第二章・第一話 盟約の導12
日が経って、約束の三日後。
もう通い慣れたアットルテへと続く道のり。しかし、いつものように貴婦人っぽくその身を飾ることはなく、宿で普段着として着ている、ハンナからもらった簡素ながら良い素材で繕われている一般的な村娘が着る服をその身にまとっている。
彼らから指定された時間は早朝。それもまだ空が白み始めた時間帯。
フィスフリークに許可を得たとは言え、こんな時間の外出を許可されるはずもない。彼が許しはしない。
だから今、由那は無断で抜け出してきている。部屋にはギガルデンを残してきたため、おそらく上手く誤魔化してくれることだろう。
「さむ……」
リスクードやレハスの町よりも西に位置する町ではあるが、やはり冬の早朝は冷えるものだ。冷たく吹き抜ける風に、思わず身を震わせる。
もう少し厚着をしてくれば良かった、などと思いながら、まだ薄暗い路地を急ぎ足で歩く。
商業地域だからなのだろうか、やっと鳥たちが目覚め始めた時刻にもかかわらず、ちらほらと人の行き交いがある。そんな人の目を避けるように、店前ではなく業務員用の裏口へまわった由那は、そこに佇んでいた一人の青年に声をかけた。
「3日ぶりですね。おはようございます、ジェフィスさん」
「………」
「? ああ。この格好、変ですか? なるべく目立たない方がいいかと思って。それとも、この口調ですか?」
まじまじと由那の姿を見、何とリアクションすればいいか分からないといった様子のジェフィスに、くすりと悪戯っぽく笑みを浮かべる。
これまで貴族の令嬢のように通してきたのだ。態度がこれだけ変わってしまえば、彼のこの反応も当然のことだろう。
180度違う、まさに他人を目の前にしているようなものだ。
「ふふ。では口調だけでも戻そうかしら。混乱させても仕方ないですものね」
話し終わると同時に、その仕草までもが気品を帯びていることにジェフィスは気づく。ふふっ、と今度は、まさしく令嬢のごときオーラを携えた由那は辺りを見渡す。ジェフィスはそのあまりに急激な変化について行けずにいる。
「あの時の男性、ザイハさんとおっしゃいましたかしら。あの方はいらっしゃらないのですね。まあ、むしろいない方がいいですけれど。
それで、わたくしはこれから目隠しをしなければならないのでしょうかしら。ねえ、ジェフィスさん?」
態度と口調こそ変われど、依然ジェフィスをからかう事を止めない由那は容赦なく話を進める。
だが、待っても一向に返事が返って来ない彼の様子に業を煮やしたようだ。自らも黙り、返答を期待する目でじっとジェフィスを見つめ続ける。
「そ、その…、あの」
「早くして下さらない? このままここにいては、何かと目立ちますわ」
決して強い言い方ではなかったが、動かざるを得ない鋭い威圧感を感じさせられる。そんな底知れない気配を感じたジェフィスは、言葉にならず頷くだけに留まる。
「目隠しはしなくてもよろしいの?」
「その…、はい、いりません。知られてもさほど困る場所ではないですから、問題はありません。別に隠してはいませんし。我々の店と提携している香木の加工工場ですので」
「あら、そうですの」
「じゃあ、……あ、ええと。で、では、参りましょうか」
「くすくす。別によろしいのよ、あの時のように話してくださっても。わたくしはまったく気にしませんわ」
「っ、いえ、それは」
戸惑いがちに否定の声がかかる。散々迷いながら、結局、由那が思った通りの回答が返された。
「ユーナ様は、その、店のお客様ですから」
「そう、ね。わたくしは貿易商の父の娘で、あなたは香を御す香店の店員。立場の違うわたくしたちが分かり合えるはずがないし、友と呼べる関係になれるはずもない。私はあくまで、あなたたちに利を与えるだけの存在でしかなかった。ただそれだけ」
