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6-4.巡

五月の陽光がキャンパスの建物に反射し、石畳の上に淡く揺れる光の模様を織りなしていた。その光は、春の空気の柔らかさを映し出すかのように優しく、歩くたびに瞬いては、通り過ぎる新入生たちの靴先に踊る。


新入生たちは期待と不安を胸に抱え、緊張の面持ちで学生会館の廊下を右往左往していた。笑い声や戸惑いの声、挨拶の声、時折聞こえるため息までが混ざり合い、まるで春の嵐が一瞬だけこの空間に吹き荒れているかのようだった。


壁にはびっしりとサークル勧誘のビラが貼られ、先輩たちの手が差し伸べられ、微笑みが交錯する度に胸が高鳴る。新しい世界に一歩踏み出す瞬間、未知への高揚感が全身に広がり、誰もが自分の居場所を探していた。その目線には鋭さがあり、まだ見ぬ友情や競争、そして時に裏切りの予感が薄らと漂う。


しかし、その喧騒とは完全に隔絶された空間が、この学生会館の奥にひっそりと存在していた。殆ど忘れ去られたかのような古びた部屋の扉を押し開けると、薄暗い蛍光灯の光と、積もった埃の匂いが入り混じり、時間がゆっくりと止まったかのような静けさが支配していた。


壁には色褪せたポスターが乱雑に貼られ、長机には無数の傷が刻まれ、窓際のカーテンは長い年月を経て色あせ、過去の記憶をそっと閉じ込めているかのようだった。


外界とは一線を画す別世界のように感じられ、その静けさは空気が重く、音が吸い込まれるようで、踏み込む者の心を自然に緊張させる。息をする音すら、やけに大きく響くかのようだった。


その空間の中心に座していたのは、央太。柔らかな笑みを浮かべ、椅子に深く腰を下ろさず、軽く前かがみになって視線を新入生に向ける。その笑顔には、人の警戒心を自然に溶かす力があった。しかしその瞳の奥には、誰も触れることのできない深淵が潜んでいた。穏やかさの下にひそむ冷徹さは、まるで底知れぬ闇のようで、軽い冗談ひとつでもその奥底に達することは容易ではない。彼に微笑まれると安心するが、深く覗き込もうとすれば、ぞっとするような寒気が背筋を走る。だから誰も、その全容を知ることはできない。


目の前に立つのは、叙歌。栗色の髪が肩にかかり、身体を前に乗り出して声を弾ませる。言葉には迷いがなく、廊下のざわめきよりも強く、鮮烈に響いた。彼女の明るさは、古びた部室に春風を吹き込むかのようで、埃の匂いさえも優しく包み込む。小さな手を軽く握ったり放したりしながら、彼女は全身で興奮と期待を表現していた。


 わたしー、どう考えてもトランプ同好会に入るべきだと思うんです!


央太は微笑みを崩さず、声を柔らかくした。その声には試すような響きが含まれ、叙歌には気付けない微かな棘が潜んでいた。二年前の入学式翌日、この出会いが後に予想できない連鎖を引き起こすことになるとは、まだ誰も知る由はなかった。


 昨日、帰り道に聞こえたんです! 会長さんと副会長さんが、お互いをキング、クイーンって呼び合ってるのを!


叙歌の瞳は輝き、好奇心と憧れが滲む。その奥には、まだ知らない世界への期待と、わずかな恐怖が入り混じっている。央太は軽く頷き、口元に柔らかな笑みを浮かべる。その笑みは温かく見えるが、内側では細かく計算された冷静さが働いている。


 へぇ……で、君も何かニックネームが欲しいってわけかい?


 "ジョーカー”――私のためにあるようなものです♫


その瞬間、空気が微かに変化する。央太の表情に一瞬の影が走り、口元がわずかに引き攣った。しかし、すぐにいつもの笑顔に戻る。部屋に漂う静寂が一瞬だけ緊張に包まれ、叙歌には理解できないが、ここには見えざる力が静かに流れていた。


 残念! それはもう――いや、そうじゃないな。大丈夫。君は、今から“ジョーカー”だ。


叙歌は無邪気に胸を撫で下ろし、元気よく声を弾ませた。


 あー、ビックリしたぁ。もう誰かがジョーカーの座にいるのかと思いましたよー!


その時、響子が前に出る。彼女の歩みは静かで、存在感は控えめながらも、視線は部屋全体を軽く包み込む力を持っていた。


 ふふ。いい勘してるわね。私は副会長の木佐響子。ここでは“クイーン”よ。よろしく、"ジョーカー"。


響子の瞳は涼やかだが、どこか憂いを帯び、その視線には暖かさよりも奥底に潜む冷たさがあった。


 で、こっちの無口な女は佐々木彩。通称"ササキ"よ。


――部屋の隅に佇む少女。腕を組み、窓際に視線を固定し、感情を欠いた声を放つ。叙歌に視線を向けることもなく、ただ冷たく無関心を装っている。その存在は、部屋の中で異様な影のように感じられ、叙歌の胸に小さな不安を残した。


 え? “ササキ”って普通に苗字ですよね? なんで?


叙歌は首を傾げる。彩は答えない。


央太が朗らかに笑った。


 はっはっはっ。それは、いずれ分かるさ。俺が会長の高石央太、“キング”だ。よろしくな、ジョーカー!


央太は元気よく名乗る。


 はい! 私は、二色叙歌、改め、ジョーカーですね!よろしくお願いします。これからトランプの勉強、頑張りまーす♫


その明るさは部室に光を射し込み、埃っぽささえも温かく感じさせる。央太は手を叩き、声を弾ませた。


 よし、ジョーカーの歓迎会だ! 久しぶりに皆んなでメシでも行こう!


叙歌の瞳が輝く。


 えー、いいんですかー! ありがとうございまーす♫こないだ二十歳になったんで、お酒も行けちゃいます♫


 ってことは、あなた、私たち三人と同級生ね…私もたまには参加しようかしら。


響子の声音には、安堵の影が混じる。


 私は、パス。


彩は短く切り捨てた。拒絶の壁。叙歌は思わず立ち上がり詰め寄る。


 ササキ先輩、酷いです! 私の歓迎会なんで来てください♫


 嫌よ。私は忙しいの。


彩の声は氷のように冷たく、笑顔のひとつもない。


央太が叙歌の肩を軽く叩いた。


 ジョーカー、ササキは普段の誘いには乗らないけど、年に一回の合宿には来るから、そのときにたくさん話すといいよ。


 おお! 合宿なんてあるんですね! 楽しみです♫


叙歌の声は明るく、未来に対する希望で満ちていた。だが、この希望は幻に過ぎなかった。


――全ては既に決定づけられていた。


取り返しのつかない結末へと、静かに、確実に、向かっているのだから。

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