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交換日記は下駄箱の中に  作者: くにたりん
第2部
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第13話 行き倒れの旅人

coldrainの8AMを聴きながらどうぞ。

https://youtu.be/1Shyf78Zbfg

「アオタくん!」


「いいから! 走れ!」


 ただ今、桃子をかっさらい、住宅街を全力疾走中。


 海斗たちと別れた後に向かった先で、衝動的に事を起こした結果である。あの偶発的な遭遇はひらめきと言うより、俺に下された天啓だと思ってしまった。


 それにしても、蒸せるような空気が、なんとも鬱陶しい。

 体中の水分が、表皮に噴き出してくる。


 走りながら思うのだ。


 気持ち悪くはないだろうか――と。


 手の中に、女の子にしては大きくて長い指がある。


 握った手のひらは、じっとりと湿り気を帯びていた。好きな子でもなければ、とても我慢できるものではない。彼女の不快指数は、どのくらいまで上昇しているのだろう。


 桃子はどんな顔をして、俺の手に引かれて走っているのだろう。振り向いたら最後、彼女は姿を消してしまいそうな気がして、視線を向けることも出来ない。


 とにかく、追っ手を振り切ることが先だ。


 背中から、息を切らしながら叫ぶ桃子の声がした。


「ねえ! どこに――行くの!」


 俺は前を向いたまま、やたら眩しい空に向かって声を張り上げる。


「安全な場所! 黙って足を回せ! 追いつかれるぞ!」


 実に爽快な気分だ。こんなに楽しいと感じるのは、一体いつぶりだろうか。


 怖かったのは、逃走を決め込むまでだった。

 走り始めてからずっと、心はこんなにも晴れやかだ。


「了解っ!」


 元気に答えた桃子の声が、弾んで聞こえたのは空耳ではない。スピードを緩めることなく、一瞬だけ振り向いた。


 どうしても確認しておきたかった。

 破顔し、高揚する桃子の顔を。


「楽しいね! アオタくん!」


 どうしようもなく、どんどん気が大きくなっていくのが分かる。


「だろ! あともう少しだ!」


 今なら何でも出来そうだ。


 腹の底から湧き上がってくる高揚感に呼応して、体の奥が焼けるように熱くなっていく。


 アオタくん。


 名前など、どうでもいい、とさえ思えてくる。

 今日から、星アオタ、に改名してもいいくらいである。


 耳障りなストーカーの喘鳴ぜいめいと苦し紛れの恫喝どうかつは、いつの間にか聞こえなくなっていた。互いの姿を視認できない距離まで、引き離すことに成功したようだ。


「あともう少しだ! 頑張れ、桃子!」


 汗ばむ手の中で、彼女の指がピクっと動いた。


 そろそろ、彼女も体力の限界か。立ち止まり、労ってやりたいのは山々だが、今はまだ足を止めるべきではない。目的地は、児童公園と決めていた。


 公園から遠くない場所に、じいさんの家もある。逃げ込むには最適な場所には違いないが、迷惑を掛けそうなので止めておくことにした。


 あの鬼畜眼鏡なら場所を特定し、じいさんの家に辿り着く可能性大。怖い借金取りを思わせる鬼の形相で、桃子の名前を叫びながら、玄関の引き戸を激しく叩く姿が、俺には容易に想像できた。


 児童公園と言っても、パッと見より奥深かったりする。


 遊具や砂場で遊べる公園とは別に、散歩コースを兼ね備えた小さな森もあれば、公園の向こう側には、木立に隠れているちょっとした休憩スポットもある。


 最後の角を曲がると、新緑の黄緑に囲まれた児童公園が目に飛び込んできた。俺が徐々に足を緩めて歩き出すと、彼女も歩調を上手く合わせてくれた。


 暑い天気のせいなのか、子供達のはしゃぐ声も何も聞こえない。当然、人影も見当たらない。


 自分の荒い息遣いが、やたら響いている気がして、チラリと横目を流し「静かだね」と小声で言った。


 桃子は口呼吸しながら、笑みと一緒に無言で頷いた。


 一歩一歩進むごとに、蓄積した疲労が重しのように、足にズンと下りてきた。


 公園の入り口に設置された公衆電話の所で、俺はもう一度、来た道を振り返った。ここへ着くまでに、いくつもの角を曲がり、あいつを巻いてきたはずなのに、完全に不安を払拭するのは難しい。


