>あまり甘やかし過ぎるとロクデナシが出来あがっちゃうよ?
>あまり甘やかし過ぎるとロクデナシが出来あがっちゃうよ?
まあ、親子関係も人間関係の一つなので、「躾」は大事ですねぇ。
問題なのは、「仕事で築けてる信頼関係も家庭での人間関係も同じ」だと、親が考えられない事なのでしょう。
身心を美しく保つ事をを自覚して、共にそうあれるように「叱る」事と、己の感情にまかせて怒る事は、根本的に違う。
そう理解しないと、「子供を愛玩動物扱いすること」になって人間扱いしていない事になりますから。
身心を美しく保つとは、「人としての理想の在り方」を目指し続ける事で、本能を抑制して他者を尊重する「共存原理」の精神。
「誤魔化すな、騙すな、奪うな、害するな、傷つけ、盗るな、脅し、殺すな」という人間関係を築くうえで一番大事な倫理を最初に教え、そして諭すこと。
そこが、人間と愛玩動物との関係とは違う所。
愛玩動物でもトイレなどを「仕付け」る必要はありますが、それは、「躾」とは根本的に違うという話ですね。
そして、「躾」を怠る事はネグレクトの一種だという倫理が近年では広く語られだしました。
これは、「財産相続などが絡む結婚契約」を裏切る事を「不倫」と語る類の「個人的な欲望の肯定や否定」とは一線を画する話です。
なぜなら、「『信用』という利害で繋がる人間関係」以前の最低限の「信頼」を子供に教えないという事は、子供を人として見ていないということになるという考えからです。
本能的な愛情だけではない「理性的な愛情」がなければ、反社会的な人間が育つという考えが基になった考え方ですね。
「盲目的な絶対の正義」を奴隷に仕付ける事から始まったであろう聖書宗教の影響からか。
あるいはローマ帝国という軍国国家の文化を基に欧州の物質文明が、発展したせいなのか。
欧米では、「誤魔化し、騙し、奪い、害し、傷つけ、盗り、脅し、殺す」権力を、国教となった聖書宗教が「正しい人間関係」だと教える文化が根付きました。
「神を疑うなかれ」「信じる者は救われる」「神を信じぬ者は人にあらず」「異端や異教を奉じる害獣は排除すべし」
それがローマ国教としての聖書宗教の「行動原理」になったのは、他宗教の神を悪魔として排斥した歴史がそれを示しています。
権力と結びつき「理想を失った宗教」は、本末転倒して「共存原理の秩序」ではなく、「暴力原理の統制」を社会基盤にしてしまいました。
その結果、「暴力原理」によって、十字軍や聖戦という「自分達の利権集団である組織の権威を守るための「宗教戦争」や「異端排斥」や「魔女狩り」が起こりました。
「倫理をそういう宗教に依存した社会」が形成されたので、「親の義務を果たせないことは、ネグレクト」うんぬんが語られだしたのは精神文明が発達してきた近代になってからになります。
一方日本だと、「暴力原理」で人間関係を築いていた「倭国大乱」の時代や「戦国時代」を治める必要があったせいか。
あるいは「ヘレニズム文化」や「黒潮文化」と「記紀の山幸彦と海幸彦神話」に見受けられるような「海洋文明」を形成していた集団と、戦いに敗れ大陸から追われ移住してきたであろう集団が融合した「世界最古の移民国家」としての性質からか。
古代に民間文化として互いの価値観を尊重しあう戦乱を嫌う「共存原理」の「和合文化」が形成されていきました。
それは、仏教組織が権威と結びつき、この列島に広まった後も「国家神道」によって「古神道」が権威によって統一化された後も民間文化として残っています。
絶対正義を掲げる権威としての一神教ではなく、自然への畏怖を鎮めたいと願う「古神道」は良心を宗教に委ねません。
「神を利用して権威としてしまう畏敬を知らぬ思い上がり」という想いは、自然災害が多い日本列島だからこそ発展していったのでしょう。
