狩場にて
エールゲートに連れて来られてから半年近くが経っていた。
機械的にそつなく公務をこなし、疲弊する心を誤魔化し、騙しながら空虚な日々を過ごす。
それでも、リカルド王子の姿を見ない分、心を揺らされずに済み、遥かに楽になった。
…改めて、初恋の重みを思い知った。
生前の世界では相手が無関心だったからこそ心残り程度で済んだが、まさか…その相手から強い関心を持たれる事でここまで自分の心を掻き乱されるとは思わなかった。
ここにはグレイスのように自分を陥れようとする者もいなければ、自分に王族との婚姻を急かし、諫言をしてくる神官や賢者もいなかった。 ただ、彼らは自分がリカルドを遠ざけている事を察し、それとなくその理由と真意を探ろうとしてきた。
リカルドは家臣は勿論、城中のほぼ全てと言っていい程の人々から絶大な支持を受け、心から慕われていた。彼には他に二人の異母兄弟となる弟王子が居たが、その彼らもエレザが面会して話をする限り、心からリカルドを敬愛して王位への未練は感じられなかった。 寧ろ、兄が王位を継承した後、その手足となって命を賭す覚悟さえ会話の節々から感じられた。
リカルドがそれだけの実力とカリスマを持ち合わせているのは容易に伺えた。
何しろ、聖奪に成功したのは過去に一例しかなく、他は失敗するか、失敗を恐れて挑戦する事すら諦める国ばかりだというのに、彼は数少ない成功者の一人として歴史に名を刻んだ。 …ちなみに、過去唯一の成功例とは例の聖奪戦のシステムそのものを提唱した侯爵であり、その立場と経緯からしてそれが侯爵の実力だけによるものかどうかは怪しい。 何しろ発起人だ。自分の状況と当時の聖女保有国を比較して自分の有利になるよう目論んでいた可能性もある。
それに対して、リカルドの功績は誰の目にも明らかな実力によるものだ。
これで彼は、常勝無敗の記録に輝かしい記録をまた一つ上書きしたのだ。
…だからこそ、賢者や神官、家臣らの次なる願いは決まっていた。
聖女とリカルド王子の婚姻。
婚姻し、妻となった聖女に聖奪は適用されない。 エレザが存命の限り、確実に聖女をこの国に置くことができる。
彼らはヴィントランドの家臣団に比べて、そこまでグイグイと自分に婚姻を押し付けるような事はしなかったが、言動の端々からそれは滲み出ていた。
ある時、御用聞きに回っていた際に大臣の一人がポロリと零した。
「この話をすることはリカルド殿下に慎むよう命じられているのですが、私はやはり聖女様とリカルド王子以上の素晴らしい巡り合わせは無いと…」
そこまで言いかけて大臣は口を噤んだ。
城中、国中から一方的にその期待が自分に圧し掛かってくる。
…その期待に応じるべきだ、と囁く自分がいる。
いや、何としても耐え抜き、ヴィントランド軍…レイ達が聖奪戦を仕掛けてくれるのを信じて待とう、と抵抗する自分がいて、それがせめぎ合っている。
四ヶ月前、手紙が返って来た。その時は本当に嬉しかった。
レドからの返事は「クッキーが無くなった。 作って送ってくれ」というそっけない、レドらしいもの。
ヴォルトからは「日々精進し、いつか雪辱を晴らさん為…」という彼らしい硬い調子の返事。
アレスタからは…返事が無かった。
レイからの返事は「元気にしているか?」「酷い事はされていないか?」という心配と、「俺も諦めないから、君も耐えてくれ」という励ましの言葉だった。
返事を書いている最中は全てを忘れて無心になれる。幾分か、最初の頃に感じた心の乱れは落ち着いてきた。 手紙の行きと帰りで最低でも一ヶ月近くかかってしまうため、月に一度の楽しみとなっていた。
返事を一向に返さないアレスタに向け、二度目の手紙を送ったところ、「言葉を考えて書くのって苦手でね。悪く思わないでくれる?」 という短い返事が返って来て苦笑した。
