第二十二話 『世界が崩れるとき(後)』 [NC.500、火月5ー6日]
吹きつける砂の塵が次第にその速度を落としてゆく。
目を開ける。
上半身を起こしナ-ガのいた場所を見た蓮姫は、絶句する。
見開いた瞳がさらに開かれ、そして震えながら閉じられた。
立ち上がり、周囲を見渡す。
街の人たちは後方に固まっている。かなりの人数が怪我を負っているが、誰もまだ死んではいない。死にそうなほど酷い人もいない様だ。本来なら手当をしてあげたいところだが、今は我慢してもらうしかない。
一歩、また一歩。足を前に進めてゆく。
ナ-ガのいた場所は、大理石の床ごとえぐれて潰されていた。
涙が出そうになる。だが、アリアム陛下も言っておられたではないか。彼は、魔法使いのようだと。
それを信じよう。信じるしかない。どちらにしろ、今してあげられることは何もない。
前に進む。怪物の出てきた地面の穴が目に入る。
大きい。地下室が気になった。回りの土や砂ごと穴は大きく陥没している。あれでは地下は……。いや違う! きっと生きている。けれど、助けを待っているかもしれない。
助けたい。助けに行きたいっ。
でも、今は……っ!
キッ
まだやるべきこと、しなければいけないことがある!
視線をあえて避けていたものに戻す。巨大な蟲、砂粒のへばりつく、ぬらぬらと光る体が嫌悪感を誘う。砂漠の乾いた風の中ですら、背中の甲殻は絶え間なくぬめり、光っている。 こちらに見せた腹部には無数の節足が蠢いている。
その腹部の中心に視線をやる。捕らわれている、気を失った少女。
知っている名前の……。
「私は守ると決めた。……だから、逃げる訳にはいかないのよ」
自分では、あれに勝つことは難しいだろう。
自分には元々スピ-ドしかない。あれを倒せるだけのパワ-はない。しかも、ブランクもある。合わせて5年近いブランクは、大きい。けれど、必ずあるはずだ。自分にも、何か、成すことのできる何かがきっとある。
心が研ぎ澄まされてゆく。この感覚は数年ぶりだ。
いつか、あの草原で、今は亡き親友と共に懸命に稽古をした、あの頃。
記憶。幻想? いや、幻ではない。幻ではないからこそ、私は今ここにいる。
今出来ることを今出せるすべての力で。
(蒼星……。アリアム様……そして……アーシア、見守っていて。そして、無事でいて!)
心のすべてで祈りながら、蓮姫は光剣を構えて前に出た。
◇ ◇ ◇
地下の世界。ついさっきまで地下室があった場所だった。
だが今は、無尽蔵の砂で埋もれているだけだ。
アリアムはまだ意識を保っていた。だがそれもいつまで保つか。
身体中が痛い。手足も頭も、全てが同時に押し寄せた砂の流れに埋まっていた。サラサラと絶え間無く滑るように動いてゆく流体の様相を示す物質が、他の物体を絡めた時のみ枷に変わった。どんどん隙間に入ってゆく。重力で沈むコンクリートの様な砂の流れに、拘束された身体の各部がそれぞれ違う方向に引っ張られ、伸ばされ始めた。細かかった砂の目が埋まり、次第にすき間を減らしてゆく。密度が高まり捻れる力が、時が経つごとに加算されて増え始める。重みによる砂圧が際限なく高まりゆきて命を襲い、牙を剥いて剥ぎ取りだした。
もうすぐ、人が耐えられる限界を越えるだろう。肺に入れる空気もすでにない。
何も動かない。いや、動けないのか。強制された不自然な姿勢。体がゆっくりとねじれてゆく。命の時が搾られてゆく。
どうしようもないのか? 人の力では、最早何も出来ないというのだろうか?
自分は、このまま、こんな所で終わってしまうというのだろうか。
どこかの砂が赤みを増した。滲み出してゆくのを感じた。誰かの命が減ってゆく。
まぶたの隅で何かが動いた感じがした。指? ゆっくりだった。目の前の砂の中。持ち主の知れぬ指と手が動き、ゆるゆると静かにキツく拳 を握る。
バチッ。どこかで火花の音が聞こえた。
(!?)