ぞっとするくらい妖艶な微笑み。
完全なる拒絶。これ以上は決して踏み込めない。そんな冷たい色を湛えたまなざしが、鋭くジェフィスを射抜いた。
「私も、結局はあなたたちを利用することを優先させたのだから、それはお互いさまなのだし。……ということですから、ね」
口調もいつのまにか本来の彼女のものとなり、しかし、雰囲気は普段とは比べ物にならないほど辛辣だ。
「早く案内して下さらないかしら。長く立ったままだと疲れますわ」
「わ、分かりました。こちらへ」
ふいに沈着になる。その急変な態度がジェフィスを更に困惑させていることを知っていて、でも改めようとはしない。
彼はこれから情報を聞き出す相手だ。有利な立場に立ってこそ有意義な交渉がなされるというもの。先手先手を打つのは当然のことだ。
―――彼は、年齢の割に少し素直すぎね。彼だけなら聞き出すのも簡単だろうけど、仮にも一国の王に抗おうとする組織の者が、そう簡単に情報を漏洩させるはずがないんだけど。―――
今日は姿を見せていないザイハという男のことを何となく思う。そして、その彼が漏らしたキハネという人物の名も。
ザイハが彼女と言っていたので、キハネという人物は恐らく女性だろう。それに、あの時のジェフィスの怒り様から、彼とは密な関係なのだと予想ができる。
交渉に男性も女性もないが、なんとなく同性の方が話しやすいということはある。ただ、相性や性格などもあるので、一概には何とも言えない。
「あの建物がそうです。早朝なので裏口に回りますが、色々と物が乱雑しているので足元に気を付けてください」
「ええ。大丈夫ですわ」
差し伸べられた手をやんわりと断る。一応、用心するに越したことはない。
彼らが今さら何か仕掛けてくるとは思えないが、あらかじめ手のひらに印を仕込んでいた、などとそんなことがあっては堪らない。
そうは見えないかもしれないが、これでも由那は万全の防御をしている。香対策や防巫術対策はもちろん、いざとなったらシャオウロウをも出現させるつもりでいる。
前世偉大なる時のイブリースだった人間と、その眷属である霊獣。そんな最強ダックに狙われたが運のつき。初めからディヒルバの者たちに救いはなかったと諦めるよりほかない。
「こちらです。奥に案内の者がおりますので」
「その必要はないわ、ジェフ」
いつの間に現れたのか、背後からジェフィスの言葉を遮るようにして女性の声がかかる。
「?」
「キハネ。君って人は…」
「ご苦労さま、ジェフ。この子がそうなの? あら、思ってたより若い子ね。話に聞いた印象とずいぶん違うわ」
名乗りもせず、いきなりじろじろと不躾に見まわす女性に少し不愉快な気持ちになる。が、それをものともしない彼女の美しさは、由那も息を呑むほどのものだ。
すらっとした長身に、同じくすらりと伸びた手足。暗がりでも分かる、はっきりと整った容姿は、美人で器量良しの印象を受ける。人の良さそうなその笑みも、一役買っているに違いない。
しかし。
ぱっちりと開いた目元、そして腰まで届こうかという髪の色。薄闇の中でも、はっきりと見て取れた。
その色が、紫だという事が。
「どうかしたかしら? ああ、もしかして『紫の容姿』のことかしら。やあね。別に取って食べようなんて思わないわよ。私、魔物じゃないんだから」
あからさまにむっとした彼女を見て、慌ててかぶりを振る。
今は巫術で髪色を染めているとはいえ、由那とて見た目で複雑な気分にさせられたことがある。こういったデリケートな問題は、すぐ誤解を打ち消さなければ心証に関わる。
ましてや相手がこれから交渉しなければならない人物なのだから、余計に、だ。