ヴィントランドは郵便によるネットワークと通信網が他国に比べて発達し、誰でも気軽に郵便を利用できた。 しかしヴィントランドが現代の郵便システムに近かったのに対し、この強大国であるエールゲートでは郵便局すらなく、そもそも郵便によるやり取りをするのは主に有力な貴族家か寺院、そして商会が代表として使者を介して重要な通信や情報交換をする為に行うものであり、下手をすると字を書けない者すらいる。
レイ達が返事を書けたのは軍学校で学んだからだった。
そのレイ達とのやり取りも城に到着し次第、他国からの通信という事で城の憲兵部によって検閲された上でエレザの元に届く。 彼らは言葉を濁したが、エレザからの手紙も同様に、まずは憲兵を通してから送られると考えて良いだろう。もし、軍事的にエールゲートの不利になる情報が確認されれば黒塗され、逆に有益な情報があれば彼らがその情報を収集するだろう。 もっとも、彼らとの文通は極めて日常的なささやかなやり取りであり、何らそんな情報はお互いに送り合わなかったが。
一月前のレイからの手紙では、グリフォンズは解散され、それぞれが別の部隊に散って新たな任務に就いているという直近を知らせる内容だった。
…あの四人がバラバラになってしまったのは、エレザからしても寂しかった。
そんなある日、エヴァンスが主催する狩猟が執り行われる事となり、自分も同行するよう誘われた。
狩りを見たいとは思わなかったが、王の誘いを無下に断る訳にも行かない。あくまで見物として同行に応じた。
日差しがまだ熱気を帯びる秋空の下、 騎馬の男達が一頭の鹿を追い立てる。猟犬が獰猛に吼えながら鹿の行く手を遮り、退路を絞っていく。
鹿は何度か逃れようと機敏にターンをしては必死に駆けるが、とうとう男達の放った矢を前脚付け根の後ろ…急所に受け、跳ねた宙から甲高い悲鳴を上げてそのまま力なく崩れ落ちた。
「…」
目を閉じて俯く。 …やはり何かしら理由をつけて断ればよかった、と後悔していた。
「…申し訳ありません。 護衛を命じられまして。 …狩場は危険ですので、どうか今日だけ、お側に仕える事をお許しください」
隣でエレザの跨る馬の番をするリカルドが、心底申し訳なさそうに見上げてきた。
「は、はい…」
応じてしまってから、何と気の利かない返事かと自分を忌々しく思った。
…このままでは気まずい。せめて、誤解がないようにハッキリしておかないと、却って心苦しくなる。
「…すみません。王子殿下の事ではありません。 その…動物を射る瞬間を見るのが苦手で…」
「それは…気が至らず申し訳ありませんでした。 この狩りは父と、諸侯の親睦を兼ねた遊興でして。 …もしよろしければ場所を狩場の外へ変えられますか? 今日は暑いですし、丘を登った先に美しい泉があります。 そこで狩りが終わるまで涼まれては?」
エレザにとって是非もない誘いだった。 後押しするように熱気を帯びた日差しが照り付けて来る。 扇子は貰っていたが、ハンディファンが恋しくなる。
撃たれた獲物の悲鳴も聞かずに済む。
「…すみませんが、是非お願い致します」
「はっ。御案内させて頂きます」
リカルドも自らの白馬に跨り、エレザの乗る馬を引いてゆっくりと歩き出した。
二人に続く四竜騎兵の、その中でもごく限られた親衛隊の騎兵十騎が駆け寄って来た。
「ロロスの泉に向かう。 先行し、周囲の安全を確保せよ」
「ハッ」
騎兵達が駆け去っていく。
「…やはり私が傍にいない方が、聖女様のお心が安らがれるようですね」
前を行くリカルドが唐突に、寂しげに苦笑して言った。
「い、いきなり何を…」
「依然お疲れのようですが、それでも最後にお会いした時より覇気が戻られたようにお見受けしましたので。 …やはり私が問題だったようです」
「それは…あの時は急な環境の変化に気持ちの整理がついておりませんでしたので」