パアッ……。次の瞬間、閉じた視界をまばゆい光が覆い、体にかかる圧力がいきなり薄れた。止めていた息が激しく戻る。吐くような咳。同時にどっと眠気が襲う。暖かい。いきなり楽になった反動で体が急速に休息を欲している。
薄目を開ける。砂に埋もれていた空間が押し退けられて、暖かい光に包まれていた。自然とは異なる、熱さを感じぬ光の繭。
どういう理屈なのだろう? 砂は、その縁から中には入って来れないようだ。何か特殊な力場のようなもので押し返されている。
身体から流れる血が止まっていた。傷は直っていない。ただ、熱い。
己の身体が熱を持っている。身体の回復力が高められてでもいるかのようだ。
視線を光の中心に向ける。
足りない人間はいないようだった。安堵する。全員無事だ。
そして、地下室にいた全員がその空間に浮かぶなか、その中心に立つ者がいた。
周囲に放電を纏わせる、その姿。眠気で顔が良く見えない。
(……誰、だ……?)
心地好さに全身を包まれ、アリアムは、拳の人物を目に収めた後、気を失った。
◇ ◇ ◇
蟲の尾がその場所に留まっていた。さっきまでナ-ガがいた場所だ。
嫌味な人だった。けれど確かに、懸命に守ってくれていた。
蓮姫は剣を正眼に構えたまま、敵の間合いギリギリの位置で静かに歩みを止めていた。
「その場所から離れなさい。今すぐに! そこは、あなたの様なモノが乗っていていい場所ではありません」
真っ向から睨み上げる。斜め上。蟲は背を反らし、高く鎌首をもたげている。
空は紫から藍に変わりだしていた。夜が明ける。もうすぐ次の朝が来る。
戻した目に、また、腹側で無数の節足により掴み上げられた少女が映る。
(ラ-サ……っ)
怒りを押し殺し、もう一度見上げる。先ほど見た時には見えなかったものが見えた。
人影だ。蟲の頭上に何者かが乗っているのが見える。
……乗っている? いや、違う……浮いているッ!?
巨大ムカデの後ろから、次第に浮かび上がってくる人影。
人が、浮く。驚異の光景だ。が、今の蓮姫にとって、理解できぬ理屈などはどうでも良かった。ただ、怒りがあるのみだ。懸命に、小刻みに震える体を押しとどめる。
「あなたは誰です! 顔をお見せなさい、卑怯者!」
誰何の声にこちらに向けられた顔を見た蓮姫は、茫然として立ちすくむ。
知っている顔だった。
『おやおや、勇ましいお姫様ですな。蓮姫、だったかな。ククク』
シェリア-クの姿をした男──ナニ-ルは、見下ろした蓮姫に皮肉な視線を投げかけ
る。口元は笑っていない。視線のみで形作られた笑顔は、恐ろしいまでに醜悪だった。
「……王弟殿下。どうして、貴方がここに……」
『はははハハハはハははハハははは』
返った答えは、哄笑。醜く歪んだ笑い声だけ。どこまでも非人間的な。
「笑うのをお止めなさい。今すぐに! ……殿下、なぜ貴方は宙に浮いているのですか? なぜ、その化け物蟲といるのです! やはり、貴方がすべて後ろで糸を引いていたという事なのですか!?」
返る反応は、つまらなそうな顔だった。そして、これ見よがしに聞こえるため息。
『だとしたら? どうなされるのかな?』
にやにや笑って返される言葉。体が痒くなる程に粘ついている。
以前とはあまりに違う印象に、蓮姫は怒りと共に困惑を隠せなかった。それでも。
「……その子を返して戴きますわ」
光剣を構える。中庭に朝日が差し込んできた。明け方といえど、光が強くなれば、その強烈な日差しで刃を構成する光線が見難くなる。わずかな有利。イメ-ジを即興で組み立てる。
直後、蓮姫は貯めた力を爆発させて踏み込んでいた。空振り! 避けられた。そのまま動き続ける。どこまでスタミナが持つか判らない。それでも、今のところは昔のままに足はついてきていた。
どこまでも耳障りな哄笑を背に、巨大ムカデと蓮姫の闘いは、動きだした。
◆ ◆ ◆
「まだなんか、おい? 少しはデ-タの入力は進んだんやろな、ルシア!?」
地下深く、人に作られた空間で、コンソ-ルに指を叩きつけながら、青年はマイクに向かって声を張り上げる。
『五月蝿い怒鳴るんじゃないよ、せっかちだね。少しは待つってことができないのかい? さっきアルヘナ砂漠上空の衛星の起動に成功した所だろ。急かされてもそうそう巧く事が運ぶもんかね』
「解っとる、解っとるが言い訳なんか聞きたないわアホ。その衛星からの情報や。ナニ-ルの野郎、とうとう自分で出張ってきよったでぇ! すでに状況はかなり切羽詰まっとんのやっ。で、まだ使えんのかい転送機のネットワ-クは?」
