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 大きく呼吸をしながら、めぐみは現れた(たかし)の姿に泣き出しそうに眉尻を下げた。

「この……馬鹿娘!あれほど無茶すんなって言っただろうが!」

「ご、めんなさい」

「……平気、か?」

 乱れためぐみの前髪を掻き上げ、崇はこれ以上無いほど真剣な瞳で顔を覗き込む。

 顔色が悪い。それに、腕からの出血も放っておくには深すぎる傷跡だ。

「大丈夫だよ。ちょと、受け身取り損ねただけ」

 無理矢理に笑うめぐみの様子に、崇は思わず顔を顰めてしまう。だが、すぐにそれを消し去り、めぐみを庇うようにその前に佇んだ。

 井上へと視線を向けた崇が、始めてぎくりと身体を強張らせる。

 崇の眼には、井上から立ち上る気配と、変貌したその身体に禍々しさを感じずには居られなかったのだ。

 どす黒い炎が燃えさかり、周りを圧するように井上の身体から流れている。

「井上……」

「崇ちゃん、その人」

「分かってる」

 そう、理解出来てしまったのだ。井上がすでにこの世のものでないことが。

 身体も意識も、すでに井上本来のものではないだろう。彼女の中にいるものと混じり合い、どす黒い欲望がその身からひしひしと流れてくる。

「お前が何をしたのかオレは知ったこっちゃねぇ。けどな、こいつに手を出したことだけは、許せる問題じゃねぇんだよ。

 それと井上。お前自身に聞くぞ。お前はいったいどうしたい。そのまま化け物と同化する道を選ぶのか」

「だ、黙れ!」

 動揺が、井上達の中に走り抜ける。

 淡々とした崇の口調には、感情の欠片は一つも含まれていない。

 だからこそ、残っている井上の心が揺れ動く。血に酔いしれ、人の死体を作りあげていくことに、僅かではあったが恐怖を覚えていたことを胸中で思い出させるには、崇の言葉は十分な威力を持っていた。

『何を考えている!小娘』

 その言葉に、井上は雷に打たれたように身体を硬直させた。

 もはや、自分は光の中に身を置くことは出来ない。それぐらい分かっている。自分の身体は、血にまみれ、その血に酔いしれているのだ。たとえどれだけ弁護の言葉を並べようとも、その事実には変わりが無い。

 自分の正体を知られてしまった以上、この二人を殺すしかないことは、身体の中にいるものに聞かずとも分かっていることだ。

 ざっ、と、井上の足先が地面を確かめるように動き、そのまま獣のような早さで崇の前に移動すると、そのままの勢いで崇の肩を掴みあげた。

「崇ちゃん!」

 めぐみの悲鳴のような声に被さるように、崇の肩から勢いよく血しぶきが舞い散る。

 ほとんど条件反射で井上の手を振り払った崇が、逆に井上の腕を捕らえるとそのまま勢いよく大地に叩き付けるべくその身体を投げ飛ばした。

 だが、井上は重力を感じさせない動きでふわりと宙で一回転して大地に佇むと、指先に付着した血の味を確かめるようにねっとりとした動きで爪を舐め取る。

 ―本気にならねぇと、()られるな。

 今の自分では、太刀打ちが出来ない。それくらいの分別はまだ崇の中に残っている。

 たかだか封じられたもの相手だが、力を出し切れていない自分にはまだまだ荷が重い相手と言って良いだろう。

 冷静にそう考えていることにすら気付かないのは、異様な状況と頭に血が上りすぎているせいだ。何時もならば、そんなことを考えていることに驚くだろうが、めぐみの怪我や自身が負った傷のせいで、今の崇にはそこまでの考えが足らない。

 ぽつり、と、冷たいものが空から落ちてくる。

 それを受け止めながら、井上はクツクツと喉を鳴らして二人を眺めると、心底楽しげにしゃべり出した。

「まだ力を使えぬならば、貴様ら二人を殺し、その力を取り込んでくれるわ」

「んだと?」

 意味不明だが、それに意識を取られれば、自分達二人は間違いなく殺される。

 いつの間にか絶え間なく降り始めた雨の中、井上の指先の爪が更に長さを増して鋭利な刃物となりそれをゆっくりとした動作で二人に向けた。

「死ね」

 簡潔な一言ともに、井上が大地を蹴る。

 はっ、と崇が息をのむ。この速さと距離では、避けきれない。

「くそ」

 失態などというものではない。こんなことは、()()()以来だ。

 これでは、彼らに合わせる顔がない。

 ぎりっ、と唇を噛みしめた崇の後ろで、めぐみもそれを察知したのだろう。

「だ、だめー‼」

 めぐみの絶叫が、周囲に響き渡る。

 思わず動きを止めた井上が、めぐみの瞳の色を見た途端、呆然としたようにそれを見つめた。

 澄んだ水底のような、深い(あお)

