第20話 メジロの訪問
鼻をスンとすすった。
吸い込んだ匂いは、海のそれだった。
次は、路線を走る電車の音。あとは――遠くで波の音がした。カモメも鳴いている。頬を撫でる生温い風と、誰かの体温と重さに頭が動き出す。
そうして、海面から徐々に浮上するように、眠っていた意識が現実へと引き戻されていった。
瞼の裏でも感じる。この熱は太陽だ。どうらや、辺りは快晴らしい。それがまた心地良くて、まだもう少し、と、目を閉じたまま、海の匂いと夏っぽい音に耳を澄ます。
この調子だと、三つ目の駅も通り過ぎたかもしれない。だったら、次の駅で降りて、海岸へ足を伸ばしてみるのも悪くない。
砂浜があるのなら、賑やかな海の家も期待してしまう。
焼きそば、イカ焼き――赤いシロップに練乳をかけたカキ氷も欲しい。
水着に着替えた桃子が、はにかんで、なかなか砂浜に現れないから、「早く来いよ」と、ぶっきらぼうに叫んでみたりする俺。
ラストにやってくる夕焼けのキスシーンまで、演出たっぷりロマンス満載じゃないか。
「うわあ――めっちゃ楽しそう……」
俺しか得しない脳内映像に引きずられ、だらしない声が口から漏れた。
目をつぶったまま、妄想に心を踊らせる。到底、人様にお見せできないニヤけ顔が、トーストに垂らした蜂蜜みたいに広がっていく。
「気持ちの悪い奴」
突然、降って湧いた子供の声に、息が止まった。もたげていた頭を秒で起こし、目をひんむいて正面を見る。
目の前に座っていたのは、イビキをかいていた老婆ではなく、見知らぬ奇妙な幼女だった。歳の頃は、小学校の低学年くらいだろうか。
絵具で塗りつぶしたような白い肌が目を引き、温室育ち、という言葉が浮かんだ。かぼそい裸足の小さな足には、ギリシャ神話の神々を彷彿させる革のサンダル。そして、涼しげな足元とは反対に、日焼けでも嫌っているのか、指まで覆うような長袖を着ている。
無地のワンピースは深い緑色。子供の頃、よく家のベランダに飛んできたメジロを思い出させた。雪葉と父さんが二人で餌箱と止まり木を用意し、メジロの訪問を楽しみにしていた。
話を戻そう。
おかっぱ頭も、ちょっと変わっている。目の上で、ぱっつんと切りそろえられた前髪。病気なのか、遺伝なのか。青みがかった黒髪は、メッシュを入れたように白髪が混在している。
あと、この娘の瞳。異様に引き付けられる。俺を見据えている三白眼の黒目は、光の加減もあって、赤みが強く、水に濡れたビー玉のようにヌルヌルして見えた。
ついでに言うなら、幼女は意外とおしゃべりだった。
「お前、目を瞑ったまま、随分とニヤニヤしていたな。隣の女のことでも考えながら、イヤらしいことでも妄想していたのだろう? ああ、勘違いするな。オレは別に、童貞を批判しているわけではない」
今は笑うどころか、俺は静止画像のように、完全に脳も肉体も活動を停止していた。
どこから突っ込めば良いのだ――誰か教えてくれないか。
幼女は無表情だが、小気味よく話し続ける。
「おい、どうした? 口が聞けなくなったのか? まったく……良い女を前にすると、童貞というものは、物言わぬ人形のようになってしまう。困ったものだな」
言い終わると、幼女は俺を凝視したまま、呆れたように首を横にゆっくりと振った。
童貞、童貞、って二度も言った。なんて感じ悪い子供。つまり――親の顔が見たいわ! などと胸中で怒鳴り散らして、ふと、気づいたことがある。
車両に、乗客の気配を一切感じないのだ。
ひょいと首を伸ばし、前後に頭を振って通路を見渡したが、隣の車両にも人影はない。まあ、最悪の事態ではないことは確か。隣には、桃子が俺にもたれかかったまま、穏やかな寝息をたてているからだ。
寝ている間に、乗客は全員、どこか手前の駅で降りただけかもしれない。
「この列車に他の乗客はいないよ。静かで結構なことじゃないか」
生意気そうな幼女は、ツンとすまし顔で、まことしやかに言った。
「でも、穏やかじゃないよな……」
ぼやくように、自然と声が出る。
「なんだ、お前。ちゃんと話せるじゃないか」
くひひひ、と小さく肩を震わせて、幼女が笑った。
こんな笑い方する幼女は嫌だ。の典型じゃないか。
ニュータイプの座敷童じゃあるまいし、怪しいことこの上ない。
得体の知れない幼女に危機感が募り、寝ている桃子の背中に片腕を回す。抱き寄せた桃子から、なんだか良い香りがする。と言って、小鼻を膨らませている場合でもない。
「まあ落ち着け。オレは次の駅で降りる。それまで、お前の話につきあってやらんでもない」
幼女は淡々としていて、しかも、とても偉そうである。
それにしても、女の子の一人称が「オレ」というのは、いかがなものか。ジェンダーレスの時代と言っても、違和感が半端ないです。いわゆる、『僕っ子』と同じ系統なのかもしれない。
と、心の中でもやもやと考えていると。
