第10話 勇者の値段——聖剣の経済学
知らせはフィーネの伝書で届いた。
早朝、記録庫での帳簿照合を始めようとした矢先だった。契約魔法の術式が刻まれた小さな羊皮紙が青白く発光し、フィーネの几帳面な筆跡が浮かび上がる。
——『戦時徴税令、発布。勇者アルディス・ヴァン・グランハルト、魔王討伐最終遠征を王国に上奏。貴族院は即日承認。詳細は別途』
レイは羊皮紙を置き、目を閉じた。
戦時徴税。平時の税率を一時的に引き上げ、軍事行動の資金を捻出する王権の非常手段。前世の知識で言えば戦時国債の発行に近いが、この世界には国債市場が存在しない。増税という最も原始的な手段で、国庫に金を集めるしかないのだ。
問題は、その徴税対象にノヴァ・ソシエタスの人間側取引先が含まれることだった。
***
三日で状況は悪化した。
山岳交易路を通じて取引を拡大していた自由都市群の商人たちから、次々と取引縮小の通知が届く。戦時徴税の税率は通常の二倍。加えて、魔族との取引を行う商人には『敵性取引加算』として更に三割が上乗せされるという条項が付いていた。
「マルグリットの差し金だな」
レイは魔王城の執務室で、届いた書簡の束を前に呟いた。
戦時徴税そのものは王権の正当な行使だ。だが敵性取引加算は明らかに後付けの条項で、実質的にノヴァ・ソシエタスとの取引を狙い撃ちにしている。法案の文面を起草したのは貴族院のライゼン派だろう。
フィーネが対面の椅子に座り、手元の帳簿に目を落としたまま言った。
「人間側取引先の七割が取引の一時停止を通告してきています。残り三割も取引量の大幅縮小。山岳交易路経由の売上は、先月比で62%減の見込みです」
「魔族領内の三角貿易は」
「影響は限定的です。ただし、人間領への出口が塞がれれば在庫が滞留します。手形の信用にも——」
「波及する。分かっている」
レイは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
偽造手形事件を乗り越えて、ようやく手形制度が軌道に乗り始めたところだった。手形の価値は、最終的に金貨と交換できるという信用に支えられている。その金貨を稼ぐ人間側との交易が止まれば、手形は紙切れに戻る。
——典型的なリクイディティ・クライシスの前兆だ。
流動性の危機。資産はあるのに現金が回らない。前世で何度も見た光景だった。違うのは、今回の危機が市場の自然発生ではなく、政治的に仕掛けられたものだということだ。
「勇者の遠征にいくらかかるか、試算できるか」
フィーネの眼鏡の奥で、目が鋭くなった。
「……やってみます」
***
フィーネの試算は翌日に上がった。
レイはその数字を見て、思わず口笛を吹きそうになった。
勇者パーティーの遠征維持費。兵站・装備・聖剣の魔力維持・随行部隊の給金・補給線の確保——全てを合算すると、一日あたり金貨約340枚。最終遠征の想定期間が三ヶ月として、総額は金貨3万枚を超える。
「王国の年間歳入が金貨12万枚前後だとすると——」
「歳入の四分の一です」レイの言葉をフィーネが引き取った。「しかも戦時徴税の増収分を全額充てても、なお金貨8000枚ほど不足します」
「不足分はどうする」
「おそらく、ライゼン商会からの戦時融資でしょう。マルグリットにとっては貸しを作る絶好の機会です」
レイは頷いた。マルグリットは遠征を支援することで王室への影響力を強め、同時に敵性取引加算で競合を潰す。一石二鳥。いや、三鳥か。遠征が成功すれば魔族領の資源を独占できる。失敗しても王室への債権が残る。
——彼女の投資判断は、正直に言って見事だ。
だが、見事な戦略にも弱点はある。前提が崩れれば、全てが崩れる。
「フィーネ、この試算を清書してくれ。それと——」
レイは一瞬だけ迷い、それから言った。
「アルディスに面会を申し入れる書簡を書く。俺が口述する」
フィーネのペンが止まった。
「……勇者に、ですか」
「ああ。俺を追い出した男に、もう一度会いに行く」
***
面会の場所は、人間領と魔族領の境界に近い街道沿いの宿場だった。ヴェルデンから半日ほど南、遠征軍の前線補給拠点が置かれた小さな町。
