第15話 ノープラン
楽しく談笑しているところへ、ギュルルルルー、と俺の意思とは関係なく、腹の虫が無作法に鳴りやがった。
桃子は笑いを押し殺しながら、眩しそうに目を細めて微笑んだ。
「お腹、空いているの?」
「まあ……ちょっとね」
赤面している間に、天啓のようにナイスな案が降りてきたものだから、俺は勢いよく立ち上がり、恥ずかしいくらい陽気な声を出してしまう。
「そうだ、メシだよ、メシ!」
食事をする。
いたってシンプルな成り行きではないか。
ノープランの二人にとって、次の行動として考慮すれば、至極真っ当であり、かつ最適な妙案と言えよう。
しかも、木立の中は比較的過ごしやすいとは言え、涼しかったのは最初だけ。当然と言えば当然だが、外は暑いに決まっている。
どおりで、誰もいないわけだ。
神の采配でもなんでもない。
俄然、この思いつきが、神がかったものに思えてくる。
「クーラーの効いた場所でさ、腹を満たす。最高じゃない? どうよこれ?」
実際、軍資金は十分ある。
金のことを心配する必要がない、というだけで、これほど心に余裕を蓄えられるとは知らなかった。
「どっか知らない?」
桃子は軽く握ったこぶしを口元に当てながら、難しい顔をしていたが「あ、そうだ」と言って眉を上げた。
「隣町でもいい? 最近、ファミレスが出来たんだって」
隣町と言えば、映画館もあるよな、と声に出そうになったが、そこはグッと飲み込んだ。
「へえ」
俺だけが知り得る記憶など、今の彼女の前では、何の意味も持たないわけで。
「遠いかな?」
「いいじゃん。そこにしよう」
ひとまず、桃子のふわっとした提案に乗ることにした。
本人曰く「場所は行けば、なんとなく分かると思う」だった。全くもって、ふわふわした話である。
記憶を思い起こせば、隣町と言っても、電車で十五分は乗っていたはず。彼女の言う捜索範囲は、結構広いと思われる。
「グーグル先生がいてくれたら……」
しみじみと念のこもった心の声が、ポロリと口をついて出てしまった。
「え? アオタくんの先生って、外人さんなの?」
面白いこと言うな。
あながち間違いでもない。
「まあ、そんな感じかな。先生はさ、すごーく優秀なんだ。分からないことを聞けば、どんな質問でも、必ず答えてくれるんだぜ。先生と一緒なら、道に迷うことはない、と言っても過言ではない」
桃子は目を丸くして、俺の話に感心しているようで、何度も頷いた。
「先生と一緒なら迷うことはない、か……深いわね」
大袈裟だな、とちょっと吹き出しそうになった。
ところが、これが大袈裟でもなんでもなく、とんでもなく大変な目に合うとは、この時点では、これっぽっちも考えが及んでいなかった。
『隣町に出来た新店のファミレス』は、悪くないアイデアだ。ばったり、あの男に出くわす確率も下がるに違いない。
早速、休憩所を離れ、木立の中を突き抜け、一番近くにある公道に向かった。
財布に厚みがあると、電車で移動する、という選択肢は消えるものである。全ての辻褄が合うように、車道の端に立ったところで、すぐに流しのタクシーを捕まえることが出来た。
そこまでは良かった。
タクシーにナビは搭載されていないし、桃子はファミレスの住所も行き方も知らないものだから、乗ったはいいが、どこに行けばいいのやら、ドライバーの頭を悩ませていた。
要領を得ない桃子のナビゲートでは、どこにも辿り着けそうにない。
「駅の近くに繁華街があるんで、そこでどうです?」
バックミラー越しに、ドライバーと目が合った。疲れ切った両目が、「ここらで手打ちにしましょうや」と語っている。
根は小市民なもので、どんどん跳ね上がる料金も気になっていたところだ。
「降りて探そうか?」
後部座席の窓から、必死にファミレスを探し続ける桃子に、そっと声を掛けた。
振り向いた桃子の顔は、不安そうでもなく、落ち込んでいるでもなく、むしろ楽しそうだ。
「うん。歩けば分かるかも」
本当かよ。
そう思っても、彼女にそんな愚問を呈することはない。
嬉しそうに、楽しそうに笑ってくれているなら、俺も自然と頬が緩んでくるのだから、フィフティフィフティである。
それから三分も経たないうちに、ドライバーの言う繁華街の入り口とやらで、車は停車した。
釣り銭を受け取りながら、「ありがとうございました」とペコリと頭を下げた。
逃げるように去っていくタクシーも見えなくなり、今度は二人で歩いて探すわけだが。
「ここ、どこよ……」
かつて、桃子と映画を見にきた同じ街とは思えない風景が、目の前に広がっている。高校生には早すぎる場末臭がした。
「どこだろうね」
と言って、桃子はクスっと笑った。
笑っていい場面なのか、俺には分からん。
みかじめ料を集金に来た怖そうな人に会ったりしない?
風俗店とかありそうじゃない?