『……できるだけ、急いでみるよ。けど、いいかい? そういう事なら、必要ない部分は全部シークエンスをすっ飛ばしちまうからね? 後で動きが悪いとかほざいたって聞かないよっ!』
「おぉ上等や! 動きの悪さくらい根性でカバ-したるわい! 急いでやっ」
指を通信装置からどけると、アベルは振り返る。
「聞いた通りや。もう、間に合わんかもしれん。せやけど、やれるだけはやっておきたい。今のうちにここのパネルとあっちを接続しときたいんや。手伝ってんか」
「いいゼ。こっちのやつとそれだよな? 図面上の位置を教えてくれよ、アベル」
カルロスは、昨晩未明からアベルを手伝っていた。自分から手伝いを申し込んだのだ。
いきなりそう頼んできた少年を、アベルは初めきょとんとした顔をした後、受け入れた。その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
とても嬉しそうだった。
少年の手並みは、初めは足手まといに近かった。が、何時間もやっているうちに、だんだん呼吸が合うようになってきていた。その吸収力はアベルが舌を巻くほどだ。少年はアベルが数ヶ月かかった知識を、教師役がいるとはいえ、次々にモノにしていく。
手を動かしながらカルロスは、ちらりとアベルを見る。
あの時聞いたアベルの一人言を、彼は忘れてはいなかった。
いわく、[今度は俺が生命を賭ける番]。
少年は思う。
自分はまだ何の役にも立てない。立てていない。アベルの過去も知らない。だから、何も言う資格は無いかもしれない。
けれど、誰かが死ぬのは厭だった。
特に、自分より優れ、役に立っている人間が勝手に命を粗末にする事は、我慢がならない。昔何があったかは知らない。けれど、役に立つ、必要とされる人間が生きていてはいけないのだとしたら、この世界は何だというんだ?
そしてだとしたら自分は何だ。自分の様に役に立たない人間はどうしたらいい?
許せなかった。
自分の努力を貶められた気がした。
今は役に立てなくても、いつか役立つようになりたい、と。
今は超えられなくても、いつか超えてみたい、と。そう思うから。思えるから。
そう思って生きてきたから。……すべてを。
すべての自分より優れた者たちへの。
それが、お返しだと思うから。自分を高めてくれた、存在すべてに対する。
だからそれまで、超えた自分を見せるまで、居なくなる事など許さない。絶対に。
三年前の出来事が脳裏をよぎる。家族を一人、失った。もう少しでさらに大事な者を失うところだった。
二度とご免だ。たとえ、失いかけるだけでもいやだった。
世界がどうとかなんて実感など湧かない。湧かないが、それでもこれだけは言える。
自分が認めた存在はすべて、大事なものだ。大事なものは守りたい。
そうだ、必ず守ってみせてやるッ。
(おれの知らね-所で死なせたりなんざしねェ。勝手に死なれてたまるかよッ。何をすンのか知らね-が、全力で止めさせてもらうゼ、アベルさんよぉ。おれが、アンタを超えるまで、地べたに這いつくばっててでも生きててもらおうじゃね-かドちくしょうが!)
かぶりを振る。顔を戻した少年の眼に、シェスカの街を旅立った頃の光が、戻っていた。
最早そこには、進む道に迷う少年の姿は無かった。そして少年──カルロスは、怒りのままにすべての力を仕事に集中していった。
◆ ◆ ◆
激しい音が、新たに舞い上がる砂の向こうに響いていた。空気を裂く音。
そして重いものが砂を叩きつぶす音だ。
何度目かの砂煙が薄まり落ちる。シルエットが浮かぶ。砂霧の向こう、巨大な蟲と闘う女性。
蓮姫だ。
蓮姫は善戦していた。一時と同じ場所に留まる事なく、ヒット&アウェイで攪乱しながら敵の消耗を待つ戦法。正解だ。こういう巨大な敵との戦い方としては。
しばらくは敵の傷だけが増えてゆく。
だがそれも、次第に限界に近づきつつあった。
生物としての基本が違いすぎるのだ。残念なことに、疲れを知らぬ存在に、人はそう簡単に勝てたりしない。
「あぐぅっっ」
横殴りに振られた尾の先が姫を捕らえた。吹き飛ばされながらも、自分から転がってダメージを逃がす。辛うじて次の攻撃から逃れ、距離を取った。
『フム、意外にもったな。が、ここまでのようだ。諦めていさぎよく死ぬがいいぞ、ククク、はハは』
(まだよ! ……まだ、私は何も成していない。すべてを出し切ってはいない!)