レイが護衛なしで現れたのは計算だった。武力で来たのではないという意思表示。ドラグは激怒したが、ヴァルナキアが許可した。
「……来たのか」
アルディスは宿場の二階、作戦会議用の部屋でレイを迎えた。金髪は以前より長くなり、聖剣が壁に立てかけてある。変わったのは、目の下に薄い隈が刻まれていることくらいだった。
遠征の準備は順調ではないのだろう。レイにはそれが分かった。
「単刀直入に言う」レイは対面の椅子に座り、一枚の羊皮紙を卓上に広げた。「この遠征は、王国の財政を破綻させる」
アルディスの表情が固くなった。
「何の話だ」
「数字の話だ。遠征の総費用は金貨3万枚を超える。王国の歳入の四分の一だ。戦時徴税を加えても8000枚足りない。不足分はライゼン商会が融資するだろうが、それは王室がマルグリットの債務者になるということだ」
「俺は聖剣に選ばれた勇者だ。金勘定は——」
「お前の仕事じゃない。知ってる」レイは遮った。「だが、お前の遠征を支えている兵士の飯は金で買っている。補給馬車の車輪も、治癒薬も、野営の天幕も、全部金だ。金勘定はお前の仕事じゃないが、お前の仕事は金勘定の上に成り立っている」
アルディスの拳が卓を叩いた。
「帳簿屋風情が——」
「帳簿屋風情に追い出されたのが悔しいか」
沈黙が落ちた。
レイは自分でも驚くほど冷静だった。かつてこの男に追放通知を突きつけられた夜、腹の底で燃えていた感情は、もう灰になっている。今ここにあるのは怒りではない。計算だ。
「三ヶ月の遠征で魔王軍を倒せる保証はない。倒せなかった場合、王国は歳入の四分の一を失い、ライゼン商会への債務を抱え、戦時徴税で疲弊した民が離反する。お前が背負っているのは聖剣だけじゃない。この国の財政そのものだ」
アルディスは黙っていた。羊皮紙の数字を——おそらく初めて真剣に——見ていた。
「……それで、どうしろと言うんだ」
「遠征の規模を縮小しろ。全面戦争ではなく、限定的な交渉による停戦を——」
「魔族と交渉しろと?」
アルディスの声に、侮蔑が混じった。だがその侮蔑は、かつてレイに向けられたものより幾分か弱かった。
「俺はそうした。そしてうまくいっている」
「お前と俺は違う」
「ああ、違う。お前は聖剣を持っている。俺は帳簿しか持っていなかった。だが——」
レイは立ち上がった。これ以上は無駄だと分かっていた。種を蒔くことはできても、芽を出すかどうかはアルディス次第だ。
「数字は嘘をつかない。この羊皮紙は置いていく。読むかどうかはお前が決めろ」
***
魔王城に戻ったレイを待っていたのは、シルヴィからの急報だった。
「マルグリットが動いてる。貴族院に告発状を準備中——ノヴァ・ソシエタスを『魔族に与する反逆的商会』として、全資産の接収と構成員の拘束を求める内容」
琥珀色の瞳が、いつになく硬い。
「根拠は」
「戦時下における敵性勢力への利敵行為。戦時徴税令の発布で、魔族との取引そのものが法的にグレーになった。マルグリットはそこを突いてくる」
レイは深く息を吐いた。
——予想より早い。だが想定内だ。
前世の記憶が蘇る。敵対的買収の防衛策として、対象企業の社会的価値を株主に訴える戦術があった。雇用を守っている、地域経済に貢献している、この企業がなくなれば困るのはあなたたちだ、と。
同じことをやる。
「フィーネ」
「はい」
「商会設立以降の全取引記録から、以下のデータを抽出してくれ。一、王国内で商会が支払った税金の総額。二、商会の取引によって生まれた雇用——荷運び、倉庫番、宿場の従業員、全部含めて。三、山岳交易路の開通で新たに流通するようになった物資の品目と量。四、自由都市群の商人が商会との取引で得た利益の推計」
フィーネは既にペンを走らせていた。
「それを貴族院に」
「提出する。マルグリットが告発状を出すなら、こちらは実績を出す。反逆者か、それとも王国経済の新しい柱か——判断するのは貴族院の連中だ」
ドラグが腕を組んだまま、壁に背を預けている。
「それで負けたらどうする」
「法廷で負けても、数字は残る。商会が消えたら困る人間が何人いるか、貴族院の全員に知らしめる。その上で潰すなら潰せばいい——ただし、その判断の責任は全員が負うことになる」
