第14話 甲斐性なしの話
「はい、どうぞ」
陽気な声に瞼を上げてみれば、彼女は善意の塊を目に宿し、天使のごとく微笑んでいる。
俺は問いたい。
何故、水を手で汲んできたのか、と。
公園の奥には、涼やかな木陰が心地よい休憩スペースが設けられているというのに。
俺の記憶が正しければ、地面に固定された大きな六角形の頑丈そうな木のテーブルと、その周囲をぐるりと囲んだ椅子まである。すぐそばには、公共トイレと手洗い場、そして水飲み場もあった。
ついでに、自販機も一台あったはずだ。
なのに、彼女は汗をかきながら、両手で水を汲んできている。
彼女の行動原理は、優しさと気遣いで出来ていると言っていい。故に、疑問を持つこと自体が、背徳行為のように思えて何も言えなくなるから困る。
とは言え、女の子の手から水を飲むなんていう羞恥プレイは、十代の俺にはハードルが高すぎるというもの。
「早く早く! 無くなっちゃうよ!」
指の隙間から彼女の好意が、少しずつこぼれていく。天使が運んできた命の水にイチャモンをつけるとは、俺も相当な罰当たりだ。
覚悟を決めよう。
唇が桃子の指に当たらないよう細心の注意を払いながら、差し出された手のひらに顔を近づけた。
洗面器に顔をつっこむつもりで、桃子の手のひらから僅かな水を吸い込んだ。
最初に唇が潤い、次は喉を伝って、最後は腹に水が沁み渡るのを感じた。
恐る恐る、もう一度、視線を上げると、水滴がしたたる桃子の両手が、急に頬に伸びてきた。恥じらう間もなく、まあまあ圧を感じるアッチョンブリケである。
「ね、気持ちいいでしょ?」
顔を挟まれ全力のキス待ち顔にされていても、彼女への感謝の意を俺は忘れない。
「ハイコウレス」
「でしょう? 良かった!」
桃子は俺の顔が面白かったのか、いやに楽しそうに笑いながら、そっと顔から手を離した。
時間がすごく、ゆっくりと動いている。濡れた頬に風が吹いてきて、冷んやりと心地よい。自然と瞼が閉じてきて、うっとりとした気分に浸ってみる。
たった一口の水が功を制している、と言っていいかもしれない。
スポイドから水を一滴、砂漠に落とした程度の量だと侮っていたが、ぼんやりしていた頭が正常に回りだしたのだ。
頭の中の霧が晴れていくと、そこには絶景が待っていた。
視線の先、すぐ目の前に、傷ひとつない桃子の綺麗な膝小僧があった。無自覚なスカートの裾が風に揺れている。海中に漂うくらげみたいに動くものだから、目が釘付けになり言葉を飲み込んだ。
「青葉くん、行きてる?」
「うん、生き返った」
俺は真顔で答えた。
桃子は肩まである黒髪を片手で押さえながら「ちょっと休憩」と言って、俺に寄り添うように、雑に座り込んできた。
目の前に何もなくなって、やっと自覚した。スカートの裾などに、気を取られている場合ではなかった。
俺のポジションから、公園の外まで見通せるということは、向こうからも俺たちが見える。ということだ。
「移動しますかね」
酸欠と疲労で重くなっていた腰を上げ、立ち上がった。
「やっぱ、あっちいなあ」
ズボンについた砂を叩きながら、頭のてっぺんから刺してくる日差しに目を細めた。
「うん、暑いねえ」
桃子が言った。
だが、なかなか立ち上がらない。
しばらく空を見上げたまま、彼女を待っていた。若干、焦りを感じ始めていた俺は振り返って、座り込んだ彼女に顔を向けた。
ほんの二秒ほど見つめ合ってしまった。
俺は慌てて、わざとらしくない程度に、休憩所の方角に視線を変えた。
「あっちに休憩所、あった、よな? 確か」
「休憩所」
「そう、休憩所。何か飲もうよ」
姿も隠せて、ジュースも飲める。今の俺たちにとって、最高の場所のはずだ。
最後にもう一度、通ってきた公園沿いの道に、あの男の影はないか目を凝らしてみる。追手の姿はない。
それにしても、桃子は座り込んだまま、一向に動こうとしない。
「どうしたの?」
暑さにやられたか? 見る限り、桃子の顔色は悪くない。
常時三十度越えの夏を毎年経験している俺から言わせてもらえば、湿気の鬱陶しさはあるものの、耐えられないほどではない。
桃子は頬をふくらませ、何故か不服そうだ。
「ほれ」
不思議そうに俺を見上げる桃子に、腕を伸ばした。
桃子は少し考えるようにして、俺の手を掴むと、仕方なそうに立ち上がった。
触れた桃子の肌は、汗でペタペタと湿っていた。その感触は一気に心臓まで到達し、鼓動は今日一に跳ね上がった。
瞬時に、桃子から手を放した。
「行こうか」
桃子は、ただ黙って頷いた。
女の子が考えることは、俺にはよく分からない。
ペンキの剥げかかった遊具のトンネル横を通り過ぎる時、かつての記憶が浮き上がってきて、そのまま口に出てしまった。
「入ってみる?」
