第9話 内部監査——裏切りは帳簿に現れる
「名前が出ました」
シルヴィ・ノクターンは開口一番、そう言った。
魔王城の一室。窓のない石壁に囲まれた密談向きの小部屋で、琥珀色の瞳が魔力灯の青白い光を反射している。狐に似た耳が微かに伏せられていた。悪い知らせを運ぶときの癖だ。
「内部か」
「ええ。蜥蜴人族の部族長代理、ガザン。三角貿易の南部拠点を管轄している幹部です。偽造手形の術式痕跡を辿ったら、南部の工房に行き着いた」
レイは椅子の背に体を預けた。
予感はあった。偽造のタイミングが正確すぎた。手形制度の内部仕様——術式の構造、発行台帳の管理間隔、検証が手薄になる時間帯——を知らなければ不可能な精度だった。
外部の敵だけでは、ここまでの情報は得られない。
「マルグリットとの接点は」
「金貨200枚の流れを確認しました。ライゼン商会の裏帳簿に載らない別口座から、ガザンの個人資産に。時期は手形導入の直後」
金貨200枚。安い買い物だ、とレイは思った。商会の信用基盤を丸ごと吹き飛ばせるなら、マルグリットにとっては端金だろう。
問題は、ガザンが何を動機にそれを受けたか、だ。
「……ありがとう、シルヴィ。報酬は倍で払う」
「危険手当込みでお願いしますね。蜥蜴人族の縄張りに潜るの、割と命懸けでしたから」
シルヴィが去った後、レイは記録庫へ向かった。
***
フィーネは既に待っていた。
石造りの記録庫に木箱が並び、羊皮紙の帳簿が机の上に積まれている。銀縁眼鏡の奥の目は、既にいくつかの数字に見当をつけている表情だった。
「南部拠点の入出庫記録、過去3ヶ月分を引きました」
「早いな」
「疑っていましたから」
フィーネの声は平坦だったが、そこに怒りが滲んでいるのをレイは聞き取った。財務を預かる者にとって、帳簿の改竄は最も許しがたい背信だ。
二人で帳簿を突き合わせる作業が始まった。
魔石の出荷記録と受領記録の差異。中継地点での数量の不一致。現物が帳簿上より少なく、その差分がガザンの個人取引に流れている痕跡。手法は素朴だが、そもそもこの世界に監査という概念がない以上、誰も気づかなかった。
「ここ」フィーネが羊皮紙の一行を指した。「薬草200束の出荷記録。でも受領側は170束。差の30束は——」
「闇市場で換金して、偽造工房への支払いに充てた。資金の出所を隠すための迂回路だ」
投資銀行時代、不正会計の調査を手伝ったことがある。粉飾は必ず帳簿に痕跡を残す。数字は嘘をつかない。嘘をつくのは常に人間だ——あるいはこの世界では、蜥蜴人だが。
夜が更けた。魔力灯の光が揺れる中、二人は黙々と数字を追い続けた。
「レイ」
フィーネが不意に顔を上げた。
「なぜ、すぐにガザンを拘束しないのですか。証拠は十分です」
「証拠があるだけじゃ足りない」
レイは帳簿から目を離さずに答えた。
「不正の全容を数字で確定させて、損害額を1枚単位で算出する。それを商会全体に開示する。隠蔽も過大申告もしない。透明性が、次の信用になる」
フィーネが暫く黙った。
「……あなたは、数字で全てを解決できると信じていますか」
その問いに、レイの手が止まった。
前世の記憶が過ぎる。深夜のオフィス。完璧な財務モデル。完璧な買収提案書。それでも——クライアントが土壇場で翻意した夜。論理だけでは動かない、人間の感情という変数。
「信じてない」
自分でも意外なほど、素直に言葉が出た。
「数字だけでは人は動かせない。前の世界で、嫌というほど思い知らされた。だから今、こうして帳簿の前に座っているだけじゃなく、ドラグを説得し、部族長たちと酒を飲み、君に——信頼してもらう努力をしている」
