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もやしっ子は、領土を返納したい

 俺はバルドゥア帝国の帝都を流れる冷たい川の水を、十三年間、ただ眺め続けてきた。


 オルティジア辺境伯家の嫡男でありながら、わずか六歳で人質として帝国へ送られた俺、ライン・オルティジアの生活は、一言で言えば「完璧な空気」だった。


 牙を抜かれた従順なもやしっ子。


 それが俺の生存戦略であり、事勿れ主義の極致。

 できればそのまま、一生を怠惰に終えたかった。


 だが、その安息は、通っていた帝国士官学校の「学年末戦術模試」の日に崩れ去った。


 ――面倒くさい。


 それが、試験の巨大な戦術盤を前にした俺の率直な感想だった。


 勝てば帝国のエリートコース。そんなものに乗ったらサボれない。かと言って、露骨に負ければ無能として辺境へ送り返され、親父に鉄拳制裁を喰らう。


 悩んだ俺は、盤面の中央で睨み合う自軍と敵軍を完全に無視し、全兵力をマップの一番端――何もない不毛な砂漠の補給路に引き篭もらせ、そのまま戦術盤の前で堂々と居眠り(サボり)を極め込んだ。


 それが、すべてのバグの始まりだった。


 俺が寝ている間に、敵の包囲網を予測したと勘違いした採点官(教授陣)が勝手に戦慄し、「敵の全縦隊を誘い込み、補給線を断絶する伝説の干殺し戦術」として、なぜか**『歴代最高得点・主席』**の評価を下してしまったのだ。


 その直後、タイミング悪く届いた『オルティジア辺境伯、急逝』の魔導書簡。


俺は親父の急逝で、通っていた帝国士官学校を中退し、辺境伯の爵位を継ぐ事になった。


俺は、「帝国士官学校を歴代最高得点の首席で中退した、底知れない名将」

そんなデマまがいの二つ名を背負わされた状態で、俺は十三年ぶりに、白壁の湖上都市レムへと連れ戻される羽目になったのである。


おかしい。俺はただ適当に試験をやり過ごしたかっただけなのに。



「おお……! ライン様! よくぞ、深く爪を研ぎ、帝国にその恐怖を刻みつけて帰還されましたな!」


レムの重厚な城門をくぐった俺を待ち受けていたのは、俺が人質に出されるまで傅役だったギルバート、海軍提督ドレイク、そして巨漢の騎士団長レオンだった。

 全員が、ギラギラとした、猛獣のような熱い視線を俺に注いている。


「帝国が誇る士官学校の教官たちを『盤上干殺し』で絶望させたという噂、このオルティジアの地まで轟いておりますぞ!」


騎士団長レオンが地響きのような声で拳を握る。


「先代様が崩御された途端、帝国は我が領を見くびり、近々『査察官』を送り込んで、この難攻不落の城塞都市レムを直轄地にしようと画策中! 西側連合の猛攻をすべて撃退してきた我が騎士団、帝国の横暴など断じて許しませぬ! 攻め寄せるなら査察官ごと叩き潰す所存! ライン様、最初のご下命を!」


最初のご下命。

 決まっている。これ以上、関わりたくない。


「……ちょっと待て! お前は誰と戦おうとしてるんだ!? 本国の査察官と戦うなんて大それたこと、言うわけないよな!?」


 俺はただ、これ以上厄介ごとを増やさず、部屋の布団に入りたかった。

 だが、海軍提督ドレイクがハッと息を呑み、不敵にニヤリと笑った。


「なるほど……『干殺し』、ですな。あえて動かず、帝国の査察官を焦らし、我が方の有利な泥沼へ引きずり込むという深謀遠慮……。あの卒業模試はハッタリではなかった。バルドゥア帝国も形無しですな!」


「違う、本当にただ無難にやり過ごしたいだけなんだって!!」


 俺の魂の叫びは、筋肉質な大人たちの「流石は名将……!」という熱い頷きにかき消された。


 この領地、家臣の脳筋濃度が高すぎて会話が成立しない。

 胃の痛みに耐えかねた俺は、逃げるように城内の拝謁の間へと足を向けた。



 拝謁の間に待っていたのは、美しく整えられた銀髪のボブカットの少女だった。

 タイトな文官用の制服を完璧に着こなし、黒いニーハイソックスから覗く絶対領域が眩しい。


 彼女は手に持った分厚い出納帳と、帝国から送られてきた俺の『成績証明書(実際の行動記録)』をパチパチとめくりながら、真紅の瞳で俺を冷ややかに見つめてきた。


「初めまして、ライン。私はアルテ。今日から貴方の主席補佐官を務める。それと……先代様の養女。ラインの義理の妹」


「あ、うん、よろしく、アルテ……」


 アルテは俺のすぐ目の前まで歩み寄り、至近距離からその真紅の瞳で、俺の顔と……そして俺の手元を覗き込んできた。

 彼女が見ていたのは、俺が道中で無意識に弄っていた、馬車の乗車票の半券だった。


「ライン。その半券、規則的に折り目がついている。それから貴方の士官学校での行動記録……全百二十回の講義のうち、貴方が出席したのはわずか十二回。でも、その十二回はすべてテストの日だけ。……やっぱりね」


 アルテは誰も聞こえないような小さな声で、俺の耳元で冷たく囁いた。


「『最小の労力で、最大の生存確率を叩き出す計算高いクズ』。それが貴方の本質。あの模試も、ただサボるために一番安全な安地(安全地帯)に引きこもったら、偶然敵が自滅しただけでしょ。……徹底的な事勿れ主義者ヘタレ


(――ッ!? バレた!? 俺のデータからロジカルに割り出しやがった、この女……!)