桃子はきょとんとした顔を俺に向けて、すぐにプッと吹き出した。
「案外、子供っぽいこと言うんだね」
いやいやいやいやいや。それをあなたが言いますか、と問いただしたいところだが、あの時とは違う状況であることを、俺自身が自覚すべきなのだ。
悲しいかな、彼女は俺とのことは何も覚えていない。過度な期待はするべきではない、ともう一度、自分に言い聞かせた。
さて、休憩所に来てみると、不思議なほどに、ここにも人がいない。やはり、誰かの采配が働いているのじゃないか、と勘ぐってしまいたくなる。
「やっぱ、あるじゃん」
記憶に間違いはなく、木陰に守られた六角形のテーブルも椅子も、そして自販機も存在した。
早速、俺は駆け寄った。
振り返って、桃子に尋ねる俺の声は弾んでいる。
「何飲む?」
パンツのポケットから財布を取り出し、百円玉を探していると返事がないので、財布に突っ込んだ手を止めた。
もう一度、俺は振り返った。
「どうかした?」
桃子はそっぽを向き、何故だか恥ずかしそうに立っている。
「うん……」
歯切れが悪い上に、俺と目を合わせようともしない。
そこで、俺はピンときて、すぐ近くにある真四角の白い建物を指差した。
「トイレ? すぐそこにあるよ」
すると桃子の顔は曇り、上目遣いに俺をチラッとみて、一瞬、睨んだ。
「なに? 怖いの? ついていこうか?」
「もう……そうじゃなくてえ」
今度は泣きそうな顔をしている。
一体、どうしたというのだ。俺は妙な感じがして、遠巻きに立っていた桃子に近づいて、顔を覗き込んだ。
「気分が悪い、とか? あ、もしかして、俺、なんか変なこと言っちゃった?」
桃子は俺から目をそらしたまま、ぽつりぽつりと呟くように言った。
「急だったから……その、お金、持ってないの……なのに、アオタくんに、ジュースを買ってもらうなんて悪いよ……」
手のひらに水を貯めてきた理由を、俺は今やっと理解した。これが世間で言うところの、甲斐性なしというやつだ。
「そういうことか」
やっと状況を理解した俺は、馬鹿みたいに何度も頷いた。
桃子をさらってきたのは、この俺だ。なのに、桃子には俺の体調を気遣わせ、その上、金の心配までさせていたとは。
察しの悪い、さっきまでの馬鹿な自分を、思いっきりぶん殴ってやりたい。
目頭をぎゅっと、これ以上ないくらい寄せて、俺は頭を下げて叫んだ。
「本当にごめん!」
驚かせたかもしれない。
桃子の声は、微妙に震えていた。
「そ、そんなつもりで言ったんじゃないよ? やだなあ……謝らないでよ」
最後の方は、完全に困っているようだった。
顔を上げたものの、真っ直ぐ彼女を見ることができなくて、恥ずかしいくらいに視線が泳いだ。
「いや……俺が悪い。今更だけど……俺はどうも、いつも、いつも、周りが見えてないんだ」
「そんなことないよ。私も、アオタくんも悪くないもん」
すっかり晴れ上がったように、澄んだ瞳で微笑む桃子と目があった。
そこで、俺は何を思ったのか。
突然、豪快な笑い声を上げ、意味不明の陽気さを顔に張り付かせた。
「と、とりあえずだな、金のことは心配するな! 今日の俺は、結構、小金持ちだぞ? 任せとけって!」
実際、財布には、本当に万札が入っていた。というのも、葬儀中に何かあれば、とマリエが渡してくれた金だ。デートに使ってよい、とは一言も言われていない。
幸いにも、桃子は「じゃあ……お言葉に甘えるね」と控えめに笑ってくれた。
二人で自販機の前に立つと、すぐに、自販機のパネルを指差した。
「これ?」
「うん」
「ええと、桃の……天然水ね」
ペットボトルのラベルを読み上げながら、百円玉を投入しボタンを押した。大きな音を立てて、ピーチ味と思われる飲み物が、自販機の口から落ちてきた。
桃子は体の前で両手を組んだまま、少し緊張気味に待っている。
「はい、どうぞ」
俺はしゃがみこんだまま、よく冷えたペットボトルを近づいてきた桃子に手渡した。
「ありがとう」
はにかむ桃子を見て、俺の頬も緩んだ。
次に俺はスポーツドリンクらしきものを選び、二人でペットボトルをかち合わせ「乾杯」した。
キャップを開けたら最後、二人して、あっという間に飲み干してしまった。自分たちが感じていた以上に、身体が干上がっていた証拠である。
「もう一本いっとく?」
桃子は首を横に振り、「私は大丈夫」と言って笑った。
冷たい飲み物と、木陰のおかげで、ようやく俺たちは生気を取り戻した。
なんと言っても、逃亡中の身の上でありながら、テーブルの上に腕を投げ出し、リラックスしたムードで、どうでもいい話で笑い合えるのは楽しい。
ここから、どうすべきか。
俺も、桃子もノープランのくせに、頭の中はすっかりお花畑が広がり、遠くで聞こえる雷鳴に、全く気づいていなかった。