束ねた髪を振り乱し、降りかかる言葉を睨みつけながら蓮姫は思考を加速する。
どうすればいい? どこを攻撃すればいい?
隙がない。背中を嫌な汗が流れ落ちる。さっきの攻撃で脚にうまく力が入らないのだ。
このままでは痺れが取れる前にやられてしまう!
その時、身体が振動を感じ始めた。すぐに立っていられなくなる。蟲の方も攻撃する余裕はないようだ。
(地震? いえ……違うっ)
腹ばいになって見回す。と、先ほど化け物が出てきた穴が、下から押し上げられ盛り上がり始めていた。
また敵か! 身体を固くした蓮姫の前に、暖かい光が降りそそぐ。
朝日ではない。球形の光の繭。穴から現れたものの光。それが何なのかを見極める前に、光はすぐにしぼんでいった。
光がしぼみきった後。そこに現れたのは人影だった。それも、複数の。
数人の人影がゆっくりと地面に沈む。
ようやく目が慣れた蓮姫は、そこに見知った顔ぶれを確認した。
心配していた地下組の面々。ちゃんとみんないる。気を失っているようだが、皆無事らしい。そして……アリアムも。
「……あ……っ」
嬉し涙で視界が曇る。そこに一撃がきた。
自分の口から悲鳴が漏れるのが聞こえた。衝撃! 何とか受け流す。が、あまりの痛みに、堪えたその場でうずくまる。そこへ二撃目。上からっ……避けられないっ!
だが、その攻撃が蓮姫に当たることはなかった。
『油断……大敵というところですかね、お姫様』
眼前で止まった敵の尻尾を茫然と見上げた後、急いで声のした方に顔を向ける。
ナ-ガがいた。だが、その姿は透き通って奥の景色が見えている。
……幽霊!?
『……幽霊じゃありませんから、念の為』
敵の攻撃を阻むように、両手を身体の前で掲げたまま、進んでくる。その間も、目に見えぬ力が蟲の身体を押し戻している。
『クッ、なんだ!?』
しかもそれだけではない。
ナニール───シェリアークの身体にまでその力は及んでいるようだった。
「……ええと、あの、無事だったと思ってもよろしいのかしら……」
恐る恐る話しかける。
『宜しいですよ、姫。ちゃんと生きています。ただ、幽霊ではないですが、ほんの少しそれに近いものがあるかもしれませんね』
『貴様……もう力が戻ったのか。小賢しい。成長著しいことだな』
別の声。割って入った不機嫌なその声に、ナ-ガは鼻を鳴らして答える。
『ああ、勿論だ。なにせボクは天才だからね。攻撃の刹那、瞬間的に実体化を解いて攻撃を避けたのさ。ほんのわずかかすってしまったから、意識を取り戻すのに少々かかってしまったけど』
『つまりは精霊体の状態で無様に転がっていたという訳だ、青二才。普通の人間に見えない状態で良かったな、ククク』
動けないナニールを睨みつけ、ナーガは蓮姫に向かって答える。
『強がりは動けるようになってから言ってもらいたいね、ナニール。さあ今のうちです姫。ボクが押さえている間に、彼女を!』
「ナニール!? 王弟殿下では……ありません、の……?」
『姫、詳しい説明は後にさせて戴けませんか。急がないと、あの少女だけでなく、その殿下の身体も完全に乗っ取られてしまいますよ?』
「!!?」
訊きたいことは山ほどあったが、今はすべて後回しと納得する。
蓮姫はうなずいて構えを取った。そして疾走! 前へと。
『小賢しい!!』
「きゃああああッ!」
ナニールの杖が光を放つ。赤黒い光が疾走り、蓮姫の身体をわずかにかすめた。
『蓮姫!?』
転倒し、降り積もる砂の上を蓮姫の身体が滑ってゆく。掠めただけで恐ろしい威力だ!
『この程度で我を封じたと思うな。クク、見くびられたものだ』
『蓮姫ご無事ですか! ナニール、貴様ァッ』
「だ、……大丈夫、立てます」
なんとか無事のようだ。起き上がった蓮姫は、光剣を構える。
『うまく避けたようだな、非力な小娘が。だが、スピードだけでは我と我が指に勝つことはできぬわ』
我が、指? 蓮姫は良く分からない単語を聞き流した。
「そうでしょうね。でも、それでも、私は……、」
ハァアアアアッ!