 額から流れ込んでくる汗が目に沁みて、片目になりながら、初めて使った公衆電話に思い出も同時に浮かんでくる。


 そこへ突然、手を繋いだまま、桃子が体をぶつけてきた。


 あまりの軽い当たりに、思わず顔がニヤけてしまった。バレないように、すぐにそっぽを向いた。しかしながら、どうしても彼女を目で追ってしまう。


「なんだよ」


 肩の辺りから、桃子がほんの少し見上げている。


 この差が愛おしくて、ちょうどいい。

 懐かしい。

 嬉しい。


 彼女は生き生きと瞳を輝かせ、持って生まれたであろう、その強い生命力を全身で表現しているように見えた。


 肩で息をしながら見合っているうちに、二人の口から自然と笑いがもれる。


 桃子は「大丈夫? 君、帰宅部でしょ?」と言って、目を三日月にして笑った。


「あー、否定はしません。全然、大丈夫じゃないからね」


 実際のところ、公園中の空気を全て吸い込みたいくらいだ。肩で息をする程度では、全くもって酸素が足りない。


 いわゆる、酸欠状態である。


 それに比べ、同じ帰宅部だったはずの彼女は、既に呼吸を整え始めている。


 天を仰ぐように桃子は顔を空に向け、目を閉じたまま満足そうに深呼吸した。


 盗み見するように、その横顔を見つめてしまい、カラカラの喉がゴクリと鳴る。


 そう言う時に限って、手を握っていたことに、今更気づいてしまう。


「あ……ごめん。汗……」


 口ごもりながら、桃子の手をそっと放した。


「平気だよ。暑いもんね、今日。いっぱい走っちゃったし」

 

 軽口の一つでも返したいところだが、如何いかんせん、時間の経過とともに、体力が回復するどころか、体から悲鳴が上がっている。


 荒ぶる心臓の鼓動を隠し、俺は苦笑いで返した。


 以前にも、自分の体力のなさを嘆き、体力向上を心に誓ったというのに。喉元過ぎればなんちゃらで、今日の今日まで、そんな誓いはすっかり忘れていた。


 どう見ても、俺の方が死にかけている。膝から崩れ落ちそうになるも、精神力でなんとか二本足で立っている状態だ。


 たどり着いたはいいが、意識が朦朧としてくるというね。


「喉、乾いたな……み、水」


 武士は食わねど高楊枝、とはいかない。


 乾ききった体が、猛烈に水分を要求してくるものだから、ぼやくように、水、水と繰り返し口走ってしまう。


 そして、座りたい。


 最初から、公園を取り囲む木立の影に隠れるつもりだったのだから、ちょうど良いのだ。と自分に言い聞かせる。木陰の方へ歩こうとするが、足がもつれて言うことを聞いてくれない。


「もう……ギブ……です」


 弱音を撒き散らす自分に、辟易してくる。


 それでも風を浴びたせいか、いくぶんか涼しく感じて、少し進んだ先の木陰がある砂地に、弱々しくへたり込んでしまった。


「おい、ここは砂漠か?」


 からかうような桃子の声に、座り込んだ俺は、目の前で仁王立ちの桃子を、ゆっくりと見上げた。


 情けなく、そして力なく笑ってみせた。


 俺を見下ろす彼女の表情は、よく知っている。

 明るくて、そう柔らかい。


「ウソウソ。アオタくんは、ここで休んでてて。すぐに戻ってくるからね」


 どこで覚えたのか、桃子は俺に不器用なウインクを投げると、公園の奥へと走っていった。


 ああ、どこに行くんだ。

 休憩所の方だろうか。


 引き止めようと弱々しく腕を伸ばしたが、声が出やしない。


 軽快に小走りに去っていく桃子の後ろ姿を、ただ見送るしか出来ない自分が歯がゆい。


 一人残され、半開きの口から熱い息を吐き出し、辺りを見渡す。本当に誰もいない。


 頭上から影を落とす木々から、ジジジジ、と蝉の鳴き声が、やたら耳の奥に響いてきた。


 抵抗できない脱力感が、俺を襲ってくる。首をがっくり落とすと、頭皮から流れてくる汗が顔を伝い、音を立てて砂地にシミを作った。


 貴重な俺の水分が、垂れ流しじゃないか。


 ゆっくりと目を閉じ、若葉が風で騒めく音に耳を傾ける。


 音に色があるなら、何色だろうか、などと、ぼんやり考えていると、駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。もし、近づく足音が、あいつだったらヤバイ。


 そう分かっていても、顔を上げられない。


「早く、早く!」


 冗談の欠片もない桃子の切羽詰まった声に、死人のような顔をゆっくりと上げた。


「マジかよ……」


 寝ぼけたような半目に映ったのは、桃子の手のひらで揺れる水だった。


「アオタくん! 早く早く! お水が無くなっちゃうよ!」


 桃子の両手の中で、揺らめきながら、水が煌めいている。ぽたり、ぽたり、と指の隙間から、スローモーションのように、雫がこぼれ落ちていた。


 中腰の姿勢から差し出された手のひらに、乾いた唇が吸い寄せられる。


 わずかに唇が、桃子の濡れた指に触れた。


 イヤラシイことをした訳ではないのに、その感触に理性が反応した。さすがに、スッと首を引いた。


「いいから、飲んで」


 俺は行き倒れの旅人か。


 彼女の声は、憂いも憤りも嫌なもの全部を溶かしていく。


 バラバラに散開していた、彼女を取り巻く環境と、かつて共に過ごした色んな記憶が、一瞬で一つの塊に構成された。


 浮かんできたのは「切ない」という単語だった。


 ああ、もう、泣いてしまいそうだ。

読んでいただきありがとうございます。

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