「オレはオレだ」と、幼女は溜息まじりに言った。
俺は眉間を寄せ、人差し指を一本立てた。
「おい……ちょっと待て」
思春期の男子にとって、心の内を丸裸にしてしまうエスパーは最悪だ。
片眉を上げ、ゆっくりと言葉を継いだ。
「まさか今……俺の心の中を……読んだのか?」
幼女は面倒くさそうな顔を向け、「違う」と言って、俺の立てた人差し指を軽く叩いた。
「お前が、そう聞きたそうだったから答えたまで」
「ならいいけど……」
「安堵している場合ではない。時間は無限ではないぞ」
幼女は自分の言葉に納得するように、小さく偉そうに頷いた。
唐突な登場の仕方に、この風貌。
やはり、何かがおかしい。
「どうした? 何を一人で悶絶している」
幼女はすました顔で、俺をじっと見ている。そんな幼女の顔を見ていると、俺は、ある一つの考えに到達した。
もしかして、神だったりしない? ここは俺が生きる日本ではないが、別の空間だとしても、日本式に考えれるならば、神羅万象に神が存在する、ということになる。
八百万の神がいるなら、一人くらい、こういう自由な神がいたとしても不思議ではない。むしろ、この幼女がただの人だとしたら、その方が驚きである。
つまり、雅次郎たちが話していた、あの都市伝説の神を、俺は引き寄せてしまったのかもしれない。
座敷童の可能性もあるにしろ、とんでもない奇跡が、白けた目つきで俺を見ている。
「お、お尋ねしたいのだが……」
もしかしたら、神様? と思うと、無駄に声が震えてしまう。
しかし、急に敬語になったことにも、幼女は表情を変えず、落ち着き払っている。
「もうすぐ駅に到着する。オレに聞きたいことがあるなら、早く話した方がいい。後で後悔しないように」
そう言って小さく頷いた幼女は、老齢の仙人のような、どこか達観した空気を纏っている。
「貴方様は、その、いわゆる、なんと言いますか……」
俺は笑顔を引きつらせながら、幼女に次の言葉を期待し、口をパクパクさせた。
ここは察して、自分から「神だけど、何か?」と答えて欲しかった。
しかし。
「お前、変だぞ。金魚じゃあるまいし。どうした?」
期待したものとは違って、なんとも素っ気ないリアクション。冷や水をぶっかけられ、膨張していた熱がすっかり冷めてしまったようだ。
かなりの変わり者ではあるが、嘘のない利口そうな良い子に見える。
そうだ。俺は、楽に稼げるという架空の儲け話に、ついついスケベ心を出してしまった、ということだ。
そもそも、神など信じない、とあれほど強気だったくせに。勝手に幼女を神だと勘違いし、しかも、ラッキーだと思ってしまった。不甲斐ない、というか、情けない気持ちで一杯になる。
「オレに何か聞こうとしていたようだが?」
黙り込んだ俺に、幼女が目を細めて言った。
「ああ……それはもう、いいんだ。うん――それよりさ、まだ、自己紹介してなかったよね」
苦笑して誤魔化すしかない。コロコロと態度を変える自分もまた、恥ずかしいものである。
「ふうん。まあいいだろう」
幼女がクイっと顎を上げると、白髪のまじった、ぱっつん前髪が揺れた。
「俺の名前は星青葉。高校二年生で、色々とモヤモヤしています」
俺は馬鹿みたいに快活に、雑な自己紹介を行った。
「モヤモヤね」
興味なさそうな反応が相まって、人ではなく、ますます美しく精巧なビスクドールと向かい合っているようだ。さぞや綺麗な母親と、同等クラスのイケメンパパがいるに違いない。
「で、お嬢さんの名前は?」
「たまゆら」
「へえ、どんな漢字?」
俺は眉を上げた。無表情な割に、ずいぶんとキラキラネームだったから。
「ぎょくの『玉』に、ひびくの『響』で、玉響だ」
「かっけえなあ」
本気でそう思った俺は、続けて「いいじゃん」と、言って頷いた。
「まあな」
まんざらでもないようで、幼女は俯きがちに、ちょっとだけはにかんだ。そして、表情を引き締め、顔を上げた。
「これも何かの縁だ。ここはひとつ、占ってやろう」
「占いかあ――どうしようかなあ」
正直、占いは苦手だ。
「どんなことでも占うよ。オレは、一度たりとも外したことはない」
「へえ……外さないんだ」
それは占いではなく、予知じゃないのか? 急に目の下がピクついて、薄ら笑いが引きつる。
「百発百中だ。さて、お前は何を知りたい?」
「俺はいいや」
「嘘つけ。何かあるだろ」
「勝手に決めつけんなよ」
ビー玉みたいな目が、俺の一挙一同を見ていると思うと、落ち着かなくてソッポを向いた。
それに、嘘か真実かなんて、どうやって見極められる? 気軽に他人から未来を予測されても困る。
「どちらの手でも良い。出してみろ」
玉響は、右の手のひらを上にして、俺に突き出してきた。
その手を触ってはいけない気がして、咄嗟に桃子を抱える手とは反対の、空いている方の左手を腰の後ろに隠した。
「難儀なやつ」
と言って、玉響は鼻で笑った。




