8-5.追
(……いや、待て。あの二人の行き先――案外簡単に割り出せるかも知れない)
直感が頭の中で迸り、鼓動が耳の奥で荒々しく鳴り響き、呼吸が浅くなる。無意識にバックミラー越しに宮野の顔を探すと、彼女は眉を寄せ、目で合図を返してきた。その短い交換に言葉はいらなかった。二人の意思は重く一点に収束する――
ブレーキが砂利を噛む音を立て、車体が止まる。ドアを開けると、湿った外気が纏わりつく。潮の匂いとともに草や土の匂いが混じった夜の空気が肺を満たすと、全感覚が研ぎ澄まされるようだ。
膝をついて地面に手の平を押し当てた。指先に伝わるのは、乾ききってはいない土のざらつきと、微かな油の匂い――そこに、他のタイヤが刻んだ細い轍が並んでいた。私たちのものとは違う、幅と深さ。明らかに“最近”残された跡だ。
確かに……これで辿れるね♫さすが未凪ちゃん!
叙歌の声は震えながらも抑えきれない興奮を含んでいる。その高揚のせいで彼女の肩が揺れるのが見えた。宮野は無言で顎を引き、ハンドルに力を入れる。私の胸の奥では、手の平に触れた土より深く乾いた何かが広がり始めていた。
エンジンが唸り、暗闇を切り裂くライトが道の凹凸を照らし出す。砂利と泥が入り混じった荒れ道がどこまでも続く。左右の木立の枝が車体の側面を掠める度に生暖かい空気が流れ、何かが囁くように聞こえる。遠くで海鳴りが断続的に響き、夜は深い。
視界の先に、人工物がポツリと浮かび上がる。四角い、無機的な箱。街灯も電線もない場所に、違和感だけがただ横たわっている。
その側に停められた車を見た瞬間、空気が重たくなった――紛れもなく"もう一台の車"だ。施錠はされていなかったので、車内を物色したが、人の気配が欠落していて、座面に残る体温の名残は風に消されかけていた。
古本さん、ここって何ですか?
備品倉庫です。位置は、私たちがいたリゾートエリアの南側で、災害備蓄や余剰の備品を置く場所…基本的に一般の方は入らないところですね。
宮野がゆっくりと扉の取手に手を掛ける。錆が指先にじゃりじゃりとした感触を残す。鍵は掛かっていない。ぎー、と大きな軋みが夜空に吸われ、扉が開いた瞬間、湿った空気とカビの混じった匂いが襲ってきた。
懐中電灯の光が室内を切り裂くと、埃の舞う空間が現れる。段ボールの山、古い毛布、長椅子。埃が光の中で舞い、空間に白い粒が漂う。
電気が、付きませんね…もしかしたら何者かが意図的に電源を落としたのかも知れません。
スイッチをオンオフしながら、宮野は低く、機械的な声で話す。その先には冷たい観察眼が見え隠れする――この人は何かを知っていたのではないか、という疑いが胸を刺す。
私たちは懐中電灯を片手に、倉庫の奥へと踏み込む。床は湿っており、靴底に泥が付く。光の輪が進むたび、木の床がギシギシと答え、空気は重く濁っている。光は段ボールを照らし、箱のラベルに書かれた文字が浮かび上がる。毛布、紙コップ、救急セット。日用品が詰まった箱の隙間に、不自然に折りたたまれた布切れが突っ込まれていた。布は赤茶け、固まった泥が点在している。色が、形が心に刺さる。誰かがここで慌てて何かを隠したのか、それとも落としたのか。
誰かいるのかな?
叙歌の声が小さく震え、倉庫の深部へ響いて消えた。返事はない。代わりに、風でもない何かが段ボールの一列を揺らした。小さな音が、次第に脈打つように重なっていく。耳鳴りのような静けさが、私の思考を削ぎ落とす。
私たちは光を左右に振り、床に沿って進んだ。棚の影を裂くたび、物が浮かび上がる。埃を被った古い箱、色あせたシーツ、時折、黒く濡れた染みが木板に広がっている。濡れた部分は乾ききっておらず、触れたら手に何かが残りそうだ。匂いがさらに鋭く立ち上り、鼻の奥がざわつく。
その時、肩に冷たいものが触れた。振り返ると叙歌が私にしがみついている。顔色が鉛のように悪く、唇は紫がかっている。目の中には恐怖が濃縮されていた。
だめ、ここ無理……出たい……
彼女の声はか細く震え、全身を震わせている。だが私の視線はさらに奥へ向いていた。光の先に、床に散らばる小さな紙片が見えた。紙には印刷された小さな文字があり、誰かの指先で引っ掻かれたように皺が寄っている。近づいて拾い上げると、それは宿泊者名簿の切れ端だった。名前が幾つか見える――そしてそこに、彩の名前があり、隣に小さな丸印がつけられていた。丸はペンで乱暴に付けられており、周囲には手のひら大の泥の跡が残っている。
(ここで何かが終わったのか。それとも、始まったのか……)
ジョー…カー…
きゃ……きゃあああああ!!!
私と宮野の背中を掴んでいた叙歌の後方から伸びた手は、彼女の肩に手を置いた。あまりの恐怖に放たれた咆哮により、倉庫中の備品を揺らし、建物そのものに大きな振動が走ったように感じた。
市川様、どうしてここにいるのですか?私たちはあなたと佐々木様をを探しに来たのです。
宮野の声は、普段の柔らかさとは程遠い。乾いて、光を吸い込むように低い。海都はそこに立っていた。髪は乱れ、瞳は通常とは違う光を放っている。焦点が定まっていないが、何かを“見据える”強さがある。口元に血の跡がうっすらと付いているのを見逃さなかった。
僕は――僕はここで、佐々木彩と、話をしていました。
海都の言葉は過去形だった。私の身体が小さく揺れる。言葉の裏にある意味が、遅れて頭の中で炸裂する。彩はここにいないのか。話をしていた、という事実が“あった”ことを示すのか。あるいは、話が終わっている、という残酷な暗示なのか。
海都の瞳が私を掠める。そこには驚きや悲しみの色はない。あるのは静かな確信と、説明を拒むような冷たさだ。私の中で何かが音を立てて崩れ落ちる。手に握る光線が小刻みに震え、影が床に延びる。倉庫の奥からは、かすかな水音――滴る音が聞こえた。滴の一つ一つが時間を刻むようで、その間にある空白が重くのしかかる。
海都!驚かさないで!彩先輩は、どこにいるの?
我を取り戻した叙歌は、堂々とした態度で訊く。だが、絞り出されたその声は、思いのほか震えていた。
海都は一瞬だけ沈黙し、薄く笑った。笑いはすぐに消え、目を閉じて深く息を吐いた。
ここには、もういません。ですが、僕たちは話したんです。"真実"について。
その言葉には余計な装飾が無く、まるで事務的な報告のようだった。だが私の身体の中に、氷の針のような寒さが広がる。最悪のシナリオの輪郭がどんどん濃くなっていく。
真相?…何があったのか話して、エース。
叙歌は、お願いというよりかは、短く命令するように言った。声が低く、震えが消えない。問いかけは倉庫の壁に吸い込まれ、すぐに答えは返ってこなかった。
宮野は顔色を変えずにじっと海都を観察している。だがその目の奥には、何か計算された冷徹さがあった――まるで初めからこうなることを知っていたかのように。