…これは多分に嘘を含むが。 それを見抜くように、リカルドは静かにエレザを見つめた。
「そ、それと、手紙でヴィントランドの親しかった人達と文通ができるようになったので。おかげで大分落ち着きましたから」
これは本当だ。
「それは何よりです。 文面で人と心を通わせ合うのは良い事です。 …もっとも、私の場合は主に社交辞令の文句に隠した諸国や諸侯との腹の探り合いになってしまいがちですが」
「は、はぁ…」
文字一つに隙を見せられないやり取りというのも、胃が痛くなりそう…
そんな事を思っていると、リカルドが更に続けた。
「文通のお相手にはあの青年も?」
「えっ ええ、まぁ…はい」
「彼は…快復しましたか?」
「はい。既に激しい訓練にも臨んでいるそうです。今は騎士隊長として数百人の部隊を預かって、辺境の警備に当たっているとか。 …私はもう少し安静にした方が良いと返事を書くのですが、彼は中々頑固な所があって…」
エレザは自分の乗る馬の鬣を撫で、レイのそんな頑固で一途な面を危惧しつつも恋しく思いながら語った。
リカルドがその顔を神妙に見つめている事にも気付かず。
「…そうですか。 それは良かった。立場の違いはありましたが、次に彼と相まみえる時があれば、その時は剣ではなく…好敵手として言葉を交わしたいものです」
一瞬、リカルドの声に微かな淀みを感じて顔を上げるが、リカルドは微笑を浮かべたまま進み続けている。
「見えてきました。あれです」
ターコイズブルーの泉が見えた。広さは学校のプールを円形にしたような規模だったが、神秘的に光を吸い込む青く透き通った美しい泉に目を奪われた。
思わず腰を探ろうとしてしまった。
(…スマホなんて無いんだった…)
「…とても綺麗な場所ですね。それに涼しい」
泉の周りを広葉樹や白樺の木々が覆うように囲んで、日陰が作られていた。まるでドームだ。贅沢な半屋内プールと言ってもいい。
周囲に警護としてついている筈の騎兵達は二人に気を遣って完璧に気配と姿を消しており、馬の吐息さえ聞こえない。
「お気に召して頂ければ何よりです。 …実は自分の幼少期からの数少ない遊び場の一つでして。幼い頃、エレザ様と同じように獲物の悲鳴に耐えられずにいた所、今は亡き教育係が案内してくれたのです。 …お気に入りの場所、というやつです」
「それならわかります。…私にもそんな場所がありました。 この美しい泉には敵わないかも知れませんが…それでも私にとって、かけがえの無い場所が」
その風景を懐かしみながら、透明な泉の水を手に掬った。
出会いの場所…クローバーの聖域。
二人だけの秘密の場所。
…聖女の力に目覚めなければ、三年ぶりにあの場所で再会しようと決めていて果たせなかった。
「…」
エレザの物憂い横顔に見惚れつつ、リカルドは唇を噛んだ。
…きっと、その場所にはあの青年も居たのだろう。 尋ねるまでもなく、エレザの寂しげな、過去を愛おしむ横顔が如実にそれを物語っていた。
その横顔に見惚れると同時に、胸を焼くような感情が、小さな火種のように灯る。それはリカルドにとっても初めて経験する感情であった。
(…これが…)
どのような困難な戦場においても完璧に自身の感情をコントロールし、徹底して冷静で在れる自分。 聖奪に失敗して全ての民や後世に戦犯として蔑まれ続けるプレッシャーさえ物ともしなかった自分。 …その自分でも完全に抑え込むには、手に火傷をしてしまうほどの、殺せない感情。
それでも覆い潰そうとすると、火傷した手の間から更に強烈な感情が自分の胸を焦がす。
これまで感じていた微かな胸の閊えが、小さな炎へと変わっていく。
…自分にとって聖域であるこの泉に、正当なる所有者が居たとして、その主に「泉を返せ」と言われたら従うか?
従わない。これはもう、亡き人との思い出を刻んだかけがえの無いものだ。
なら泉を彼女に置き換えたら?