 俺が恐怖で冷や汗を流していると、アルテはフッと冷たい笑みを浮かべた。


「でも、評価してあげる。その異常なまでの環境適応能力と生存本能。先代様が私を養女にしたのは、まさにその『逃げ足の速い貴方』に、この領地を存続させるためだから」


「……どういうことだ?」


「ラインの父上が、帝国から帰ってくる貴方のために十三年かけて集めた遺産。それが私たち三姉妹よ。内政と情報戦で貴方のヘタレを隠蔽するアルテ。オルティジア最強の武力を持つ騎士団副長のレイラ姉様。そして、領内一の豪商エスカンテ商会の娘、ニナ」


 アルテは冷たく言い放ち、手元の分厚い現状報告書を俺の胸元に押し付けた。


「でも、私たちが全力で貴方の盾になって、やっとプラマイゼロ。いいえ、むしろ大赤字よ。はい、これが現在の領地の爆弾リスク一覧」



深夜。

 俺は一人、執務机に突っ伏しながら、渡された報告書をめくっていた。


オルティジア辺境伯領は、東西の唯一の交差点であるマルマラ湖に位置する、交易、軍事の要衝だ。


「西側諸国からは真っ先に落とすべき最前線として狙われ、宗主国の帝国からは強大になりすぎて不気味だから弱体化させたいと取り潰しを狙われてる。――そんなこと、十三年前、六歳で帝国に送られた瞬間から分かってたんだよ」


 だから俺は、帝国で『牙を抜かれた従順なもやしっ子』を全力で演じ続けた。オルティジアの次期当主は無能だ、生かしておいても無害だと帝国を安心させ、領地に攻撃の大義名分を与えないために。


 試験だって、本気を出したら目立つから、一番安全な不毛の砂漠に引きこもって逃げたんだ。

 なのに、なんでそれが『神の干殺し戦術』なんて誤認されちゃうんだよ……。


「はぁ……こんな事なら帝国の人質の方が楽だよ……帰りたい……」


だが、現実はそんな俺の過去の努力すら嘲笑うかのように、最悪の通知を突きつけてきた。

 報告書に並ぶ、領地が抱える三大リスク。


 問題その一。宗主国バルドゥア帝国からの不当な重税。

 それに加えて、死んだ親父が晩年、多額の予算を注ぎ込んで大規模な『無駄な公共工事(あちこちの掘削)』を乱発していたせいで、財政は完全に大赤字の火の車だった。


 近々、その財政難につけ込んで利権を奪おうと、帝国の『査察官』が送り込まれてくるらしい。関わりたくねぇ。


問題その二。領内の経済暗闘。

 ニナの実家である老舗豪商『エスカンテ商会』と、新興の『シャルロッテ商会』が、物流の主導権を巡って一触即発の縄張り争いを繰り広げている。もしこれを誤れば領内の物流がストップして餓死者が出る。


しかも、その新興商会の若き女会長シャルロッテは、俺を自分の陣営に引き込むために、色仕掛けで誘惑してくる気満々らしい。報告書の最後に『女狐に注意されたし』とアルテの辛辣な付箋が貼ってあった。政治的な肉食女子とか一番関わりたくねぇ。


 問題その三。軍事費の圧迫と、大陸規模の開戦リスク。

 この広大な湖には、交易船を狙う凶悪な『湖賊』が頻出する。その防衛のために軍事費が財政を限界まで圧迫している――のだが、本当の恐怖はそこではない。


この『白壁の湖上都市レム』は、東西の交通の要所であると同時に、「ここを占領した国が、大陸全体の物流の関税と制水権を完全に掌握できる」という、絶対の利権地なのだ。


 これまで獅子伯と謳われた親父が圧倒的な武力で守っていたから、東西両陣営は手を出せなかった。しかし、その怪物が死んで、戻ってきたのは『帝国帰りのもやしっ子(俺)』。


西側諸国の連合軍は「今こそレムを奪い取り、帝国の喉元に刃を突き立てる好機」と国境沿いで軍を動かし始めている。

 対する宗主国バルドゥア帝国は「西側にレムを奪われるくらいなら、いちゃもんつけて無理矢理にでも直轄地にして囲い込んでしまえ」と、不穏な動きを見せている。


つまり、俺が少しでも舵取りを間違えてレムの防衛線が揺らいだ瞬間、東の巨大帝国と、西の諸国連合による「大陸全土を巻き込んだ全面戦争」の火蓋が、この領地を舞台に切って落とされるということだ。


「なんだよこれ……。詰んでるじゃん。どこが豊かな辺境伯領だよ、ただの大国同士が睨み合う火薬庫じゃねえか……!」


 唯一の光は、脳筋ながらも盲信的に新領主(俺)を支えようとしてくれている家臣団の圧倒的な忠誠心だが――その忠誠心が重すぎて、俺のサボり命令すら「神の計略」に変換されてしまう。


 最強の義姉妹という強力な「遺産」を相続したはずなのに、その三人をフル稼働させて、文字通り命懸けで防波堤にしないと、近い将来俺の首が物理的に飛ぶ。


 サボるために、死ぬ気で働かなきゃいけない矛盾。


 俺は静かに報告書を閉じ、月明かりに照らされた白壁の街並みを見つめながら、心の底から、魂の叫びを漏らした。


「……最強の遺産はありがたいけどさぁ! 防波堤にしなきゃいけない敵が多すぎるんだよ! やっぱ後継なんかやめて、今すぐ帝国に領土丸ごと返納してぇよ……!」


 平穏を愛するもやしっ子領主ラインの、必死の「生存戦略」が、こうして最悪の形で幕を開けたのである。

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