第19話 ボックスシート
乗り込んだ電車は、ボックスシート、というのだろうか。二人掛けの座席が向かい合わせになっていて、シートは目が覚めるような青色だ。
「そこ、座ろうよ」
俺は、入り口近くに空いていた座席を指さした。
近づいてみると、小柄な老婆が居心地良さげに眠り込んでいる。
「起こさなくて大丈夫かな?」
桃子が心配そうに、俺の耳元で囁いた。
「まあ、いいんじゃないの」
気持ちよさそうに寝ているので、そのままにしておくことにした。
「じゃあ、私、窓側。いい?」
「どうぞ」
眠りこけた老婆の向かい席に、俺たちは隣り合わせに座った。
座って気づいたのだが、シートの肌割りが良い。物珍しくて「なんだこれ」と言いながら、指先で短い毛並みを確かめていた。
「何してるの?」
桃子に聞かれた。
妙な誤解をされる前に、俺は、すぐにシートを撫でる手を止めた。別に、桃子の太腿に手を伸ばそうと、画策していたわけではない。
「いやね、気持ち良いなあ……と思って」
「変なの」
桃子が小さく笑うのと同時に、出発のベルが、けたたましく鳴った。
すると、窓際に座っていた桃子が、すくっと立ち上がった。
「暑いからねえ」
と言って、桃子は加速し始めた電車の揺れにバランスをとりながら、車窓の方を向き仁王立ちしている。
よく見ると、車窓は一枚ではなく、窓の真ん中辺りで上下二枚に分かれていた。
桃子は両手を広げ、その分かれ目の左右にある、金属のレバーのようなものをカチンと鳴らした。ちょうど、ロックされていた鍵を解除した、という感じだ。
次は、窓枠の一番下に手を移動し、「よいっしょ」と力んだ声と一緒に、両手で窓を重そうに持ち上げてしまった。
途端に、ぬるい風が吹き込んできて、目玉を撫でていった。
「おお」
俺は目を瞬かせながら、思わず声をもらした。
「ね? オープンカーに乗ってるみたいでしょ」
振り返った桃子が、歯を見せて笑った。
それから、しばらくの間、二人は仲良く並んで、何を話すでもなく、ただ静かに行儀良く座っていた。
俺と桃子の体の間に数センチばかりの隙間を保ったまま、俺は、目の前で爆睡している老婆を凝視している。
何故なら、車窓からの殺風景な景色に顔を向ければ、頬で風を受けながら、うっとしている桃子の横顔が視界に入ってくるからだ。
しかも、吹き込んでくる風に桃子の髪が無秩序に揺れて、時折、俺の顔を雑に撫でたりする。そのたびに、俺は鼻をふくらませていた。
さて、四つ目の駅まで、何を話せば良いのやら。
公園のベンチで話したことと言えば、どれもこれも、どうでも良い話だった。
雅次郎の悪口に始まり、海斗の胡散臭さに疑問を呈してみたり。つまりは、知り合いネタのオンパレード。我ながら、面白おかしく話せた自負はある。
どんな話でも、桃子が笑って聞いてくれるものだから、つい調子に乗ってしまった。一同が顔を会わせる前に、桃子が抱いている二人の偏ったイメージを調整する必要がありそうだ。
ついでに、イビキをかき始めた老婆を見て、声を殺して俺は失笑した。
すると、「次はアオタくん」と、鈴が鳴るような声で桃子が言った。
「ん?」
横を向けば、桃子が窓枠に両手を置いたまま、肩越しに俺を見て微笑んでいる。
「次って、何を?」
「聞いてなかったの?」
桃子が不服そうに、口を尖らせた。
彼女の背後には、流れるように緑色が走っている。
全く関係ないが、ああ、綺麗だな、と思った。
「ごめん。何かやってた? 全然気づかなかった」
桃子は元の姿勢に戻すと、真っ青なシートに背をあずけた。
「窓の外に向かって叫んだの。神様、私はここよーって」
「……なんでまた?」
「気づいてくれるかもしれないでしょ。だから、アオタくんも叫んで欲しいな」
「いやいや、やらないよ」
苦笑する俺に、桃子が外人みたいに肩をすくめた。
「私、少し勘違いしてたのかなあ」
「どういう意味?」
聞き捨てならんな。
俺は、眉根をぎゅっと寄せた。
「アオタくんって、もっと自由人なのかと思ってた」
それは君ではないのか、と俺は問いたい。
「とにかく、俺は、やらない」
桃子から視線を外して、きっぱりと断った。
「そんなこと言わないで、やってみようよ」
「良い子はね、窓から頭を出したりしないんだよ。危ないだろ?」
どこを切り取っても、俺の方が正論だ。
目線だけで周囲を見渡してみると、まばらとは言え、それなりに乗客はいる。
窓から顔を出すという危険行為に加え、他の乗客がいる前で大声を出すなんて荒唐無稽なお願いを、俺が聞き入れるはずがない。
だが、桃子は両目を輝かせ、食い下がってくる。
「勇気を出して! さあ、一歩、踏み出してみよう!」
面白がっているとしか思えない。
本当に困ったお嬢さんである。
「マジか」
「マジです。お願いします、先生!」
何故だか、従う方向に向かっていく。
こんなに、俺の体は全身で拒否しているというのに。