「諦めたりはしないわ!」
蓮姫はもう一度、全てを込めて巨大なムカデに向かっていった。
『……蓮姫』
「負けない! 私は負けない! もう二度と、途中で諦めたりはしないわ!」
何度も立ち向かい転がされた蓮姫は、既にボロボロになっていた。それでも、何度転がされても突進を止めなかった。
蓮姫の攻撃は、効いていた。ムカデの節足の何本かは切断されとんでいる。しかし……。
ナーガは視線をそむけることができず、それを震えながら見つめていた。
『もういい! もう下がってください! もうすぐ後ろの彼らが目を覚ます! 後は彼らに任せればいい!』
ナーガの力が及んでいる間は、ナニールは精霊体としての物理を超えた力は使えない。せいぜい軽い電撃ぐらいが関の山だ。だが!
その電撃が蓮姫を追い詰めていた。腕も動かせないのになんという正確さだ!
『くッ』
拘束する力を解くわけにもいかず、見ているしかできない自分に、彼は苛立つ。
(なぜだ? なぜあなたはそこまでできるんです!? なぜ! ……何ひとつ不自由ない、お姫様だった人が。その無垢なままでとてつもない悲劇と不幸を経験したはずの人が……)
人は変わることができるんです。
ナーガの耳に、先ほどの蓮姫の言葉が甦る。
(蓮姫……あなたは……)
『よそ見をしていていいのか? ナーガよ』
ハッ! 気付いたときには、眼前に蟲の尻尾が迫っていた。
『うわあっ!』
蓮姫に注意を奪われていたのが災いした。わずかの油断。一瞬だけ力の緩んだ隙に攻撃されたナーガは、つい完全に力を解いて防御する。
『しまった!!』
精霊体としての経験の浅さだった。痛恨の失態。いまだ実体化していない自分に物理攻撃は効かないことを、彼はとっさに忘れていた。
『ククク、未熟だな。そら消滅しろ小娘、跡形も無く!』
転がる蓮姫に今度こそ杖の先が向く。
とっさにもう一度【拘束】の力をかける。が、間に合わない!?
『やめろ─────ッ!』
ナーガの絶叫が響いた。と、
『ぐぁあっ!!』
ナニールの杖が吹き飛んだ。
────カツン。砕けた床に金属が落ちる。
それを見て、ナーガは転がる男たちの方に視線を送る。
ファングとコールヌイだった。意識を取り戻したふたりの投げた小刀が、ナニールの杖を吹き飛ばしていた。
『お、のれええええええ!』
ナニールの絶叫。『潰せ!』そのまま蟲に命令を出し、空の上に浮かび上がる。
ぎぃいいいいいいいいいいっ
ナーガの能力は間に合わなかった。巨大ムカデの尻尾が蓮姫に迫る。今度は小刀では防げない!
蓮姫は地面を転がって避けた。が、追いかける尻尾にはねられ宙を飛ぶ!
「ああああああっ!!」
幸い砂の上に落ちたので骨などは無事だった。だが、痺れてすぐには起き上がれない。
(駄目なの……? 無理だというの? やはり私には何も成すことができないというの───)
『蓮姫────!』
そのまま振り上げられた尻尾が真上から彼女に迫っていた!
ザンッッッ!!
気付くと、斬られた尻尾が宙を舞っていた。巨大な蟲がのた打ち回る。
目の前の地面に金属の塊が刺さっている。
「いったい、何が……?」
顔を上げた蓮姫が見たのは、大男だった。巨大な剣を振り下ろし、地面に突き刺したまま彫像のように固まっていた。
(誰……?)
