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3-5.乞

 社長。どうか――私を、ビッグオーシャンのプロジェクトに加えていただけませんか。


その声は驚くほど静かだった。だが同時に、一度耳にした者の胸に確実に棘を残す種類の響きでもあった。弦楽四重奏のヴァイオリンの高音に紛れるように放たれながら、確かにその場の空気を変えた。呼吸を止める者こそいなかったが、近くにいた数人が自然と視線を寄せたのを、宮野自身も気配で感じ取っていた。


 ……古本さん?突然ね。何か特別な思いでも?


応じたのは、この会社の象徴にして、誰も逆らえない存在だった。


ここは会社創立三十周年記念パーティーの会場。自社ビル最上階に設けられたバンケットホールは、夜景そのものを装飾として抱き込んだ巨大な箱庭のようだった。


三方を覆うガラスの壁からは、東京の摩天楼が幾何学模様の光を描き、ネオンの明滅が遠雷のように瞬いていた。眼下には首都高速が光の帯を織りなし、ビル群の窓は夜空に散らばる星座の断片のように瞬いている。


天井からは巨大なシャンデリアが降り注ぎ、無数のカットガラスが金糸のような光を解き放つ。音楽は室内を柔らかく包み込み、テーブルに並ぶシャンパングラスや銀器が水面のように輝いていた。ドレスとタキシードの波は途切れることなく交錯し、笑みと握手が連鎖しながら一つの祝祭の渦を作っている。


その華やぎの中にあって、宮野は明らかに異質だった。


黒のシンプルなワンピース。装飾は何ひとつない。化粧も抑えめで、照明の下では影のようにすらりと立つ。場の煌めきに比べれば、彼女は存在を消そうとしているかのように見えた。だが、その瞳だけが異様な光を宿していた。真っ直ぐに、社長ただ一人を射抜いている。


宮野自身も自覚していた。この場における自分は異物であり、踏み込んではならない領域に立っていることを。だが、踏み込まなければ未来は閉ざされる。後退は許されない。それしか、残されていなかった。


どうしても、このプロジェクトに関わらなければならない――


それは単なる願望ではなく、宮野の存在そのものに関わる絶対条件だった。しかし本当の理由を口にすることはできない。もし語れば、全てが台無しになってしまう。誰にも知られてはならない過去が、この計画の奥深くと絡み合っていることを示してしまうからだ。


だから宮野は“嘘”を選んだ。


もっとも、完全な虚構ではない。真実を数滴だけ、毒にも薬にもなる分量で混ぜ込む。それが、目的を達成するために磨き上げてきた術だった。声が震えぬよう、呼吸を整え、まるで昔の自分を語るように言葉を紡ぐ。


 ……以前、ホテルに長く勤めておりました。宿泊施設の運営には、それなりに知識と経験があります。きっとプロジェクトにも、会社にも、お役に立てると信じております。


彼女はすぐには答えなかった。代わりに、グラスを傾けた。琥珀色の液体がカットガラスの内側で小さく波打ち、光を分解して床に複雑な模様を落とす。小さな泡が弾け、淡い音を立てて消える。それを見ている間、彼女の表情は微動だにしなかった。


その沈黙こそが、圧力だった。視線も声も与えられないまま待たされる時間が、宮野の心臓を何度も叩き――そして、ようやく唇が開かれた。


 ……そう。考えておくわ。


それは結論を与える言葉ではなかった。ただ会話を終わらせるための定型句。肯定でも否定でもなく、期待も拒絶も示さない。彼女の目はすでに別の人物を探し、次に握手すべき相手を視界に収めていた。


宮野は深く頭を下げた。卑屈ではなく、しかし誠意を込めるように。結果は求めていない。むしろ求めることが危ういとすら知っていた。だが、立ち止まれば何も変わらない。歩み続けるしかなかった。


背を向けた瞬間、彼女の視線が自分の背から外れたことを、はっきりと感じ取った。


――それでいい。まだ終わりではない。むしろこの拒絶の気配こそが、次の一歩を踏み出す余地を与えている。宮野はそう解釈した。



三年前。


宮野があの同好会メンバーと初めて顔を合わせた日だ。外は雨で、湿った空気が漂っていた。初夏にもかかわらず冷たさを含んだその空気を、いまでも呼吸で思い出せる。


 古本さん、今日から三日間よろしくね。


その声に振り向いた瞬間、一生忘れられない人物と目を合わせた。口調は軽く、しかし視線は重い。相手は若さと傲慢さを包み隠さず、まるで人を値踏みするように宮野を見ていた。


 お嬢様、そして皆様、よくぞお越しくださいました。精一杯おもてなしさせていただきます。


 そんなにかしこまらなくていいのよ。私たちは、プライベートで来たんだし。


微笑んだのは社長令嬢で、同好会の副会長。気さくに振る舞っていたが、目の奥は冷たく澄んでいて、他人との距離を測る定規を常に持ち歩いているように思えた。


その場に漂う空気は、普通の友人同士の旅行ではあり得ないものだった。笑顔と会話が交わされていても、その下に隠された緊張が確かに存在していたのだ。


宮野はその時、まだ何も知らなかった。ただ、なぜか胸の奥にざらりとした違和感が積もった。それは警告だったのかもしれない。だが彼女は気付かぬふりをした。その三日間が、自分の人生を軌道から外すきっかけになるなど、想像すらできなかったのだから。

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