「いいえ、まさか。そういう意味じゃないです、決して。ただその、私の知り合いにも同じ容姿の人がいるので」
「え? うそ。私の他にも紫の容姿が? へえー。珍しいわね」
「髪色だけでなく、雰囲気も少しあなたに似ているかもしれません。ええと、申し遅れました。私は由那と申します」
「あら、そうなの。それはぜひ色々と聞かせてほしいわ。でも、それはあとでのお楽しみにしておくわ。
ええ。こちらこそ初めまして。話はジェフたちから聞いているわ。私こそ挨拶もなくごめんなさいね。私はキハネ。ディヒルバの頭の娘でもあるわ」
「はい、よろし…――えっ? ディヒルバの頭の、娘?」
さらりと告げられたせいか、うっかり流してしまいそうになった。
今、さり気なく驚愕的事実を告げられなかっただろうか。彼女に、というよりは、告げられた言葉を自分自身が確認するように聞き返すと、またしてもあっさりとした頷きが返ってくる。
「ええ、そうよ。でも、あんな頑固じじいと一緒にしないでほしいわ。父とはどこまでも意見が合わないのよ。っと、今はそんなこと話している暇はなかったわね。あなたの希望通り、香の生成段階を見せてあげるわ。ついていらっしゃい」
「あ……、ええ、はい。お願いします」
「え、ちょっ、キハネ。一体何言って」
いきなりの誘いにも動じない由那とは裏腹に、驚いたのはむしろジェフィスの方だったようだ。
目を大きく見開き、今にも腕を引っ張らん勢いでキハネの後を追う。
「案内ごくろうさま、ジェフ。もうアットルテに戻っても構わないわよ」
楽しげにうきうきと由那の案内を始めたキハネに戸惑いを隠せないジェフィスをそのままに、彼女は案外冷たく突き放す。
由那の予想では、二人は恋人なのだと思っていたが、それは深読みしすぎだったのだろうか。
見た目は結構お似合いだと思うが、いかんせん、性格があまりにかけ離れている。付き合ってもあまり上手くいかなそうなタイプの二人だ。というか、確実にジェフィスが尻に引かれそうだ。
「は!? ちょ、まっ…、キハネ!」
「さあ、行きましょう。ユーナで良いかしら。私のことはキハネと呼んでくれて構わないわ」
「そうですか。では遠慮なく。よろしくお願いします、キハネさん」
「別に呼び捨てでも構わないわよ。さん付けなんて他人行儀だし、敬語も堅苦しくない?」
「いえ。これは癖なので。それに私の故郷では年上には敬意をもって接するべきだと教えられています」
「あら、そうなの。残念ね。ユーナみたいに可愛い子からなら呼び捨てでも構わないのに」
キハネのリップサービスにも似た言葉は苦笑で流しながら、彼女でも交渉にはそれほど難儀しないと判断した由那は、特に用の無くなったジェフィスをあっさりと切り捨てた。
ここで下手に行動して彼女の機嫌を損ねることの方が得策ではないと踏んだためだ。おそらく彼女は、一度怒らせるととてつもなく面倒くさい性格だと思う。周りに一人、彼女に似た女性がいたからよく分かる。
普段は面倒見も人も良い姐御肌だが、一度彼女の逆鱗に触れると、たとえ彼女のお気に入りの由那であろうとも、彼女の旦那であろうとも、もう手がつけられなくなる。逆鱗時には、あの、人を転がすことが仕事だともいえる柳田が言い包められていたほどだ。進んで彼女のようなタイプの女性を敵に回したいとは思わない。
それに逆に言えば、気に入られてしまえばチョロイということでもある。
「…………」
キハネに気に入られるにはどうすればいいか。
ここ数年で一番の相談相手であり、よき友であり姉のような存在だった人が参考なら、考えるまでもないことだ。
「こっちよ。ほら、早く」
「はい。分かりました」
案内されるがまま、薄明かりの中を歩く彼女に導かれ、由那は懐かしさをその瞳に映しながら彼女の背を見つめていた。