自分は…
「てっ、敵襲ッ!」
「オオオオオ」
人外の声が聞こえたかと思うと、そこかしこで馬の嘶きと喊声、金属音が響き渡る。
咄嗟にエレザを庇って立ち、腰のサーベルに手を掛けた。
騎兵隊長が馬に跨ったまま駆けてくる。
「モンスターでございます! ブラッターデーモンおよそ八! 最接近されました! …申し訳ありません!」
「隠密を得意とする難敵だ。気に病むな。 …左右に別れ、敵を分断しつつ味方陣地に引き込んで倒せ。北側の陣地はこちらに向けて防備してある。数の多い敵団をそちらに誘導せよ。 …無理を言うが、くれぐれも死ぬな」
「はっ! 殿下と聖女様さえご無事である限りは!」
騎兵隊長がすぐに踵を返して戻った。
「エレザ様、馬に…」
乗馬を手伝おうとエレザの傍に寄った途端、二人の頭上を何かが通過した。
次の瞬間には圧し折られた丸太が馬達の足元に突き刺さり、驚いたエレザの馬が逃げ出してしまった。 白馬も驚いて棹立ちになるものの、主人であるリカルドを置いて逃げ出す事は無かった。
「しまった、馬が… 失礼ッ!」
「わっ…」
リカルドは軽々とエレザを抱え上げて先に白馬に跨らせ、自身も馬に跨った。
「どうか私にしっかり掴まっていて下さい。 暫し御辛抱を!」
軽く打つと、白馬は心得たように駆け出す。
両脇から二体の黒々とした人型…に近い異形が追いかけてくる。
手足が二対ずつ。姿を見られるまでは腕に当たる四本の手もついて、八本足で…まさにゴキブリのように悍ましく、ほぼ無音で並走していたが、二人に存在を認識された今は、四本の足を不気味なほど小刻みに動かして、馬にさえも追いつかんと高速で駆けてくる。
赤い四つの目が自分達を捉え、執拗に迫る。
「きっ、気持ち悪い…!」
思わずエレザはリカルドの背中にしがみ付いて震えた。 あまりに生理的嫌悪感を掻き立てる存在だった。
馬に追いつきかけた一体が、馬の足に向けて手を伸ばす。
リカルドがサーベルを薙ぎ、すんでの所で黒い三本指の手を切り落とした。
「ギィイィィッ!!」
片腕を斬られたブラッターデーモンが失速し、取り残されていく。
もう一体がエレザに向けて手を伸ばす。
「貴様ッ…」
異様な風音と共に振り下ろされた剣が、その腕をまとめて叩き斬る。更に勢いに任せて突っ込んで来た異形の昆虫じみた顔面にサーベルを深々と突き刺すと、絶叫が響き渡った。
「ギィァアアァッ!!」
凄まじい悲鳴を上げ、最後のブラッターデーモンがその場に崩れ落ちた。
二人が狩場を守る本隊の元へと辿り着くと、丁度味方の軍勢がブラッターデーモンを追い払った所だった。
兵や城の者が歓喜しながら駆け寄ってくる。
「で、殿下! 聖女様! ご無事で何より…! すぐに陛下にお知らせしろ!」
「それにしても流石は殿下。 ここから見えましたぞ。 四竜騎士でも十人掛かりで仕留めるあのブラッターデーモンを、聖女様をお守りしながら返り討ちにするとは…」
「流石は剣王と名高いリカルド殿下だ」
「しかしまさかこんな所にまで魔の者が現れるとは… まさか聖女様を狙って…?」
「…魔王は聖女様の血を求めるというのは本当だったのか…?」
「おい、滅多な事を言うな…!」
周囲の騒ぎを聞きながら、エレザは改めて危機が去った事を理解した。それから自分がリカルドにしがみ付いたままであったことに気付き、慌てて離れた。
「…危険な目に遭わせてしまい、申し訳ありませんでした」
リカルドが目を伏せながら呟いた。
「い、いえ、そんな事は。身の危険を顧みず守って下さいました。 …それに、本当に素晴らしい泉でした。見られて良かった。 …安全になったら、また行きたいくらい」
そう言われ、リカルドはエレザを振り返った。
「…ありがとうございます」
リカルドは微笑で応えた。
…そして、改めて強くなる想いにようやく気付いた。
――ああ。
――俺はこの人が欲しい。 …この純粋な笑みを、その立場から許される限り独占したい。 最も長く、寄り添っていたい。
――その為には…多少強引な手を使ってでも…
ふと…瀕死の重傷を負いながらも、アンデッドかバーサーカーのように凄まじい執念で立ち向かってくる、あの男の姿が浮かんだ。
――奴も、こんな思いだったのか…
自分を見つめるリカルドの微笑に影が差すのを見て、エレザは小首を傾げた。