「噴火」に「地震」に「津波」に「氾濫」に「山津波」と「嵐」や「雷」。
ローマ神話で最大の畏怖として崇められたのが「雷」でしかないことを考えれば、日本での自然災害の多さによって「一世代で複数の大災害を知る人々」が、「神の権威に良心を委ねる
宗教」を信じ難かったのは当然に思えます。
だからこそ、宣教師が日本で布教しようとしても「人は神の被造物」などと語り「自分達が神の代弁者と語る不遜」という想いが、それを阻んだのかもしれません。
「和合文化」によって育まれた日本人の多くは、「誤魔化し、騙し、奪い、害し、傷つけ、盗り、脅し、殺す」という「暴力原理」
とは逆の「共存原理」を尊重します。
そういう精神文明が日本では古くから発達していき、「躾」という「共存原理」が広く語られだしました。
宗教に依存しない「躾」の考え方は「美学」などとも呼ばれ。
「恥の文化」などとも呼ばれる「美学の文化」は、人として生きない有様を「生き恥」などとして語ります。
「暴力原理」で生きる野生動物と違う「共存原理」を、排泄行為や、裸を晒す事と同じ「恥ずかしい事」として幼児に仕付ける事を「躾」と呼ぶ「恥の文化」。
それは、「共存原理を内包した社会」の文化で、宗教に倫理を依存したことで戦国時代を続けながら形成された「暴力
原理の資本権威主義社会の文化」の常識は違うものです。
損得を一番に考えて物質的に豊かになる事を共に目指すのは一種の「暴力原理」で、それで築ける人間関係は、同盟によって勝利を得て敗者を生み出す類の「Win&Win」の関係。
勝利を共授して敗者を排斥する人間関係はルールを造る権力を得ることが至高とします。
「ローマ国教が語る神に近づく事が栄誉」という中世の価値観を持つ事は、「独裁国家の権力者になろうとする国家の栄誉」を否定できない「暴力原理への依存」で戦争が絶えない原因となっています。
そういう在り方を善い事とはせずに、人間関係として一番大事なものを「共存原理」とするのが、「共存共栄」の人間関係。
暴力原理と共存原理を「本音と建前」と考えて、変えられない現実として受け止めるのか。
「未熟さと理想」と考えて、変えなければならない現状として受け止めるのか。
理想を求めるのを「甘え」と考えるのか、現実は変えられないと諦める事を「甘え」と考えるのか。
前者を選択すれば「恥知らず」が育ち、後者を選択すれば「人」が育つ。
そういうように、しっかりと考えて、子供に理性的な思いと、心情的な想いを受け継がせるのが現代の教育です。
悪用して暴力原理で「少年兵」や「企業戦士」を育てるのか。
それとも人類文明、を支える共存原理を護る「守り人」を育てるのか。
そういう教育や学びの在り方で人間はどうとでも変わります。
幼少期に「人としての恥」を知ることを学ばせる社会が崩壊して言ってるのは、倫理を「宗教」に依存した精神文明の未熟な資本主義社会の影響でしょう。
「甘やかさない」ということがどういうことなのか、きちんと考え、教育を実践できないと、子供は周囲の影響でよくも悪くも勝手に学び育つので、「きちんとした親」になるのは仕事以上に疲れます。
だからこそ、「資本権威に支配された競争社会」の余裕のない状況では、親は「保護者の義務である教育」を投げ出しがちになり、周囲の影響でロクデナシの子供も育ちます。
「暴力原理で動く資本権威に支配された社会」では、理想を表層的な建前と考えて、他者を貶めるために用いようとするようなネット文化が生まれ。
近年ではそれが問題視されているのも「親の甘え」でロクデナシがロクデナシを育てるからなのでしょうね。
これも「割れ窓理論」というやつなのでしょうが、物質的に目に見え難い「思いや想い」を察するのは、人を観察できるだけの洞察力が必要になりますから色々大変。




