない。
誰も返さない。
それでも、レイジはひとりで満足げに喋り出す。
「ホリック謹製・最新改良型〈増強剤〉」
「身体能力ぐーんと上がる! 痛みも我慢できる! ついでに“正義感”もブーストされる!」
指を折って数えながら、楽しそうに。
「副作用は――」
言葉を区切り、口元だけが吊り上がった。
「“人間じゃなくなる”こと」
兵士が喉を鳴らし、ハルクの拳が震える。
レイジは続けた。
「壊れたら戻れない。心も体も、ね」
「でもさ、飲んだ本人は幸せなんだよ?」
「“みんなのために役に立てる”って思いながら、壊れていく」
わざとらしく肩をすくめる。
「美しい自己犠牲ってやつ? 国も兵士団も、そりゃあ喜ぶよねぇ」
ハルクが一歩踏み出した。
「貴様ッ……!」
怒気を孕んだ声を、レイジはひらひらと手を振って受け流す。
「違う違う。俺は作ってない作ってない」
「作ったのはホリック。飲んだのは団長さん」
「“選んだ”のは、ギルベルト自身だ」
その言葉に、兵士の顔がくしゃりと歪んだ。
「団長は……俺たちを守るって……!」
「“兵士団は、民の盾であるべきだ”って……!」
レイジはにこりと笑う。
優しげな笑みなのに、どこか凍えるほど冷たい。
「うん、だから飲んだんでしょ」
「――“正しい理由”のために」
その言い方は、つい先ほどリンカが口にしていた言葉と、酷似していた。
ファングの胸に、鈍い痛みが走る。
リンカは、壊れたチャクラムの破片を見つめながら呟いた。
「正しいなら、壊れてもいい」
「守るなら、何をしてもいい」
彼女の瞳に宿る光は、静かな諦めにも似ていた。
次の瞬間。
街の向こうから、地を割るような咆哮。
ドォン――!
瓦礫が跳ね上がり、鳥たちが一斉に飛び立つ。
巨大な影が、建物の合間で蠢いた。
ハルクは歯を食いしばる。
「ギルベルト……!」
レイジはくすりと笑った。
地鳴りが響いた。
ズシン――ズシン――。
近づくたび、石畳が震え、建物の壁が軋む。
通りの向こうに、そいつは姿を現した。
「……あれが……ギルベルト……団長……?」
誰かが掠れた声で言った。
かつて威厳ある大柄な騎士だった面影は、もうどこにもない。
皮膚は裂け、筋肉が膨張し、不自然にねじれた骨格が皮膚を内側から押し破っている。背丈は7メートル、いや8メートル近くにも達し、もはや「人の形」を留めるのも苦しげだった。
口と呼べたものからは、獣とも魔獣ともつかない咆哮。
「…………アアアアアアアアアアアア――!!」
振り下ろされた巨大な腕が、石造りの建物を容易く粉砕した。
瓦礫が宙を舞い、悲鳴が街に散る。
ハルクの顔から色が消える。
「……ギルベルト……!」
怒りでもなく、悲嘆でもなく、それは“仲間を失った”人間の声だった。
レイジは肩を揺らして笑う。
「ほらね。役に立つ立つ」
「民も守れるよ、壊しながらだけど」
挑発の言葉に、拳を握るハルク。
しかし、指揮官の顔に戻り、振り返る。
「二手に分かれる!」
短いが通る声。
「ギルベルトの足を止める部隊」
「そして――レイジ、リンカの確保だ」
ウィングが頷く。
スノーとワタル、ハウンはギルベルトへ。
もう一方へ視線が向けられる。
「ファング、サヤ、俺と来い」
ハルクの視線は鋭い。
明らかに“刺しに行く方”の組だ。
「標的はレイジとリンカ」
「どちらも手加減は不要だ。命までは奪うな……できるなら、だがな」
そこで、ほんの一瞬だけ迷いが滲む。
ハルクはファングを見た。
「……ファング」
呼びかけというより、確認だった。
「それでいいか」
妹の姿をした“何か”と戦うことになる。
誰よりも重い選択を背負わせようとしている自覚が、ハルクにはあった。
ファングは、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
握る拳が、震えている。
(迷うな)
ウィングの言葉。
(終わらせる)
ワタルの言葉。
そして――リンカの、冷たい瞳。
ファングは顔を上げた。
「……迷ってる暇なんか、ねぇよ」
その声は掠れていたが、はっきりしていた。
「やる」
「レイジも……リンカも……ここで止める」
サヤが横目で彼を見る。
その横顔は痛いほどに不器用で――それでも、前を見ていた。
ハルクは強く頷く。
「ウィング…そっちは任せたぞ」
ハルクの言葉は、短いが重かった。
任せる、というより――託す。
ウィングはひと呼吸置いてから、力強く頷いた。
「ハルクさんもどうかご無事で。」
それだけ言うと、振り返りざまにいつもの軽い笑みを無理やり貼り付ける。
「ワタルくん、スノーちゃん、ハウンちゃん! 行くぞ!」
声だけは明るい。
だが、その背中には不安も恐怖も全部抱え込んで――それでも前へ出る覚悟が宿っていた。