 何かを呟きかけ、がくりと井上の足が何かに引っ張られる。

 井上が足元へと視線を落とせば、意思を持ったように雨水が太い綱のように井上の足首に巻き付き、その動きをその場にとどめていた。

 その瞬間、崇は大地を蹴って井上との距離を縮めた。

 生じた隙を逃せば、次がない。

 理性ではなく、本能がそう告げる。

「うおぉぉぉ‼」

 雄叫びが、崇の唇からついてでる。

 炎のような紅蓮の瞳が、井上を真っ直ぐに射貫く。

 手近にあった枝を持った崇が、そのまま真っ直ぐに井上との間合いを詰めた。

 気迫に気圧されたのか。井上は攻撃をかわそうともせず、崇の攻撃を受け止めるように佇んでしまう。

 瞬間、ただの棒きれだった枯れ枝が、太刀のような形を形作り井上に振り下ろされる。

 まるで予定調和のように、額の目へと切っ先が吸い込まれた途端、耳を塞ぎたくなるような男の絶叫が周囲を響き渡らせた。

 肩で息をつく崇の前で、糸が切れたように井上の身体ががくりと大地に倒れ込んだ。

 井上の身体を支配していた『何か』は、今の攻撃で消え失せている。手応えでそれを感じた崇は、手にしていた枝を一瞥する。

 手にしているのは、どこにでもある枯れ枝だ。なのに、あの一瞬、この枝は自分が脳内で思い出した太刀の形を作り上げた。あの太刀は、自分もよく知っているものだ。だが、それがいったいどこで自分が手にしていたのか、頭の奥底にしまい込まれた記憶を探ろうにも、何かが邪魔をして思い出すことが出来ない。

 苦い思いで枯れ枝を捨て去り、崇は倒れ伏した井上へと近づいた。

「わ、たし……」

 疲れた切った呻き声は、死期に近づいたもののそれだ。

 濁りっきた瞳が、近づく気配を感知したのかそちらに向けられ、細々とした吐息のような言葉が聞こえると、崇は井上の側に片膝をついた。

「生きた……かった」

「これ以上自分を傷つけるな。オレの力を受け止めたのは、お前自身の意思だろ。でなきゃ、オレは殺されていた。

 人間の身でありながら、お前はよく戦った。墜ちた自分を責めずに、眠るがいい」

 柔らかな口調でそう話す崇は、まるで一つの部族を率いる長のような雰囲気を纏い、労るように井上の身体に触れた。

 その温もりに、井上の眦から一滴の涙がこぼれ落ちる。

 許されることをしたわけではない。それでも、誰かに止めて欲しいと心の隅で願っていたことも確かだ。

「あ、りが、とう」

 微笑みを浮かべた井上の瞳から、急速に光が失われる。

 途端に、井上の身体が負荷に耐えられなかったのか、まるで砂のように崩れ落ちて雨と混ざり合いながら大地に吸い込まれていった。

「……何で?」

 震える声に、崇は背後のめぐみを見つめる。

 怒りでも哀れみでもない。何も出来なかった悔しさに溢れた声は、人によっては傲慢に聞こえたかもしれないだろう。

 めぐみも崇も、助けたいと思ったのは事実だ。だが、それだけの力が無い自分達は、死という形でしか井上を解放することは出来なかった。

「死にたくないって、最後まで言ってた。生きていたいって」

「めぐみ……」

 かけるべき言葉が見つからず、崇はめぐみに近寄るとあやすようにその頭を軽く撫でつけた。

「誰だって、死にたくはない。井上も同じだ。死ぬのが嫌で、あいつは他の存在をその身体に取り入れた。

 それは、生に執着しているものならば、誰だって縋れるものがあれば縋ろうとするだろう。だが、井上がやった行動は、何があっても許されるこうじゃない。

 それは、お前だって分かってるはずだろ?」

 こくり、と小さくめぐみは頷く。

 めぐみとて理解出来ているのだ。ただ、感情がそれに追いつかずにいるだけだということも、崇も十分に理解出来る。だからこそ、めぐみは崇の言葉に救いを求めるように静かにその言葉を聞いていた。

「けどな、オレ達が井上を責める権利はない。もし井上と同じ事が起きれば、オレ達も彼女と同じ事を望むかもしれない。

 結局、オレ達には彼女の気持ちを理解出来るはずがない。オレ達は、生きているからこそ何でも言える。死んだ井上の気持ちは、きっと井上にしか分からないんだ」

 小さな嗚咽から慟哭へと、めぐみの唇から漏れる。

 土砂降りとなった雨の中では、それは雨粒に吸い込まれて消えていくだけだ。

 二人の身体を、容赦なく雨は叩き付ける。

 まるで、井上歩という存在を忘れさせないためでもあるように。

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