フィーネの銀縁眼鏡の奥で、何かが揺れた。
「私はあなたを信頼しています。数字を正しく読み、正しく使おうとする人を、この世界で初めて見ましたから」
レイは返す言葉を探して、見つからず、代わりに帳簿に視線を戻した。
感情を認めるのが苦手な性分は、転生しても直らないらしい。
***
翌朝の玉座の間。
レイが調査結果を報告すると、空気が凍った。
「殺す」
ドラグが最初に口を開いた。赤い肌の巨躯が、怒りで微かに震えている。
「裏切り者には死を。それが魔王軍の掟だ」
「追放が妥当だ」ヴァルナキアが玉座から静かに言った。紫の瞳に感情は見えない。「処刑は部族間の報復の連鎖を生む。蜥蜴人族全体を敵に回す愚は避けるべきだ」
「追放すれば、ガザンはそのままマルグリットの手駒になります」
レイの言葉に、二人の視線が集まった。
「第三の案があります」
レイは机の上に帳簿を広げた。不正の全容を記した数字の羅列。損害総額、金貨847枚。
「まず、この数字を商会全体に開示します。全部族長の前で。隠蔽しない」
「……正気か」ドラグが眉を顰めた。「内部の恥を晒すのか」
「恥を隠す組織は、同じ不正を繰り返す。開示することで、商会が不正を許さないという前例を作る」
前世の企業統治の教訓だ。不祥事で潰れた企業の大半は、不正そのものではなく隠蔽で信用を失った。
「その上で、ガザンには契約魔法で損害賠償契約を結ばせます。金貨847枚の返済義務と、今後の取引における監査受入義務。破れば魔力的ペナルティが発動する。処刑より確実で、追放より有益です」
「生かすのか」ドラグの声には不満が残っている。
「管理下に置くんです。そして全員に見せる——裏切りのコストがいかに高いかを」
ヴァルナキアが口元に微かな笑みを浮かべた。
「……面白い。剣ではなく帳簿で裁くか」
「帳簿で殴る、が正確です」
レイは表情を変えずに言った。
***
三日後、大広間に十二名の部族長が集められた。
レイは全ての数字を開示した。ガザンの不正。マルグリットとの資金の流れ。損害額。そして、損害賠償契約の内容。
ガザンは——否定しなかった。契約魔法の前では嘘は無意味だと悟ったのだろう。蜥蜴人族の鱗に覆われた顔からは表情が読み取りにくかったが、署名する手は震えていた。
金貨847枚。その重さが、これからガザンの肩にのしかかる。
会議の後、レイはフィーネを呼んだ。
「複式簿記を導入する」
「——何ですか、それは」
「帳簿の技術だ。全ての取引を二つの側面から記録する。片方だけを改竄すれば、必ず矛盾が生じる仕組みになっている」
フィーネの目が光った。数字を扱う者なら、その意味は直感的に理解できる。
「それから、四半期ごとの定期監査。全拠点の帳簿を照合する。契約魔法で監査受入条項を標準化して、拒否できないようにする」
「監査の責任者は」
「君だ」
フィーネが一瞬だけ瞬きを多くした。それがこの実務家の、精一杯の驚きの表現だった。
「……引き受けます」
レイは頷いた。
偽造手形という弾丸は、結果的に商会を強くした。危機は——正しく処理すれば——組織を鍛える。
だが、これで終わりではない。マルグリットは内部工作が失敗したことをすぐに知るだろう。次の手は、もっと直接的なものになるかもしれない。
窓の外、魔王城の塔に灯る青い篝火が、朝の光の中でもなお燃え続けていた。
——次は、こちらから仕掛ける番だ。
レイは新しい帳簿の最初のページを開いた。複式簿記の罫線が引かれた、まだ何も書かれていない白紙。この世界に存在しなかった仕組みが、ここから広がっていく。