スノーが真剣な面持ちになる。
「……うん。任された。」
彼女の手の中で、冷気が白く揺れる。
ハウンは短く「はい」と応じ、
ワタルは剣を握り直した。
(止める……必ず)
四人は走り出す。
地鳴りの方向へ――ギルベルトのいる方へ。
ハルクはその背中を見送り、わずかに拳を握りしめる。
一方――残った三人。
ハルク、ファング、サヤは向き直る。
そこにいるのは、まだ薄く笑うレイジ。
ハルクは一歩、前へ出た。
剣を構え、地面に突き刺すように踏み込む。
空気が――震えた。
「よくも……ボンゾウを……!」
声は低く、押し殺しているのに、周囲を焼くほど熱い。
その名を口にした瞬間、
ハルクの全身から放たれる威圧が爆ぜるように膨れあがった。
圧が、地を押しつぶす。
ファングですら息を詰まらせ、
サヤはほんの一瞬だけ瞬きを忘れた。
レイジは――
「おお……」
心底、楽しそうに目を見開いた。
口元が歪み、笑みが深くなる。
「出た出た出た……! それそれ、それだよそれぇ!」
肩を震わせ、嬉々として掌を打ち合わせる。
「いいねぇハルクさん! その顔!」
「怒りも悲しみも復讐もごちゃ混ぜ! 人間らしくて最高!」
ぴたりと指を向ける。
「――それで俺を殺してくれる?」
挑発。
ハルクは一歩も動かないまま、剣先だけをわずかに下げた。
地を抉るほど重い声音で答える。
「――あぁ。殺してでも連れていくさ」
視線がレイジを射抜く。
「お前を道連れにしてでも、地獄へ叩き落とす」
言葉には怒鳴り声も飾りもない。
ただ、揺るぎない“確信”だけがあった。
レイジの笑みが、ぞくりと深くなる。
ハルクは続けた。
「俺たちが戦って、守って、繋いできたものがある」
「街だ。民だ。子どもたちの寝顔だ」
わずかに顎を上げる。
「――平和な世だ」
剣がゆっくりとレイジへ向けられた。
「そこに、お前の居場所は無い」
吐き捨てるような優しさではない。
裁くためだけの、冷たい宣告。
「人を壊して笑うだけのお前なんざ――」
ハルクの足が、石畳を踏み砕く。
「平和な世に、不要だ」
レイジは、一瞬だけ言葉を失った。
次の瞬間――
「……っははははははははッ!」
腹を抱えて笑い出した。
「いい、いいよハルクさん……最高……!」
笑いながら、頬に浮かぶ感情は歓喜ではなく、どこか歪んだ期待だった。
「連れてってよ」
腕を広げる。
「地獄でも天国でも、どこでもいい」
愉快そうに目を細める。
「――“壊れる瞬間”が見られるならさ」
砂が鳴る音。
サヤが前に出る気配を見せ、ファングが剣へ手をかける。
リンカは、まだ地面に片膝をついたままだった。
だが――もう、さっきまでの“無力化された少女”ではない。
肩が上下している。
呼吸は荒い。喉の奥でひゅう、と音が鳴る。
それでも。
空気が、微かに震えた。
(……魔力が、戻ってきてる)
サヤが瞬時に察する。
リンカの周囲に漂う空気が揺らぎ、見えない波紋のように広がっていく。
肌の内側から滲み出る魔力が、砕けたチャクラムの欠片をかすかに震わせた。
「……はぁ……はぁ……」
リンカは自分の胸元を押さえた。
肺が焼けるように痛い。
腕も脚も重い。視界の端はまだ白くちらつく。
(砂……吸い込みすぎた……)
喉がひりつき、咳がこみ上げる。
それでも、瞳だけは――濁らない。
虚無の底に、また暗い光が灯る。
「……大丈夫」
誰に向けたわけでもなく、掠れた声で呟く。
「まだ……動ける」
折れかけた膝に力がこもる。
ぎし、と筋肉が悲鳴を上げても、リンカは立ち上がった。
足元に、砕けたチャクラムの破片。
ちらり、とそれを見下ろす。
瞼がゆっくり瞬いた。
悲しみでも、怒りでもない。
ただ――何かが静かに切り離されていくような目。
「これなら…」
淡々とした声。
自分自身に言い聞かせるようでもあり、何も感じていないようでもあった。
その横顔に、ファングの拳が無意識に震える。
サヤは表情を変えないまま、指先に砂を集め始めた。
レイジがひゅう、と口笛を鳴らす。
「立った立った。えらいえらい」
まるで子どもを褒めるような口調。
「さすがだよリンカちゃん。まだまだ“使える”」
その言葉に、ほんの一瞬だけリンカの睫毛が揺れた。
だが、何も言わない。
ただ前を見ている。
レイジと、ハルクたちの方を。
空気が張り詰める。
砂が鳴る。剣が鳴る。靴底が石畳を噛む音が静かに重なる。
三人の戦士と――二人の災厄。
ハルクは小さく息を吸い込んだ。
目だけでファングとサヤを見やる。
迷いも、恐れも、全部まとめて呑み込んだ戦いの目。
そして――顎を、ほんのわずかに下げた。
それは言葉にしない合図。
行け。
次の瞬間、ハルクの声が轟いた。
「――かかれ!!」





