1 因縁の再会
藤野優輝が青柳家との因縁を改めて学んだのは、大学受験に失敗して浪人生活を送ることになった時であった。
予備校への入校手続きを終え、生活に便利なアパートも決まり、引越の片付けもあらかた済んで、煩い母親を駅の改札まで見送り、新しい我が家へ帰ってほっと一息つく。
実家を離れたのも、一人暮しも初めてである。家具など新しく買い揃えたため、部屋の中は見慣れないものばかりで、まだ自分の家という実感が湧かない。今晩の夕飯は母が作りおいてくれたのだが、まだ食べるには早い。
差し当ってすることが思いつかず、優輝はテレビの電源を入れて漫然と画面を眺めた。どの番組を見ても、興味を惹そそられない。
表が騒がしくて集中できないせいもあった。壁の防音効果が高い、と不動産屋は薦めていたが、この分では余り当てにならない。
そのうち、騒音の原因は引越業者が出入りしているせいだとわかった。そう言えば隣室は空室で、引越の挨拶用手拭が一つ余っていた。また挨拶に行かねばならないのだろうか、と考え優輝は面倒に思った。しかし、僅かな期間とは言え、自分の方が先輩であることに気付き、向うから挨拶に来ると思い至った。
やがて、人々が去る気配がして、表も静かになった。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。優輝はテレビを消して玄関へ出た。
「引越のご挨拶に伺いました」
覗き窓から窺うと、縁の太い眼鏡をかけた若い女性のようである。声も若い。女子大生でありませんように、と自らが予備校生である引け目から密かに祈りつつ、優輝はドアを開いた。
「この度、隣に越してまいりました青柳と申します。宜しくお願いいたします。それから、お近づきの印に、こちらのタオルをお使いください」
淀みなく定型の挨拶を述べ立てる女の顔を、優輝はまじまじと観察した。手は自動的にのし紙を巻いたタオルを受け取っている。
「それでは、お忙しいところを失礼いたしました」
女は、一礼して帰ろうとした。閉められかけたドアを、優輝は慌てて押し戻した。
「ちょっと待て。お前、青柳だろ」
「はい。そう申しましたが」
青柳は、不審な顔付きで歩みを止めた。その黒縁眼鏡には記憶がない、しかし……。優輝は玄関から顔を出したまま、辺りの様子を窺った。幸い、人影はない。
「同級生の、青柳影美だろ」
「覚えておいででしたか」
青柳の表情が心なしか和らいだ。優輝は青柳が認めたことで、却って混乱した。
覚えているなどというものではない。青柳は、優輝の幼馴染である。幼稚園から高校まで同じ学校に通っていて、クラスも同じだった。
家も近所なので、行き帰りが一緒になることも多かったが、周囲に誤解されて揶揄われたくない年頃で、敢えて親しくしなかった。
青柳も今春、大学へ入学しないことは聞いている。よりによって優輝の隣室へ同時に越してきて、その上初対面のフリをするなど尋常でない。とぼけるにも限度がある。
青柳の方は、落ち着き払って優輝の次の言葉を待つ風である。
「まあ、ここで立ち話もなんだから、ちょっと入ってくれ」
軽い気持ちで言ってしまってから、男の部屋へ若い女を誘い入れることの是非について疑問が脳裡をよぎったが、青柳は優輝の躊躇いに気付いた様子もなく、素直に中へ入った。
一人暮し初めての来客である。お茶を淹れなければ、という義務感に駆られ、茶筒や湯呑を探し出し、慣れない手付きでそれらしい物を出すことができた。
「ご丁寧に、恐れ入ります」
青柳は一礼した。中へ招き入れたものの、優輝は何から話をしてよいかわからなかった。高校時代と違い、彼女の他人行儀な態度と言葉遣いにも戸惑った。
「お前、眼鏡かけていたっけ?」
「受験勉強で目を悪くしました」
間髪入れず、淀みない答えが返ってくる。話が途切れた。優輝は間を持たせるために、茶を啜った。青柳も同様にする。逡巡した末、優輝は単刀直入に聞いてみた。
「お前、どうして俺の隣に来たわけ?」
青柳は驚いたようにメガネの奥で目をみはった。
「まさかとは思いますが、優輝様は、ご存知ないのですか」
そこで初めて、優輝は青柳家の長子が藤野家の長子に仕えるしきたりについて青柳から説明されたのであった。優輝が母から聞いているのは、藤野家の歴史ぐらいで、それも青柳家との関わりについては、きれいに省かれていた。
「優輝様が十歳になられる正月に、ご当主の儀式をなさいまして、その席で私、守護人としてのご指名を受けたのですが、お忘れに?」
青柳に遠慮がちに言われて、優輝は漸くその儀式の意味が理解できたのであった。
儀式らしい出来事は記憶にあった。母と誰か近所の大人達が難しいことを色々述べ立てて、優輝も予め練習させられた台詞を決められた場面で言う、意味の分からないものとして残っていた。
優輝がそのことを話すと、青柳が彼の顔を注視した。
「わかりました。それで、お館様が優輝様を不自然に見えないようお守りせよと、私共に命ぜられていたのですね。もしかしたら、記憶を多少いじられているかも。守護人は基本的に御当代様にお仕えするものです。本来、御当代様の命令が最優先ですが、優輝様から特にお話がなかったので、私もそのままにしておりました。すると、空き部屋がなかったとはいえ、このようにお近くでお守りするのは、お館様のご意向に背くことになりますね」
私、何処か他を探して……と立ちかける青柳を、優輝は慌てて遮った。
「ちょっと待て。そんな、来たばかりですぐ引越なんて大変じゃないか。別に俺は気にしない。要は俺がいいって言えば解決するんだろう。お袋には俺から言っておくから」
優輝が懸命に止めると、青柳はうっすら頬を染めて俯いた。思えばこの頃は、まだ可愛げがあった。
「あのう、本当に申し訳ございません。優輝様を誘導するような言い方をして。本当に、私引っ越すのは手間でもないので、どうか私にお気遣いなさいませんよう」
「俺が決めたことだから、青柳が謝ることはないだろう。それより、その言葉遣い何とかならないのか」
自分が誘導されたと思いたくない優輝は、むきになった。
青柳を帰した後、家へ電話をして聞いた話の真偽を問い質すと、母は勢い込んで誰から聞いたのか逆に質問してきた。
守護人からだ、と答えたのがいけなかったのか、受話器から唾が飛び出す勢いで呪詛の言葉が撒き散らされたので、面倒臭くなり優輝は途中で電話を切ってしまった。
翌朝、落ち着きを取り戻した母からの電話で叩き起こされ、優輝は青柳の話が真実であると確認した。青柳の部屋が隣と知ると、母は青柳の心配通り文句を次々と言い立てたが、最終的には渋々折れたのである。
後から考えると、青柳がわざわざ隣へ越してきたのも、女の一人暮らしでありながら引越しの挨拶に来たのも、守護人として、母から優輝へ指揮権を移譲させるためだった。
知らぬ人ばかりの土地で、本人に知らせないまま、面の割れた人間が護衛を務めるのは無茶だと思ったのだろう。優輝は一人息子で、父を早くに亡くしている。母は厳しい反面、過保護でもあった。
だからこそ、優輝も合格ラインの受験に失敗した母の動揺を利用して、家を出ることにしたのだ。
守護人という家と家との取り決め自体が時代錯誤ではあるが、勝手に役目を降りることも命令に逆らうことも許されない青柳としては、ぎりぎりの判断だったのだ。
そして、その判断は正しかったと優輝は思う。
こうして優輝と影美の付き合いが始まった。