大きめの商店街くらいで、道幅はギリギリ車二台分といったところか。通りの両サイドには、飲食店らしき店が軒を連ねている。夜ともなれば、ネオンサインに火が灯り、猥雑で賑やかな情景に変わるのだろう。
今は昼時のせいか、店は閉まり、死んだようにひっそりとしている。夜の帳が降りるのを、息をひそめて待っているように見えた。
他の道を探そうと思った矢先、桃子が囁くように言った。
「私、あの人に聞いてみる」
「は?」
彼女の視線の先には、通りの真ん中辺りに、ひょろっと背が高く、骨格から若い感じのする男がいた。外に置かれていた重そうなビールケースを、一人で店の中に運んでいる。
恐れ知らずの桃子が「ラッキー!」と小さく叫んで、「おい、ちょっと待て!」と言う俺の制止も聞かずに、男の方へ走り寄っていった。
見ず知らずの飲み屋の男に、軽々しく駆け寄っていく女子高生の後を、俺は慌てて追いかける。
「こんにちは」
ケースを持ち上げようとした男の背中に、桃子が朗らかに声を掛けた。
追いついた俺は「行こう」と、桃子の手をすくい上げ、すぐにその場を立ち去ろうとしたが。
若い女の声に反応して、男が少し驚いた横顔を覗かせた。
「どうも」
男は不思議そうに、俺たちの顔を交互に見た後、にっこりと微笑んだ。ビールケースから両手を離し、細い体を起こすと、エプロンで両手を拭きながら首を傾げた。
「学生さん? 道でも迷った?」
「そうなんです。聞いてもいいですか?」
桃子は堂々としたもので、見知らぬバーの店員らしき男に、ハキハキとした物言いをする。
「もちろん」
男は爽やかに笑んだ。
「この辺りにファミレスありませんか? 最近、オープンしたはずなんですけど」
「あるよ。ここから、そう遠くない」
男には目を引く美点も難点もなく、これといった特徴がない顔立ちだ。
「そっか、探していたのはファミレスか」
個性もない。
ただ、糸目の男は終始にこやかで、声音も、その笑顔と同じくらい優しい。
俺から言わせれば、一見、人畜無害な風貌で、常に笑顔を張り付かせたような男は信用に値しないものだ。
「どこを探していると思ったんですか?」
なのに、桃子は控えめに笑ったりして、ずいぶんと短時間で距離を縮めている。
「てっきり、君たちも都市伝説に釣られて来たのかなあ、って思ってね」
「都市伝説って」
「聞いたことない?」
「あります! うちの学校でも、ちょっとした噂になってますから」
桃子が嬉々として、目を輝かせている。
今朝、行ってきたポートレートカフェで、雅次郎が安田に聞いていた話だろう。あの時、二人の話を聞かずに退席するんじゃなかった。またしても、話に入っていけない。
この男と桃子は、偶然湧いた共通の話題に、まさに話に花が開いたらしく、意気投合中である。
「どうやら、噂の震源地はこの辺りらしいんだよね」
「それは知らなかったなあ」
「この先に四角があるんだけど、そこを左に曲がって、しばらく行くと駅が見てくる。そこから電車に乗るとね、まれに、だけど、神様に会える駅に着くらしいよ」
そもそも、俺の人生の中で、都市伝説だとか、学校で人気の怪談なんて聞いたことも話したこともない。俺に友人がいなかったから、とか、そういう話ではなく、怪談が生まれそうな放課後には、子供たちはもう学校にいないからだ。怪奇現象が起きる前に、塾へ行くものだ。
あれだけ科学が発達した世界に暮らしていれば、視認できないものを信じろというのが無理な話だ。
そう言う訳で、何でも願いを叶えてくれる、自分ご都合主義の神など、全く信じてはいない。
しかし、夏休みの自由研究として『神様の足跡を辿ってみる』ことには興味がある。だからと言って、ヘラヘラ笑って、今更、二人の会話に入っていくつもりは毛頭ない。
「君、信じてなそうだね」
突然、男が俺に話を振ってきた。
一体、何が可笑しいのか、クスクスと笑っているのが癇に障る。
「眉唾ものだよね」
かろうじて、舌打ちしたくなる気持ちを抑えた。
「はあ……」
そこへ間髪入れずに、桃子が今日一番の可愛い笑顔を、俺のすぐ鼻先まで近づけてきた。
近すぎて、正視不可能である。
「アオタくん、面白そうな話じゃない?」
キスまで、あともう3センチくらいか。
想定外の近い距離に、俺は頬が熱くなってくるのを感じながら、反射的に少しだけ首を後ろに引いた。
「お、面白いっちゃ、面白いと思うけど……会いに、行ってみる? 神様に」
心にもない無責任なことを、つい口走ってしまった。興味はあるとは言ったが、どう考えても面倒くさそうだ。
同時に、すぐ目の前にある桃子の表情が、一層明るくなったのが分かった。娘におねだりされて、つい物を買い与えてしまう甘々の父親の心情が、今ならよく理解できる気がする。
「いいの? アオタくん、一緒に探してくれるの?」
いるわけないじゃん。と言えるはずもない。
「いいよ。行ってみるか」
不純物の塊のような俺は、彼女の笑顔を守るために快諾せざるを得なかった。