答えは後ろから聞こえてきた。
「デュランさん!!」
「デュラン殿! ご無事であったか……」
(デュラン……。確か、アリアム陛下の話に出てきた……。そう、間に合ったのね……)
その声に手を上げて答えた後、デュランは剣を引き抜いた。そのままくるりと背を向ける。
「下がっていろ。あなたが誰だがは知らんが、後はこの俺が……」
「いやよ!」
噛み付きそうな返答に、デュランの視線が蓮姫に向く。
「いやです……。お願い……私はもう、途中で引いたりしたくないんです!」
静かに見つめていたデュランの視線がわずかに緩む。
「……分かった。俺が突破口を開く。その後は任せたぞ」
「はい!」
「援護を頼む」ナーガにそう言い放ち、デュランは走る。
その後ろを蓮姫が続いた。
『おのれ……餓鬼ども!』
シェリアークの形をした顔が憤怒に歪む。
拾った杖の先から電撃が走る。その大小の稲妻の群れをすり抜けて、デュランはのたうつ蟲に到達した。
「援護を!」
合図にナーガが【拘束】をかけ。クローノが棍を地面に打ち付けて振動を蟲とナニールのみに収束する。
二人の援護で蟲の動きが完全に停止した。
「おおおおおおおおおおおおおおっ!!」
雄叫びのままデュランの大剣がうなりをあげる。崩れた瓦礫を踏み台に、蟲より高く舞い上がり唐竹割りに剣が舞う。
蟲の頭部が切り裂かれた! 飛沫を噴いてのけぞり返る。
ビクンと痙攣した蟲は、ブリッジのような形で無防備な腹部を見せて硬直した。
杖を振りかぶった姿勢で忌々しげにナニールが振り返る。援護に用意したエナジーを障壁に変え、
『キ、サ……マラァ……!』
歯軋りしながら右辺を睨む。視線の先で、師弟が雨のように投げつけ続ける小刀で、援護しようとする彼の動きを封じていた。急所を外した攻撃だった。だが、一連の流れと師弟の気迫でナニールはそれに気づけないまま防御に徹す。。。
「今だ!!」
大地に剣を突き立てた男の合図で蓮姫は跳躍した。現役の頃と同等のスピードで助走をつけた跳躍は、見事な放物線を描きその頂きで蟲の腹部に到達する。
一閃! 千切れた節足の束が舞った。
ズザァアアア! そして、砂地に降り立った彼女の腕の中には、気を失ったままの少女が抱えられていた。少女には、傷ひとつついてなどいなかった。
『GYAOOOOOOGYOAAAAOOOUUUUU!!』
巨体がのた打ち回っていた。ナニールの姿は見当たらない。
荒れ果てた王宮の中庭に、蟲の悲鳴が轟いている。理由は判らないが、なぜかこの蟲だけは痛みを感じるようだった。
同時に遅まきながら、地下から脱出してきた残りの面々が目を覚まし始める。
彼らも目にした光景に歓声を上げた。
(やったの……私、やり遂げたの……?)
蓮姫の腕の中で、助けられた少女。ラーサが小さく身じろぎする。血の通った動き。その動きに蓮姫は涙する。
(成す事ができた……。私にも何かを成す事ができたわ……蒼星……ッ)
「デュランさん! よくここが!」
「ファングじゃないか! どうしてここに?」
「あ! いえそれよりも! 見つかったんですよ! ナハトがいたんですこの街に!」
「見つかった……?」
怪訝そうな顔をしたデュランも、ナハトがいるということで他はどうでも良くなった。
「そうか、ナハトもいるか! そんな気はしていたが……。で、今はどこにいるんだ、教えてくれ!」
ファングは後ろを指差した。
「あの人ごみの中の、どこかです。ナハト、怪我をしてしまって、今治療を……」
「あの中だな!?」
話の途中で走っていくデュランを、ファングはあきれて眺めていた。
デュランの行った方向でも、歓声が上がっていた。
怒涛のような歓声だった。
ファングたちも誰もが思った。
勝った! と。
これで、敵の目的である水晶球の解放を阻止できた。
誰もが、そう思っていた。
◆ ◆ ◆
「おぉー、やったで! やるやないけあの姫さん!」
衛星を通じてイェナの闘いを眺めていたアベルは、パネルに突っ込んだ手先を動かしながら、歓声を上げた。
無理も無い。彼らはあのナニールから一矢を報いたのだから。
隣では、慣れの差だろう。仕事中の手先から目が話せず、画面を見る余裕が無いカルロスが、手元の基盤に恨めしそうな視線を投げながら手を動かしている。
それでも、彼も嬉しそうだった。
映っている画面の中には、彼の知り合いもいたのだから。
が、それも長くは続かなかった。
「ア、アホな……!! いかんっ逃げぇ!」
アベルの絶叫がむなしく響く。届かないその声は絶望と悲しみに満ちていた。
驚いて振り向いたカルロスも、見た。ナニールを宿した少年の肉体が笑っている様を。
それは、悪魔の笑みだった。顔に憎悪を貼り付かせながら、少年は歪んだ笑いを撒き散らしていた。
第二十二話『世界が崩れるとき(後)』 了.
第二十三話 『世界が崩れる中心で』に続く。