ドラグは鼻を鳴らした。が、反論はしなかった。最近、この鬼族の将軍は数字の話を黙って聞くようになっている。
***
貴族院への提出資料は、三日で完成した。
フィーネが数字を、レイが構成を、シルヴィが貴族院内部の政治力学の情報を担当した。商会が王国にもたらした経済効果を、反論の余地がない精度で数値化した文書。
税収貢献——金貨1200枚。直接・間接の雇用創出——推定430名。自由都市群への新規流通品目——12品目、総取引高金貨3800枚。
マルグリットの告発状が届く前に、この数字が貴族院の全議員の手元に届くよう手配した。
「先手を打てたか」
「五分五分です」シルヴィが耳を伏せた。「ライゼン派の議員は数字を見ても態度を変えない。だけど、中立派が十二名いる。そのうち七名は自由都市群と取引がある。数字が刺さる可能性はある」
七名。過半数には足りないが、告発の即時可決を阻止するには十分かもしれない。
——時間を買えればいい。
時間さえあれば、数字はもっと積み上がる。商会の経済圏が広がれば広がるほど、潰すコストは上がっていく。
***
それから五日後。シルヴィの情報網が、予想外の報告を届けた。
勇者アルディスの遠征軍が、魔族領の南端に到達した。だが進軍は停止している。
理由は——補給の遅延ではなかった。
「……どういうことだ」
シルヴィは首を傾げた。狐耳が困惑を示すように揺れる。
「遠征軍の斥候が、三角貿易の南部拠点近くを通過したらしいの。そこで見たのが、鬼族と蜥蜴人族が一緒に荷を運んでいる光景。しかも武装していない。商売をしてる魔族を見たのよ、勇者が」
レイは黙った。
ガザンの不正があった南部拠点。損害賠償契約と監査制度の導入後、むしろ以前より活発に交易が行われている場所だった。不正を根絶したことで、部族間の信用が回復したのだ。
「それで進軍が止まった?」
「止まったというか——遅くなった。アルディスが斥候の報告を聞いて、半日ほど動かなかったらしい。その後も進軍速度が落ちてる」
レイは窓の外を見た。魔王城の塔の青い篝火が、夕暮れの空に映えている。
——あの数字を、読んだのか。
あるいは、数字よりも目の前の光景の方が雄弁だったのかもしれない。剣で倒すべき敵が、荷を運び、帳簿をつけ、商いで日々の糧を得ている。聖剣の切っ先を向ける先が分からなくなる——それは、勇者にとって最も恐ろしいことだろう。
レイは自分の中に、僅かな——本当に僅かな——共感の欠片を見つけて、少し驚いた。
アルディスは愚かではない。視野が狭いだけだ。そしてその視野は、今この瞬間、少しだけ広がったのかもしれない。
——だが、感傷に浸っている暇はない。
レイはフィーネの方を向いた。
「貴族院の反応は」
「中立派の三名が、告発の審議延期を提案したと。可決されるかは明日の本会議次第です」
「三名か。シルヴィが言った七名のうち三名——残り四名はまだ動いていない」
「数字だけでは足りないということです」フィーネが眼鏡を押し上げた。「彼らが欲しいのは、数字の裏にある確信——この商会が長期的に利益をもたらすという保証です」
保証。
この世界には格付け機関も監査法人もない。信用を担保するのは、実績と、契約魔法と、そして——
「……勇者が止まっている」
レイは呟いた。
アルディスの進軍が遅れている。その事実そのものが、魔族領で何かが変わりつつあることの証明になる。勇者が剣を振り下ろせない理由がある——それは、この戦争が単純な善悪の構図ではなくなっていることを意味する。
「シルヴィ、遠征軍の動向を逐次報告してくれ。進軍速度、補給状況、アルディス個人の動き——全てだ」
「了解。……で、お代は」
「経費で落とす」
シルヴィが喉の奥で笑った。
レイは新しい帳簿を開いた。ページの上部に日付を記し、借方の欄に書き込む。
『情報収集費——勇者動向調査』
その隣の貸方には、まだ何も書かない。この投資のリターンが確定するのは、もう少し先のことだ。
窓の外で、青い篝火が揺れていた。
聖剣の値段は金貨3万枚。だが勇者の迷いの値段は——まだ、誰にも算定できない。