ぶつくさと文句を言っている割に、俺は素直に桃子と席を変わるというね。
窓の外に顔を近づけると、想定外の体感速度に、思いっきり腰が引けた。
それでも、恐る恐る、ほんの少しだけ指先を伸ばしてみる。
「うわっ、なにこれ!」
線路脇に並ぶ木々や、電線のある鉄塔が視界に入り、腕ごと持っていかれる想像が働いたのだ。
背筋が冷やっとして、俺は、すぐに指を引っ込める。
「風、強すぎ。無理です」
振り向き様に、桃子に抗議した。
「うーん」
あからさまに残念がる桃子の顔には、「お前、ヘタレだなあ」と言いたげだ。
「お手本、見たい?」
窓から顔を出して、はりきって叫ぶ彼女の姿を想像し、俺は首を横に激しく振った。
桃子は小首をかしげ、つまんなそうに足を組むと、白いワンピースから覗く膝下をブラブラさせながら言った。
「しようがないか……じゃあ、顔は出さなくてもいいから、神様は呼んでくれる? 叫ぶことで、私たちの意思と居場所を知らせるために。ね?」
あれ、おかしいな。
なんだかやれそうな気がする。
俺は何の疑問も持たずに、コクリと頷いた。
彼女の表情は明るく晴れ上がり、顔の前で両手をパチンと叩いた。
「よし、お腹から声を出していこう!」
桃子監督に見守られながら、俺は覚悟を決め、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。腹いっぱいに酸素が溜まったところでた、一気に窓枠に口を近づける。
向かってくる強い風にも負けず、俺は口を大きく開いた。
「おーい! 神さまああああ! お前に会いたいぞー! バッチコーイ!」
カラオケもそうだが、大声で叫ぶと気持ちが良いものだ。
桃子に振り返る。
「どうよ」
「うん、アオタくん、すごい! 神様にも、きっと伝わったと思うな」
それはないとして――ボックスシートのあちこちで、クスクスと忍び笑いが聞こえてくる。
羞恥心に火がつき、顔を真っ赤にしているところへ、急に肩が少し重くなった。
その感触に鼓動が跳ね上がり、身じろぎもせずに、俺は固唾を飲んだ。
どうしてだか、桃子が猫みたいに、俺の肩にもたれかかっているのだ。
意中の女子から、想定外のスキンシップを図られたら、誰だって心が震えるものだろう。
俺もその一人で、今、銅像のように全身が硬直している。ゆっくり視線を落としてみると、桃子の後頭部を覆う、水分たっぷりの艶やかな黒髪があった。
これが天使の輪、というものか。
抜群のタイミングで、桃子は少し顎を上げ、俺と目を合わせた。強張った俺の顔を、上目遣いに見ているのは、ちょっとズルい。
「少し眠ってもいい?」
なんでだよ、と言いそうになるが、グッと飲み込んだ。
「……いいけど」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「神様が来たら、ちゃんと教えてね」
そう言って、桃子は微笑んだ。
「了解っす」
俺は胸の中で、四つ目の駅で降りる時に教えますよ、と意地悪に呟いた。
「アオタくん……それからね」
桃子は顎を引いて、すうと目を伏せた。
「うん」
俺はよそ見をしながら、適当に答えた。今の体勢は、どうもバカップルのようで、気が引ける、というか、尻の辺りがゾワゾワして落ち着かないのだ。
「実はね」
妙に神妙な桃子も気にはなるが、この甘えん坊をこのままにしておいて良いのか、と俺は思案を巡らせる。
「うん」
気の抜けた相槌を打ちながら、通路を挟んだボックスシートに視線を走らせる。読みかけの本を膝に置いたまま、うつらうつらと居眠りし始めた若い女性が一人だけだった。
「……ごめんなさい」
俺は桃子を二度見した。
「本当はね、私、叫んでないの」
うつむいたまま、桃子は顔を上げようとしない。
「どういうこと……」
「私も叫ぼうと思ったんだけど……やっぱり、ちょっと恥ずかしくて、出来ませんでした」
桃子は自分で言って、クスっと笑った。
いや、俺も恥ずかしかったのですが?
聞き間違いかと思って、桃子の顔を覗き込んだ。
「えっと、つまり……電車の中で叫んだのは俺だけ、ってことで合ってる?」
桃子は「合ってる」と蚊の鳴くような声で答えた。しかも、体が小刻みに震えている。
「ちょ、ちょっと。ねえ、なに笑ってんの」
肩を軽く揺らしても、桃子は顔を必死に隠している。
「ねえ、起きてよ」
もう一度、ぶうたれてみる。
すると。
「もう、寝てますよ」
狸寝入りを決め込んだ桃子が、囁くように答えた。
俺は眉を寄せ、目を細めて桃子を見下ろす。俯瞰から見える桃子の長い睫毛の先が、ぶるぶると震えている。
間違いなく、彼女は笑いを我慢しているのだ。
「してやられたわ」
と、まあ、一応、悔しそうに呟いておいた。実のところ、俺の頬はゆるんでしまって、これ以上の小言も文句も浮かんでこなかった。
叶うならば、桃子と一緒に声をあげて、豪快に笑いたいくらいだった。




